5 氷の魔女は過去を語る
かつての私はエルヴィスト侯爵家の長女として安定した暮らしを営んでいたが、その生活は息苦しさを感じずにはいられないものだった。
その理由は私の強大過ぎる魔力にある。
赤子の頃は夜泣きのたびに屋敷の周囲を吹雪が覆い尽くしたのだそうだ。腹が減るたびに庭に雹が叩きつけられ、部屋には霜が降り、気温は零下20度を記録してと、とにかく手がかかったらしい。
私の魔力の暴走を恐れた両親によって、幼い私の周りは常に使用人によって固められていた。
怪我をして泣こうものならつららが降ってくるので、万一のことがないよう床は全てマットが敷かれ、家具は最大限取り払われる。庭に出ることもままならず、家庭教師によって淑女教育を受けながら、殆どの時間を屋敷で過ごす日々。
そんな日常の中で、両親と会う事はほとんど無かった。私のことを嫌っていたからだ。
男なら魔術学校へ通うこともできるが、貴族の子女が学校へ通う事は一般的ではない。両親は悩んだ挙句、私の嫁ぎ先を見つけるために早くから奔走し始めた。
私は独学で魔術を学び、12を迎える頃には魔力を押さえつけることができるようになっていた。魔力は私を孤独にしたが、魔術を学ぶこと自体は楽しかったのだからなかなかの皮肉である。
その結果、両親は私を少しの魔力を持つありきたりな娘として、社交界デビューさせることに成功したのだった。
「フレヤ、今日も舞踏会にお出かけだって? 大変だね」
屋敷の廊下で呼び止められた私は、絹のドレスを翻して声の主を視界に収めた。
私と同じ銀の髪を窓からの夕日に染め、アイスブルーの瞳を優しげに緩ませてそこに立っていたのは、六つ年上の兄であるマティアス・ビョルン・エルヴィストだった。
「ええ、兄上。嫁ぐことは私の義務だもの」
「18の娘なら結婚に対してもっと夢を持つべきだよ。義務だなんて言い回しは嘆かわしい事この上ない」
兄上が大げさに肩を竦めてため息をつくので、私は少しだけ笑ってしまった。
屋敷の人間すべてから腫れ物扱いされる中、唯一この兄だけが、こうして私を普通の娘として扱ってくれるのだ。
いつ私が魔力を暴走させるか考えないはずはないのに。私に近づいたことが知られれば、必ず両親から叱責を受けるのに。それでも兄上は私を慈しんでくれるのだから、本当に優しく愛情深い人だと思う。
「私には選ぶ権利などないし、家格が伯爵以下で気が弱い男性を探すだけよ」
そう、結婚相手の条件は「何かあった時に丸めこめる」こと。侯爵家と親戚になれるとあって求婚者はひっきりなしだったが、その中から条件に見合う相手を見定めるのは私ではなく父の仕事なのだ。
淡々とした返事に、兄上はどこか悲しそうに微笑んで、私の肩をポンと叩く。
「それでも、僕はできることならお前に望んで結婚して欲しいと思うんだよ。今みたいな窮屈な暮らしから連れ出して、優しく受け止めてくれるような男とね。これと思う人がいたら僕に相談しなさい。どこまで良いようにできるか分からないが、言わないよりはずっと良いだろう」
「兄上……」
「今日のフレヤもとても綺麗だ。自信を持って楽しんでおいで」
「ありがとう。行ってくるわ」
兄上は最後に優しげな微笑みを一つ落として去って行った。
この冷たい屋敷の中で、私個人の幸せを願ってくれる唯一の人。兄上の幸せを、私は心から祈っている。
「では、僕はこれで。あなたを独占していると、他の男にやっかまれてしまいますから」
「ご冗談を」
「本当のことです。また会える日を楽しみにしていますよ」
心にもない美辞麗句に、曖昧な約束。もう何人目かわからないダンスを終えた私は、疲労を隠すことができずに小さく溜息をついた。
いつの間にか近くに寄って来ていた父が、私の無作法に顔をしかめている。
「フレヤ、公の場で溜息をつくな。何度も言っているだろう」
「申し訳ありません」
「少しは愛想良くしたらどうなんだ。お前がそんなでは、まとまるものもまとまらん」
父は心底忌々しそうに、私の無表情を睨みつけてくる。
確かに愛想笑いが苦手であることは申し訳なく思う。しかしこれは魔力を抑えるため、自らに冷静を課してきた副作用の様なもので、今更どうしようもないというのが正直なところなのだ。
「まあ良い、もう舞踏会も終いだ。今日のところは帰るとしよう」
「はい」
父がさっさと歩き出してしまったので、私も踵の高い靴で懸命に早歩きをする。どうせ同じ馬車に乗るというのに、極力私に近付きたくないという父の態度は、いつものことなので気にもならなかった。
馬車が屋敷の門に到着したところで、私たちは異変に気が付いた。
なぜかその場で馬車が止まり、にわかに外が騒がしくなったのだ。私は胸騒ぎがして、衝動に突き動かされるまま馬車を飛び出した。
そこには恐ろしい光景が広がっていた。地面に転がった魔術石のランプの側に、門番が血まみれで倒れ伏していたのだ。
私は門番の側へと駆け寄ったが、その傷がもはや治療不可能なほど深いことに気付いて何も言えなくなってしまった。
彼はいつも私に怯えていて、まともに会話したことは一度もない。しかし今、彼は必死の形相で私に向かって手を伸ばしつつ、血の絡まる喉から声を搾り出そうとしているのだった。
