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11 英雄は初恋を知る

「兄上……どうして……」

「ようやく国外での仕事を終えてね。最近戻って来たんだ」


 柔らかい笑みを浮かべた兄は、記憶の中の姿と殆ど変わりないようだった。

 私は吸い寄せられるようにして彼の左手に視線を飛ばしたのだが、白い手袋をはめた手は少しの違和感もない。


「大丈夫だよ、フレヤ。利き手じゃない手の小指くらい、無くなっても差し支えなかったし、こうして手袋で誤魔化すこともできる。男にとって名誉の負傷はむしろ箔が付くものだよ」


 私の視線に気づいた兄上は気にするなとばかりに笑う。その表情に昔と同じだけの親愛の情を感じて、私はたまらなくなってしまった。

 突然の再会に停止してしまった思考回路が急速に動き始め、私の胸の内に様々な感情が渡来する。

 お元気そうで良かった。けれど少し痩せた。もう二度と会えないかと思った。

 そして何よりも大事なことは。


「あ、兄上……! わ、わたしのせいで、兄上が」

「フレヤ、大丈夫だから」

「謝って済むことではないとわかっています。それでも、ほんとうにごめんなさい」

「フレヤ」


 強い語調で名前を呼ばれ、私は肩を震わせる。恐る恐る目を合わせてみると、そこには優しく細められたライトブルーがあった。

 あの事件によって兄上が私の事をどう思ったか。それは考えるだけで苦しくなるような、答の出ない疑問だった。

 しかし今、あの頃と全く同じ笑みを浮かべて、彼は私に会いに来てくれた。それだけで私には優しい兄がどんな思いでいてくれたのか解るような気がした。


「心配したよ。お前は僕を助けてくれたのに、僕はお前を助けてやることができなかった。済まなかったね」

「兄上……!」


 兄上が両腕を広げるので、私は少し躊躇してから、昔のようにその腕の中に飛び込んだ。そうしてしばしの間抱擁を交わして、私達はようやく対面に座ることになったのである。





「ねえところで、ウルリクに求婚されたって聞いたのだけど」


 他愛のない会話を重ねてしばらく経った頃。やはりというかなんというか、兄上はついにその話題について口にした。

 マットソン少佐は兄上に会ったことがあると言っていたし、外務省所属のせいか情報通なところがあるので、妹の噂であれば自然と耳に入ってしまうのだろう。


「実はその事について相談があるの」

「相談? 僕でよければ、なんでも話してくれ」


 兄の笑みがどこか怖いような気もしたが、私は最初から経緯を話す事にした。





「というわけで、私にはあの方が何を考えているかわからないの」

「………はあ」

「初対面の女性に対して求婚する事情って、いったい何なのかしら」

「………な、なるほど、ね」


 話し終えた頃には、兄上は何故だかやけに遠い目をしていた。そうそれは、私が今までマットソン少佐と共にいる時、散々周囲から向けられた視線に良く似ているような。


「お前がここまで鈍いとは、僕も予想外だったよ……。あいつも苦労したんだろうな」

「あいつ? そんなにマットソン少佐と仲が良いの?」

「仲が良いかはともかくとして、それなりに知っているよ。司令部で会ったのは偶然だが、声を掛けたのは偶然じゃない。なにせ僕たちは、彼には強烈な思い出があるんだからね」

「え…」


 僕たち。兄の選んだ言い回しに、私は凍りついていた。昼間感じた既視感は、やはり。


「気のせいでは、なかった……?」

「やっぱり忘れてしまっていたんだね。けど、なんとなく違和感を感じていたってところかな」

「どういうこと? 教えて!」


 私の声は、最近では聞いた事がなかったくらいに震えていた。言い知れない不安が胸の中で渦巻くが、それよりも知りたいという衝動ばかりが先走ってしまう。

 鬼気迫る様子の妹に、兄上もまた感じる所があったのだろう。

 彼はしばし思案するようなそぶりを見せた後、小さくため息をついて見せた。それは少し悔しそうな、しかし仕方ないと言わんばかりの、私の必死さに対するにはやけに温かみのあるものだった。


「まあ、いいだろう。妹の表情を取り戻してくれた、奴に免じて」


 表情を取り戻す、とはどういう意味だろうか。しかしそれを問いかける前に、兄はその出来事について話し始めたのだった。


「去年の秋のことだ。司令部に立ち寄った僕は、マットソンと偶然にも再会した。既に名声を得ていたあいつが、あの時何を考えていたのか、僕は知りたくて尋ねた。あいつは話し始めると止まらなくて、お前との出会いの経緯から洗いざらい話してくれたよ。そう、奴は確か、士官学校を卒業してすぐ、陛下主催の舞踏会の警備に参加する事になったと言っていたかな……」



 *



 なかなかどうして、警備の仕事とは退屈なものだ。

 殆ど人が行き来することのない渡り廊下に立たされた俺は、思わず溢れそうになった欠伸を強引に噛み殺した。こんなところを上官に見られたら懲罰ものだ。

 俺が軍人を目指し始めたのにはさしたる理由があるわけじゃない。

 実家の宿屋はそれなりに繁盛していたが、サービス精神旺盛な両親だったので、暮らし向きはあまり上等じゃなかった。高校まで出してもらったのだからありがたい事だが、そこから先の飯代は自分で稼がなきゃならない。

