9 氷の魔女は変化を得る
マットソン少佐と出かけた日から1月が経過し、私は魔術研究官として2年目の春を迎えていた。
極寒の雪国においてもようやく空気の柔らかくなって来た近頃、変わってきたことがいくつかある。まず一つ目は……。
「ちょっとフレヤ! ボーッと歩いてんじゃ無いわよ!」
高く通る声に呼び止められて振り向くと、そこではヒルダさんがハンカチを手に仁王立ちしていた。どうやら落としてしまったようだ。
「ヒルダさん。ありがとうございます」
「あんたって本当に抜けてるわよね! もうちょっとしっかりしてくれないと、張り合いが無いのよ」
別に張り合う必要はないと思うのだが、ヒルダさんは初めてお話しして以来、何かと声をかけて下さるようになったのだ。
「ねえちょっと、なんなのその服。はっきり言ってダサいんだけど」
「そうでしょうか」
指摘を受けて自らの服装を見下ろしてみる。黒い膝下のスカートにチャコールグレーのセーターは、家を出て初めて買った服であり、結構な安物だ。
「嘆かわしいことだわ! 本当に、どうしてこんなのがいいのかしら!」
そう、ヒルダさんはこんな風に、私の至らない点をガンガン指摘してくれる。言葉尻はきついように聞こえるかもしれないが、彼女の場合はそういう話し方なので気にすることはない。
「仕方ないわね。明後日、買い物行くわよ」
「日曜日ですね。服を選んで下さるのですか?」
「そうよ。こんなのに負けたなんて、腹が立つからいっそ磨いてやることにしたのよ」
「……? よく解りませんが、よろしくお願いします」
なんと、ヒルダさんとの買い物が決定してしまった。誰かと買い物なんて初めて。どうしよう、かなり嬉しい。
ふと周囲の人々がチラチラとこちらの様子を伺っていることに気が付いた。皆さんの視線から感じられるものは、戸惑い、だろうか。
「なあ、戦術魔術部の赤い魔女と第二研究室の氷の魔女が買い物って、かなり眼福の光景だと思わないか?」
「そうだな。氷の魔女ってのは、思ったより怖くないのか」
「むしろ赤い魔女の方が怖いかもしれんぞ」
「だったらお近付きになりたいよな」
「馬鹿かお前。無理だよ、あの英雄があんだけアタックしてんのに全然靡かないんだぞ」
小声なので何を言っているのかまでは聞こえないが、きっとヒルダさんを心配しているのだろう。彼女ほどの魔術師なら何があっても大丈夫だとは思うが、確かに私自身も絶対安心とは言い切れないところがあるのだから。
「気にすることないわよ。あんな腰抜けどもの目なんか」
ヒルダさんは射殺さんばかりの目で周囲を睨み付けると、「じゃ、またね」と言い残して立ち去っていった。
なんて格好良い女性なのだろう。
荘厳な鐘の音が昼休みを知らせている。私は切りのいいところで魔術陣の製図作業の手を止め、卓上にお昼ご飯を引っ張り出した。
「フレヤ、今日は弁当なの?」
隣の席のリリーさんもまた、手作りのサンドイッチを広げたところだった。彼女はかなりの料理上手で、以前交換してもらったバケットサンドは私のハムチーズサンドとは一線を画していたものだ。
「はい。節約したいので」
「節約? 何よ、そんなこと考えなくたって良いんじゃ無いの?」
リリーさんは目を細めて面白そうに微笑んでいる。
彼女の言いたいことが何なのか、私にはわかる様な気がした。
「ああほら、いらしたんじゃない? この音」
廊下から聞こえてくる軽快な、しかしものすごい速さの足音。すっかり聞きなれてしまったその音は、この第二研究室の前でピタリと止まり、間髪入れずに扉が開け放たれた。
「フレヤ嬢! 俺と昼ご飯を食べに行かないか!?」
太陽の様な笑みと共に現れたのは、案の定マットソン少佐だった。
そう、2つ目の変化は、マットソン少佐が日に一回は会いに来るようになったことだ。
