18 氷の魔女は勇気を振り絞る
慌ただしくしている間に週末が過ぎ去り、月曜日がやって来た。
魔術師達は火災現場で瓦礫を片付ける作業に従事していたのだが、私は省内に残って事務処理をするよう厳命されてしまった。
いつもの人数の半分以下になった第二研究室を見渡してため息をつく。こんな時に役に立てないだなんてほとほと嫌になるが、混乱を避けるためだと言われてしまえばしかたがない。あれだけの魔力を解放して、周囲の恐れを呼ばないはずがないのだから。
終業の鐘が鳴った。居残り組の同僚たちに体調を心配され、早々に帰宅を促されてしまった私は、肩を落として第二研究室を後にした。
廊下を歩いていると、相変わらず遠巻きにした人々からの視線を感じる。いつものことだ。気にすることはない。
……気にすることはない、のに。
妙な息苦しさを感じるのは、ウルリクが優しいから。私の事を好きだと言ってくれたから、自身が人々の畏怖の対象である事が、彼に対して申し訳ないと思うのだ。
きっとこの先もたくさんの迷惑をかける。彼は本当に、私なんかで良かったのだろうか。
「あ、あの!」
「……?」
考えに沈んでいた私は、声をかけられたことへすぐに対応ができなかった。
目の前には魔術医務官の若い女性がいて、緊張の面持ちで立ち尽くしている。
「エルヴィスト魔術研究官! すごい活躍でしたね! 尊敬します!」
何故だか握手を求められた私は、流されるままに応じたものの、状況ついていけずに呆然としたままでいた。
なんだろうこれは。趣味の悪い冗談だろうか。
「あなたの研究には今後も注目させていただきます。頑張ってください!」
「ありがとう……?」
一体何だったのだろう。首をひねって考えたが答えは見つからず、気を取り直して再び歩き始める。
するとどうしたことか、次々に声をかけられるではないか。
「おっ! 見ろよ、吹雪の女神だ! やっぱ美人だよな…」
「エルヴィスト魔術研究官、お疲れ様でした!」
「今度お話聞かせてくださいね!」
本当に訳がわからない。一体全体どうしてしまったのか。
混乱の極致に叩き落とされた私は、それでも無表情のまま彼らに対応し、長い時間をかけてようやく一階へと辿り着いたのだった。
今起こった事を誰か説明してほしい。本当に全く理解ができないが、ただ一つ解った事がある。
それは、ものすごく疲れた、という事だ。
仕事上第二研究室の職員以外と接することが少ないので、どうやら急に大勢の人に話しかけられると疲れるらしい。
「フレヤ! あなたもう出てきたのね!」
「ヒルダさん」
随分懐かしく感じる声に呼ばれて振り返ると、そこには案の定ヒルダさんがいた。私はようやく一息吐いたのだが、彼女の顔色からは疲労の色が伺えた。
「体調は大丈夫なの?」
「問題ありません。ヒルダさんは大丈夫ですか」
「この3日間ずっと事情聴取の繰り返しよ。魔術武官は瓦礫の撤去にも参加させてもらえなかったの」
私の問いかけに対して、ヒルダさんは否定も肯定もせずに溜息をついた。それは面倒臭そうでいて、どこか諦めているような仕草だった。
「大変でしたね」
「仕方ないわ。うちの部長があれだけのことをやらかしたんだから。あなたにも迷惑をかけたわね」
「ヒルダさんのせいではありません」
「そう言ってもらえると助かるわ。ああ、そういえば、買い物の約束も流れてしまったわね」
そう、本来なら昨日はヒルダさんと買い物に行く予定だったのだ。私は寮での待機を厳命されてしまったため、ヒルダさんの部屋を訪ねて断りを入れようとしたのだが、結局会うことは叶わなかった。
「また暇になったら行きましょ」
「はい。楽しみにしています」
酷く残念に思っていた私は、再度のお誘いに気持ちを急上昇させた。
何故だかヒルダさんは小さく笑ったようだった。
「私も楽しみよ。それじゃあね、そろそろ行くわ」
「待ってください。お話が」
私が珍しく呼び止めるものだから、ヒルダさんは不思議そうにこちらを見つめている。けれど私がどう切り出したものかとまごついていると、彼女は察したとばかりに口元を釣り上げて見せた。
「わかってるわよ。付き合うことになったんでしょ」
「……どうして」
そう、私はまさしくそのことについて切り出そうとしていたのだ。ヒルダさんは尊敬する少佐に私が近付くのを不快に感じていたようなので、せめて正直に報告をと思ったのだが。
