作品を改変しちゃう編集者の話
ぽつぽつと自分の物語を書き進めてましたが、ふと疑問に感じると延々とハマってしまうのが、助詞問題とか単語や文節の並べ順問題。
気づいてもらえなければ書き手の自己満足にしかならないんだけど、ここでリズムが狂うとそのあとに使える文のリズムや段落のテンポもおかしなことになってしまう気がして、なかなか「これでいいや」とはならなくて悩ましい。
しかも、数日寝かせて読み直すと、やっぱ前のほうがリズム良かったな、とかになるし。なんなの。
文のリズムがいいとか、テンポ良く読ませる文章だというのはよく耳にしますよね。それは結局のところ読み手によるだろうと思うのですが、やはりどこかに、より万人受けするリズムやテンポがあるのだろうな、とも思います。たとえば今のとこだって、「あるのではないでしょうか」で終わらせても構わないのに、ちょっとクド目に書いてみたりしちゃって。「終わらせてもいいのに」って書いたところを「構わないのに」に変えてみちゃったりして。
キリがない。
それでも書き手には意図したリズムやテンポがあって、そういうものも含めて文章の個性が生まれるんだろうから、なるべくこだわりたいなあとか。
で、そんなことをぐるぐる考えたら、そういえば凄いのがいたなあと思い出したので、また忘れちゃわないうちに書いときます。読み手のエゴを通したというか、ぼくのかんがえるうつくしいぶんしょうに囚われて、一線を越えちゃう編集者のお話。
例によって私が見てきた書籍編集者や編集部に限りますが、作家さんから原稿を頂いて校正作業を行う際に、編集者側で文の流れをいじることは基本的にありません。そこは作家さんの個性なので当然ですね。誤字や作家さんの勘違いによって文意が変わっていると思われる場合には、作家さんに連絡して確認したり、校正紙をお送りする際にメモ書きを添えたりして協議することはありますが、そういった場合に最終的にどのような文に修正するのかは、やはり作家さん自らの手におまかせします。
編集者と作家さんの力関係などにもよりますが、書籍編集者は誤字や脱字のチェックと、物語に齟齬が起きていないかの検証を行う役割です。これが編集者と作家さんの共同作業で物語を作っていくケースだったりすると、編集者が文体に注文をつけたりすることなんかもあるのですが。とはいえ私はそういうケースは一度しか見たことがありません。今はそういう形態も増えていたりするんですかね。
それはさておき。
しっかりした出版社だと部署専属の校閲さんなんかもいらっしゃったりして、だったら編集者が校正しなくてもよくね?と思われがちですが、「なるべく多くの目で見る」というのが校正の基本です。出版の際に誤字や脱字についていちばんの責任を負うのは校閲さんだし、役割分担的には丸投げでも問題なさそうなものですが、それをやってしまうとやはり、エラーの確率は跳ね上がります。これは校閲さんの能力がどうこうではなく、人間の限界みたいな話ですね。人間が作業をする以上は見落としがある、間違いがある。だから人を増やして、編集者もしっかり校正をやって、エラーの確率を減らす、ということです。
こういった人海戦術はゲームの開発でも使われてました。しっかり人件費をかけてデバッガーをなるべく多く雇って、バグがほとんどない状態で世に出すのが開発の責任ということですね。にもかかわらず、オンラインでパッチを当てられるようになってからというもの、ユーザーにデバッグさせるみたいな無責任なことを恥ずかしげもなく……。
それもさておき。
ともあれそういうわけで編集者も校正作業をやるんですが、これがけっこうきついときはきつい。編集者にも好みの文体やリズムがあったりするので、「合わない」文章を読み進めていく作業はなかなかのストレスとなります。
書籍編集の大ベテランとかだと、そういうとこはとっくに通り抜けてて、ただただ文字の正誤と物語の整合性だけに意識を集中できるのかもしれませんが、自分でも書きたいタイプの編集者だったり、妙な正義感みたいなものを持ってる編集者だと、「これはもはや個性ではなく、ただの悪文ではないか?」という原稿を目にしたときに、ストレスと戦うことになります。
これがこの作家さんの個性だし、これは玉稿なんだし、ぐぬぬ。
とか言い聞かせながら頑張って作業するしかないんですが、ごくまれに、「文章はこうあるべき」みたいな正義感ぽいものを持ってる編集者が、ついついやらかしてしまう悲しい事例があります。
読点が多すぎるので、こっそりいくつか削った。
代名詞が飛び交ってわかりにくいと思ったので、作中の固有名詞に置き換えた。
倒置法がしんどいので、いくつか直した。
わかるんですけどね。そういう気持ち。
鉄道ミステリーの大家とか、読点で原稿料どんだけ取ってんだよとか思ったことありますし。そもそも1文字いくらの契約でやってるのかどうか知らないので、冗談の範疇でしたけども。
しかし、文章というのは作家さんの個性であり魂であり看板であり飯のタネなので、理由がどうあれ、こっそりやっちゃダメなんですよね。ましてや編集会議にかけるわけでもなく、いち編集者の好みにしか過ぎないような判断で手を加えるとか、言語道断なわけで。
こういうサイレント修正って、作家さんにいちど校正紙をお戻ししたあと、作家さんが書き直したテキストデータを受け取った段階でひそかに行われるもので、箇所が少ないうちは意外とバレないそうです。修正後のデータで再校を出したあとに、作家さんが赤字で読点を加えることがまれにあるらしいですけど。
しかしまあ、調子に乗ってやりすぎたり、「実はあの作品、俺が手直ししてるんだよね」とか武勇伝を吹聴しちゃったりすると、まあバレます。結果、部長とか編集長が菓子折り持って謝りにいって、作家さんがもうお前のとこには書かないとか怒ったり、誠意を見せろみたいな話になったり。
私が聞いたケースのうちのひとりは、退勤中に作家さんからの連絡で事態が発覚して、「今すぐ会社に戻ってこい」という留守電をシカトして逃げ切ったらしいです。そこ謝らない選択とかあんのか。姑息なんだか豪傑なんだか……。
そういえばここ2、3年ぐらいにツイッターでも広まった話で、なかなか豪快に改変しちゃってた編集者の話もありましたね。発覚したのはまさに作家さんが校正紙を眺めてるときだった気がしますけど。
本や文章や物語が好きで出版社に入ったんでしょうけど、職域を踏み越えて、横入りみたいなことをやって作家気分を味わって気持ちよくなっちゃうとか、ほんとふざけんなっていうか。
やるならちゃんと正面から、許可を取って。「先生、こうしたほうがよくないでしょうか?」ってぐらいのことを言えるほどの関係を築ける編集者になれば、もっとたくさんの作家さんに出会えて、もっとたくさんの「俺の正義」を世に送り出せたかもしれないのに。
書き手にとって、作品とはどういうものなのか。
その程度の想像もできないような共感力しか持てないなら、なるほど人を共感させる作品など生み出せず、編集者としてくすぶるしかなかったのかなあとか、意地悪なことを思いますが。
ちなみに私は編集者という仕事が好きなので、編集者としてくすぶるとか、どういうこっちゃねん? おう?という気持ちがあります。でもまあ、「本当は作家になりたかったけど、なれなかったから編集に甘んじてる」みたいな人は、「くすぶってる」とか思ってんだろうなと。
くすぶってなけりゃ変な火はつかないですよね、という意でした。