14 氷の魔女は吹雪を呼ぶ
燃え盛る炎の中にあって、不安と焦燥から体が冷え切っていたらしい。抱きしめられた瞬間に感じたのは、温かいという事のみだった。
「君は何も心配しなくていい。もし魔力が暴走しても、俺が必ず止めてみせるから」
炎が唸り声を上げ、建物の爆ぜる音と混じって鼓膜を叩く。しかし恐ろしいはずのその音も、この状況においては遠く聞こえた。
「それに、どうしても恐ろしいなら無理をする必要はないんだ。君のしたいようにすれば良い」
どこまでも優しい声が、体中に沁み渡っていく。余りにも突然すぎる抱擁に羞恥心が機能しなくなったようで、私はやけに落ち着いた心を持て余したまま、そろりと顔を上げた。
「……マットソン少佐は?」
「ん?」
「私が何もしないなら、一人でこの先へと進むの?」
それは確信に満ちた問いかけだった。案の定、正義感に溢れた若き英雄は、困ったように微笑んでいる。
「参ったな。それを言ったら君は魔法を使わざるを得ないだろうと思って、黙っておいたのに」
「駄目よ。行かせない」
私はそっと広く硬い胸に手を当てて遠ざけるようにした。温かい体が離れて行ったのを寂しく感じながら、決意に満ちた瞳で彼のそれを見つめる。
「何故なら、私が今から魔法を使って、全ての炎を消し去るから」
「フレヤ嬢、俺は」
「大丈夫よ。私がそうしたいの」
あなたのせいでは無いと言外に匂わせれば、彼は安堵したように微笑んでくれた。
人々を助けたいという思いはもちろんあるが、それよりも強く、この人を死なせたくないという願いが私を突き動かしている。
恐怖が薄れたわけではない。けれど、マットソン少佐がいればきっと大丈夫。
すんなりと彼の言葉を信じてしまっている事に内心驚きながら、私は自らの内に巡る魔力に神経を集中させた。
陣を書くという行為は、自らの魔力を特定の目的のために行使する時に必要となる。最大出力で魔力を解放するという今回のケースでは必要がなく、私はただ魔力が暴走しないようにという事のみに集中していれば良い。
すぐに季節外れの雪がちらつき始めた。炎の中に雪が消えていく様は儚くも美しかったが、景色に気を取られている場合ではない。
「マットソン少佐、もっとこちらへ」
「え?」
「私の肩でも抱いておいて。危険よ」
「ええ!?」
マットソン少佐は俄かに顔を赤くしてしまった。もう雪が降り始めているのだから早くして欲しいのに、何をそんなに狼狽えているのだろうか。
術者本人には魔力も干渉しないので、密着するくらい近くにいれば吹雪に見舞われずに済む。
「い、いや、しかしだな、いいのか⁉︎ だって俺は」
「いいから早く」
何故か戸惑って煮え切らない様子の彼に、私は焦れて手を引っ張ることにした。すると彼はされるがまま、私の肩に腕を乗せることを受け入れたようだった。
「……ちがう。これは安全確保のため、安全確保のため…」
彼は何やら小声で呟いていたが、勢いを増す風音に邪魔されて聞き取ることができなかった。私は肩と左半身に感じる熱を心強く思いながら、ますます魔力の流れへと意識を同調させていく。
頭上では黒く分厚い雲が立ち込め、雪は吹雪と呼ぶ方が相応しいほどの激しさを得て地上に降り注ぎ始めた。
全身が青白く発光し、その光を受けて周囲にダイヤモンダストが輝いているのは中々に幻想的な光景だ。しかしそれも魔力を押さえつけつつ大出力で放出しなければならないという緊張の中にあっては、ゆっくり眺めている暇はない。
それは白い魔力の奔流だった。キラキラと光るその流れは見た目よりも激しく、私は飲み込まれないよう必死になっていた。
どれくらいの量が必要なのだろうか。あと何分耐えなければいけないのだろうか。
ああいけない、目の前が白っぽく霞んで、どの程度の吹雪が降り注いでいるのかわからなくなってきた。
私の魔力で本当に火が消せる? それともこの大火ですらこの雪を受け止めるには弱く、街を凍らせてしまうんじゃ——。
「フレヤ嬢! しっかりしてくれ!」
地に足が付かないような感覚に陥った頃のこと。肩を引き寄せる力に、私は寸での所で意識を引き戻された。
見上げれば、心配そうに眉を寄せた彼の顔。どうやら私は魔力に同調しすぎたようで、マットソン少佐は異変に気付いて声をかけてくれたらしい。
「大丈夫か?」
「え、ええ。大丈夫」
「良かった。もう少しだ、頑張れ」
彼がいなかったらどうなっていたことか。心底肝が冷える思いがしたが、それでも意識を集中していく。
いつしか視界も明瞭になり、炎の勢いが弱まっているのを目で確認することができた。どれくらいの時間魔力を解放し続けていたのか見当もつかないが、どうやら本当にもう少しの様だ。
しかし意識は持ち直したものの、流石に疲れてきた。全身を駆け巡る魔力を受け止めるのは大変な重労働だったらしく、今すぐにでも地面に寝転がってしまいたいような衝動に駆られる。
強烈な疲労感に抗おうと思っても、どうしても瞼が降りてくるのだ。
ほんの少しとはいえ、まだ炎がちらついているのが見える。他の場所の状況が把握できない分、リンドマン室長から通信が入るまでは耐えるべきなのに。
再度肩を強く引き寄せられて、私は上を仰ぎ見た。
マットソン少佐の新緑色の瞳は、氷魔法の光を受けて青みを帯びていた。彼は何も言わなかったけれど、その瞳が、表情が、心情を何よりも雄弁に語っている。
心配だ。もういいんだ。十分炎の勢いは弱くなったのだから、これ以上無理をする必要はない。
その温かな思いを受け止めて、私は小さく微笑んでいた。
それにしても、私はいつの間にこんなにも人の感情を読み取ることができるようになっていたのだろうか。それはこの人が与えてくれたものに違いない。
そう、私は彼に会えたのなら、伝えたかったのだ。
あの時から抱いていたらしい想いと共に。
「ありがとう」と……。