「だってあなた、楽しみ、のところでちょっと笑ってたもの。前は全然表情なんてなかったのにね。あの方があなたに笑顔をくれたんでしょう?」
あまりにも的を射た指摘に、私は思い切り赤面した。そんなに判り易かっただろうか。
「あ、今度は赤くなった。かわい〜」
「からかわないでください」
「ごめんごめん。つい」
ヒルダさんは心底面白そうに笑うと、次に瞳を優しく細めた。
「私が最初にあんなことを言ったから、気にしていたのね。もういいのよ、私が悪かったわ。あなたはマットソン少佐にふさわしい女の子だと思う」
「ヒルダさん……」
「おめでとう。幸せにしてもらいなさい」
ヒルダさんはいつものように颯爽と去って行った。その背中には疲労の色は微塵も感じられず、むしろ吹っ切れたような清々しささえ纏っている。
私も歩き出した。人に祝福を受けるという得難い経験を胸に。
それは予想だにしない出来事だった。
私の歩みは寮の前までやってきたところで唐突に止まる。
そこには豪奢な馬車が止まっていた。そして馬車にあしらわれていたのは、近頃は随分遠ざかっていたはずの見慣れた家紋。
あの馬車に乗る事ができる者はそうはいない。緊張に動けなくなった私は、中から降りてきた人物を見て血の気を失った。
「久しぶりだな、フレヤ。元気にしていたかね?」
記憶の中と寸分違わぬ姿をした父がそこにいた。
どうして。どうしてここに。あの時、あなたは私に絶縁を突きつけたはず。それなのに、どうして会いに来るの。
私はすっかり動揺してしまって、挨拶を交わすことすらできなかった。しかしその事を気にした様子のない父上は、機嫌の良さそうな笑みを貼り付けて歩み寄って来る。
「聞いたぞ。今度の活躍は、見事だった。私も鼻が高いよ」
「な……に、を」
「久しぶりにお前と話したくなってね。屋敷に帰ってこないか?」
心臓が大きく跳ねた。
帰る? 私の罪の発端となった、暗く冷たいあの屋敷へ。今になって父上は私のことを認めてくれた……?
それを強く望んだ時期もあった。私はいらない子。だから父上は早く嫁ぎ先を見つけようと躍起になっているけれど、頑張ればいつかは認めてくれる。魔力を制御できるようになれば、きっと受け入れてもらえるのだと。
けれど、今は。
「……い、いいえ。私は、帰りません」
父親に対して意思表示をするのは初めてのことだった。
声が震え、握りしめた拳もじっとりと汗ばんでいるのがわかる。それでも、今伝えなくていつ伝えるのだという思いが私を突き動かしていた。
「私は今の暮らしが一番幸せなのです。自由に魔法について研究し、誰かのためになる魔術を生み出すために邁進することは、かつては贖罪でした。ですが、今は違います。これこそが私の望みなのです」
ずっと苦しかった。けれど今は素直に魔力と向き合っていこうと思える。それはきっと、あの人のおかげ。
「今の環境を与えて下さった全ての人に感謝しています。父上、あなたにも。私はただ、あなたが元気に暮らしてくださる事を願っています。ですから」
そこで強い力で腕を掴まれて、私は言葉を切った。
見れば憤怒の形相をした父上が右腕を掴んでおり、久しぶりに見るその表情に私は竦んでしまった。
「ふざけるな! 育ててやった恩も忘れ、勝手な事を。怪物ならせめて、親の言う事くらい聞いたらどうなんだ!」
怪物。実の親から浴びせられた罵倒に、冷や水を浴びせられたような気分になった。
誰に罵られようとも、誰に怯えられようとも気にならなかった。けれど今、父親からぶつけられた蔑みに、私は自分が傷ついている事に気が付くことができた。
私はこの人のことを親だと思っているけれど、この人は私のことを娘などとは思っていない。冷え切った親子関係を突きつけられて、鉛を飲み込んだように胸が苦しくなる。
「とにかく馬車に乗れ! お前にはエルヴィストに戻ってもらう!」
強引に腕を引かれ、囚人のように引きずられそうになるのを懸命に堪える。
「嫌! 離して!」
嫌だ、行きたくない。あそこには戻りたくない。助けて。誰か、ウルリク……!
目をつぶって祈った時のことだった。不意に手首の拘束が解け、私は導かれるようにして瞼を持ち上げる。
そこには驚きの光景があった。父上の右腕を掴み上げていたのは、ウルリク・マットソンその人だったのだ。