それは朝であったり、お昼であったり、帰りであったりした。昼休みの場合は大変有難いことにお昼ご飯を奢って下さるので、リリーさんはそれを揶揄して言ったのだ。
しかし私は、胸の内に大きな戸惑いを抱えていた。
結局のところ突然のプロポーズの理由は解らないまま。出かけた先でも特別なことはなく、それが目的であったとは思えない。彼が「私の信頼を得る」ことにどれ程の重要性を見出したのか定かではないが、ともかく全てはそのための行動なのだろう。
「あら、今日も来たんですか? マットソン少佐!」
「頑張ってますね〜」
「アツいねえ! 俺たちゃ応援してるぜ!」
彼が登場するなり、研究室内がにわかに活気付く。男女関係なく盛り上がっているあたり、本当にマットソン少佐は人気者なのだ。
「ありがとうございます皆さん! 俺、頑張ります!」
マットソン少佐が勢いよく敬礼すると、一段と囃し立てる声が大きくなった。楽しそうで何よりだ。
「よお、色男。今日も涙ぐましい一途っぷりだな」
奥の机からわざわざ立ち上がって近付いて来たのはリンドマン室長だった。彼はいつもながら気怠げな様子だが、目は爛々と輝いているようにも見えた。
「リンドマン室長。どうも、お邪魔しています」
「調子はどうだ? この子、見た目と違ってど天然だからなぁ。どうせ苦労してるんだろ」
「いえ。気長に頑張ります」
「相変わらずだねぇ。ま、応援してるぜ」
「ありがとうございます!」
最初はこの二人の気安さに驚いたものだが、聞けばリンドマン室長はマットソン少佐の出兵先によく出張していて、その度に世間話をする間柄だったらしい。室長は転移魔術も使えるほどの大魔術師なので、物資を運んだり魔術武官用の術式を考えたりと、陰に日向にと大活躍だったのだろう。
「ほれ、さっさと行ってこい。昼が終わっちまうぞ」
「ええそうですね。フレヤ嬢、それじゃ」
マットソン少佐は、そこで私の卓上に置かれた包みに気がついた様だった。
「……もしかして、今日は弁当なのか?」
「ええ」
「つまりもしかして、俺とは食べる気がないと……」
それきり、彼は暗い顔をして口を噤んだ。
ただ単にパンが余っていたから持って来ただけで、別にマットソン少佐と出掛けないために弁当を持参したわけではない。しかし彼に売店に行こうと提案するのは図々しい気がして、私はどうしたものかと思案した。
「っああ! しまった、今日は一研の友達とランチに行く約束してたんだったあ!」
その時唐突な叫びを上げたのはリリーさんだった。私は脈絡のないその声にびっくりして、思わず彼女へと顔を向ける。すると、そこには満面の笑みが広がっていたのだった。
「いやだわ〜すっかり忘れてた! ねえフレヤ、このサンドイッチあなたにあげるわ。食べておいてくれない?」
「夜食にでもすればいいのでは」
「傷んだら嫌だもの。迷惑でなければ、ね?」
この北国の4月の気候では、そうそう傷むことも無いと思う。私が恐縮して受け取るのを躊躇っていると、リリーさんはぐいと私の腕を掴んで引き寄せてきた。
「このサンドイッチはあなたにあげるから、あなたの弁当はマットソン少佐に差し上げなさい」
そして小声で意図のよくわからない指示を飛ばすので、私は困惑する事しかできなかった。
「私のサンドイッチはあまり出来栄えが良くないのですが」
「そういう問題じゃないの。マットソン少佐にもそれくらいのご褒美があってもいいでしょってこと」
「これではむしろ罰ゲームです」
「ええい鈍いわねこの子は! いいからとにかく私の言う通りにしなさい、いいわね!」
リリーさんは危機的事態にでも陥ったかのような剣幕でまくし立てると、今度は強引に弁当を押し付けてきた。
そして次の瞬間、唐突に穏やかな風の吹く中庭へと放り出されていたのだった。
周囲を見渡せば足元には移動魔術陣が最後の輝きを放っているところで、すぐ側ではマットソン少佐が目を瞬かせている。
「な、何が起きたんだ、一体」