「ご、強盗が……中に。申し訳、ありませ、ん」
最後の力を振り絞った報告を聞くと、私は無我夢中で走り出していた。
ハイヒールが邪魔だったので、駆けながら脱ぎ捨てる。クリノリンで膨らんだドレスと、肺を圧迫するコルセットが煩わしくて仕方がないが、さすがにそれらを取り去る時間はない。
いつもの冷静さをかなぐり捨てた私は、一つの心配事が脳内を占拠して、頭が爆発しそうになっていた。
兄は、母は、使用人の皆は無事だろうか。門番を除き、我が家には武術に長けたものなど一人として存在しないのに。
庭を走り抜け、暗い玄関から階段を駆け上がり、私は真っ先に母の寝室へ向かった。兄なら母を守ろうとするはずなので、そこに彼等がいる可能性は高いと踏んだのだ。
そして、扉を開け放った先で目にしたものは。
剣を携えた複数の強盗らしき男の足元で、血を流して蹲る兄の姿だった。
強盗たちは、いきなり乱入した私に驚きの視線を向ける。
「兄上……あに、うえ……!」
しかしその視線を受け止めるよりも早く、私の意識は冷たい雪に覆われる様にして白く塗りつぶされてしまった。
それは、今まで生きてきた中で一度も感じたことのないほどの激情だった。
許せない。その思いだけが脳内を満たし、凍える様な白い魔力の奔流が体内を駆け抜けていく。
私が私で無くなったかのような不思議な感覚。魔力の暴走は最も忌避すべき事なのに、魔術を行使することをためらう気が全く起きない。
少し私が魔力を込めれば、たちまち凍っていく強盗たちの体。まだだ。完全に氷に閉じ込めてしまわなければ、兄にまた酷いことをするかもしれない。もっともっと、街中が凍りつくような魔術を……!
「フレヤ! よせ、お前がそんなことをする必要はない!」
白く霞む意識の中、聞き覚えのある声が、しかし聞いたことのないほどの切迫感を持って鼓膜を叩いた。
その瞬間、私はようやく正気を取り戻したのだ。
気付けば周囲は酷い有様になっていた。
全ての家具は雪と氷に覆われ、片隅では母が小さくなって震えている。強盗たちは霜に覆われながらも生き永らえていたが、その周りには太いつららが突き刺さっており、間一髪の様相を呈していた。
「あ、あにうえ……?」
そして私を抱きしめる暖かい感触。恐る恐る顔を上げれば、すっかり血の気の失せた笑みがそこにあった。
兄上は血の道を作りながらも私の元に歩み寄り、命をかけて魔力の暴走を収めてくれたのだ。
「フレヤ……よか、った……」
小さな一言を最後に、兄上は凍りついた床へと沈んでいく。全身に霜をまとわりつかせたその姿を視界に収めたのを最後に、私の意識も深い眠りへと誘われたのだった。
目が覚めた私はいきなり父上に呼び出され、ふらつく体を叱咤して当主の自室へと向かった。
扉を開けた瞬間、父上の燃えるような怒りを感じ取って体をすくませてしまう。そして浴びせられた言葉は、私を凍りつかせるのに充分なものだった。
「マティアスは左手の小指を凍傷で失った」
何を言われたのかすぐには理解することが出来なかった。執務机に腰かけたままの父上は、見たこともないほど底暗い瞳をしている。
兄上が、どうしたの。指が? 凍傷、で。
「わた、し……!」
私のせいだ。私が魔力を暴走させてしまったから。
「一命は取り留めたが、治癒魔術をかけてもまだ寝込んだままだ。強盗は無事だったのだから、どうせならこっちを痛めつけてくれれば良かったものを」
続く父上の言葉は脳内に到達せず、意味のない呻きが口から漏れたのが他人事のように感じられた。全身が震え出し、立っている事すら覚束なくなる。
「私はお前を容認しようとした。悪魔のような力を持っていても、エルヴィストの家に生まれた以上、お前にはこの家のために尽くす義務がある。……だが、もう駄目だな」
父上は静かに喋っているように見えたけれど、その瞳の冷たさは、私の事をもはや人として認識していないことを示していた。
そう、父上は怒っているのではなく、失望しているのだ。
この私に。大事な跡取りを命の危険に晒した、制御不能の魔物に。
「即刻出て行け。二度とこの家の敷居をまたぐ事は許さん」
私は呆然と頷いてその部屋を後にした。
怖い。自らの力について初めてそう思った。
なんて事をしてしまったんだろう。唯一私の事を認めてくれた兄上を、この手で傷つけてしまったなんて。
出て行けと言われなくても、きっと自分からこの屋敷を去っていただろう。もうここには居られない。私はもう、大事なものを傷つけたくないのだから。
私はその日のうちに生まれ育った屋敷を後にした。
せめて兄上に謝りたくて、必死で入院先を探した。しかしどれだけ探しても情報は入ってこず、図々しい願いが叶う事はなかった。
心が解けない氷に覆われてしまったかのように冷え冷えとしていた。元々乏しかった表情が消え去り、楽しさや嬉しさを感じる事に罪悪感を覚えるようになる。
奇跡的に拾ってもらった第二研究室の皆は、それはそれは優しかったけれど、どうしても壁を作らずにはいられなかった。
そうして研究に没頭しているうちに、時が過ぎ去っていったのだ。