 そんな時に士官学校の案内ポスターが目についたのは、たまたまとしか言いようのない出来事だった。

 俺はこの国が好きだったから、守ることが出来たら良いと思った。凍てつく土地で肩を寄せ合って生きる人々は温かく優しいし、飯もうまいし、景色も良い。

 一念発起して勉強を始めて何とか入学する事ができた。筆記はボロボロだったが、体力関係は軒並み一位を取ったので末席に引っかかったのだ。ギリギリながらも進級し卒業、そして同時に隣国の内紛へ派遣される事が決まった。

 そして出発の直前になって、人手が足りないからと、舞踏会の警備に駆り出されたというわけだ。

 ああ、それにしても退屈だ。22歳の活力溢れる男に、ただ立っていろだなんて拷問に近い。どうせならもっと役に立ちたいのに。

 そんな欲求を抱えながらもじっと中庭を見張っていると、暗い中に水色の影が横切ったような気がした。

 途端に緊張が全身を包む。俺の一番の仕事は不審人物の取り締まりなのだ。

 廊下を挟んで立つ同期に目配せをして、その影が通った辺りへと向かった。舞踏会を抜け出てきたカップルなら良いのだが、それにしては動きが早かったし、一人だったような気がする。

 足音を殺してそろそろと歩を進めていく。茂みの先に待っていたものは、中庭に生えた大木の根元にじっと佇む、一人の美しい少女だった。

 彼女はどうやら水色のドレスを身に纏っているようなので、先ほどの影の正体と断じてしまって間違いはないだろう。それにしても、暗い中にも微かな街灯を受けて銀の髪が輝いている。目の色はよく見えないが、肌も含めてとにかく色素が薄い。品のある佇まいで、そこにいるだけで不思議な存在感があった。

 まるで雪の精霊みたいだ。まず第一に、そんな感想を抱いた。

 高嶺の花という表現がぴったりの貴族のお姫様。これだけ美しければ求婚者がひっきりなしだろうに、何故だか彼女は一人でいる。

 こんな所で何をしているのだろう。その疑問はすぐに解決した。


「大丈夫よ。すぐに降ろしてあげるから、じっとして」


 おもむろに木に語りかけたかと思うと、姫君の纏う空気が一変した。二筋垂らした銀色が揺れ、水色のドレスがふわりと翻る。白っぽい空気が彼女の周りを取り巻いた、次の瞬間。

 木の枝の中から何かが舞い降りてきた。俺の手ならば容易に鷲掴みできそうな大きさのそれを、彼女は両手で大事そうに受け止める。

 ニャーというか細い鳴き声が聞こえた段階になって、俺はようやく彼女が類い稀な力を持つ魔術師で、その力で持って子猫を助けたのだということに気が付いたのだった。


「怖かったわね、もう大丈夫よ。……あら?」


 彼女はこの時初めて表情を変えた。眉をひそめたまま子猫を撫で、困ったように天を振り仰ぐ。


「怪我をしているのね。どうしたら……」


 しかし彼女の決断は早かった。きり、と眉毛を吊り上げたかと思うと、一旦子猫を地面に降ろし、キョロキョロと視線を彷徨わせる。

 目をとめたのは庭の片隅に置かれた箒だった。それに跨った彼女がふわりとどこかへ飛び去るのを、俺は呆然と見送った。雪の精霊というよりは天使みたいだ、なんてポエムめいたことを恥ずかしげもなく考えながら。

 子供の頃空を飛びたいという夢を抱いていたことを思い出す。魔力を持たない俺には無理だと分かった現在になって、実際に間近で目にした魔術師は、例えようもないほどに美しかった。

 俺は何だかぼうっとしてしまって、職務中であることも忘れてそこに立ち尽くしていた。

 程なくして彼女は戻ってきた。医務室まで飛んで行ったのか、手には包帯や薬を抱えているようだった。


「待っていてくれたのね。傷を見せて」


 ダイヤモンドダストと思しき煌めきと共に舞い降りた天使は、すぐに子猫を抱えると手当を開始した。彼女は不器用なようで、少々手間取りながらも包帯を巻いている。

 それにしても、見ていないで手伝えよと自分に言いたい。けれど俺はこの時、本当に動けなかったのだ。彼女に見惚れてしまっていたから。


「できたわ。どう、痛くない?」


 柔らかく語りかける声が俺の鼓膜を震わせる。同時に心まで震えたような気がしたが、次に受けた衝撃を思えば、まだ可愛いものだった。

 有難うとでも言っているかのように鳴いた子猫に向かって、彼女は花のような笑みを浮かべたのだ。


「良かった」


 短く答えた彼女の、その慈愛に満ちた愛らしい微笑みは、完全に俺の心を射抜いてしまっていた。

 恋を雷に例えた先人は、なかなかよく分かっていると思う。それはあまりにも衝撃的な出来事だった。

 俺は衝動に突き動かされるまま、茂みをかき分けるようにして走り出した。

 大きな音に驚いた彼女が肩を震わせ、弾かれたようにこちらを見る。猫が飛び上がってその勢いのまま走り去って行ったが、それすらも気にならなかった。

 ああ、この人の瞳の色は、アイスグレーなのか。なんて綺麗な色だろう。


「お嬢さん、俺と結婚して欲しい!」


 これが悲恋物のオペラも真っ青の、神をも恐れぬ身分差プロポーズであることは、この時点では俺の頭には全く無かったのである。


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