私と私
「私は一体何をしているんだろう」「私は一体何をしているんだろう」
2人の、
全く違うタイプの、
全く違う境遇の、
全く違う地域で、
全く違う生活をするそんな少女たちが、
0.0001秒もたがわず
小さなため息とともに、同時にそんな言葉を吐き出した。
そんな2人が、自分の目に異変を感じるのは。
それから15.5秒後のことだった。
『 私とドッペルゲンガー 』
「左目がおかしい?」
友人が足を組み直した瞬間に、思い切って目の異変を伝えた少女は、講義の聞きもれはなかったか、ホワイトボードと教員の顔を何度か見比べ、安堵した。
彼女の友人は授業を聞く気などまったくないようだ。自身の携帯の充電残量を危惧しつつ、少女に再度尋ねる。
「左目ってどういうこと」
「文字通り、白板がよく見えないんだよね。全く別なものを見てるって感じ」
「はぁ!?……コホン、で。何が見えるの」
友人が感情のままに声を荒げると、その言葉を聞き取った教員の突き刺さるような視線を横顔に感じる。
罰の悪そうな表情で声を潜めた友人がさらなる詳細を求めると、彼女はただ首を横に振った。
「私にもよくわからないの」
「何それ」
「左目にはとにかく映ってないの、あんたの顔も、先生も、教室も」
「何が映ってるのよ、だから」
「……えっとね」
少女は小さく呟き、友人はため息をついた。
「――まるで寝てるみたい。真っ暗なの」
「失明じゃないの、一回病院行ってきなさい」
「うーん……」
病院で見てもらっても治らない、ような何とも言えない予感。しかし、とりあえず友人の気持ちをなだめるために、曖昧に頷いておいたのだった。
講義のホワイトボードが見えにくい。
保健室で眼帯をもらい、今日一日は右の視界だけで過ごそう。そう思い立った少女は、講義が終わるとすぐに保健室に向かった。念の為目を見てもらうが異変はなさそうだ。
「近頃学生の貴方たちはよくパソコンとか使ってるから、疲れ目かしらね」
窓の外を右眼で眺めていると、灰色がかった空からぽつりぽつりと雨が降り注いできた。
「で、心当たりはある?」
「……実は私も最初"そう"思ったんです"けど"」
「けど?」
視線を窓の外から保健医に移した少女は、促されるままに今左目が"見ている"物を告げた。
「真っ暗じゃなくて今度は真っ白の天井を見てるんです」
「天井?貴方今私の顔を見てるのに?」
「だから、何ですかね……多分視力が悪くなってるわけじゃなくて、何かおかしくなってるのかもしれません」
「……今日はすぐに家に帰って、一旦病院にかかったほうがいいわ」
保健医は彼女が随分と痩せていること、そして少し憂鬱そうな表情を見て、精神的に疲労がたまっていると判断したようだった。
しかし彼女は、常勤の保健医が言うようにたとえ病院にかかったとしても、誰にもこの原因は分からないだろうという妙な確信があった。
とはいえど、とりあえず保健医の気がおさまるよう、曖昧に頷いておいた。
保健医の忠告を聞くまでもなく、保健室で眼帯をもらうと、彼女は次の講義の教室に向かう。
目の異変以上に次の講義を聞き逃すことへの危機感が、彼女を動かしていたのだ。次の教科は彼女の専攻において欠かせない教科で、彼女が一番力を注いでいる教科だからである。
「なんか目が変なんだって?」
「……」
「で、どうしたん」
待ち構えるように友人から話を聞いた別の友人が少女の横に座り、興味深々と言った表情で彼女の眼帯姿を見つめていた。
彼女はただ首を横に振って、何も言いたくないとばかりにカバンの中から講義ノートを取り出した。
教員が現れても、好奇心旺盛な友人らの追究は続く。
「分かんないって」
「何が」
「どうしてこんな"風"になってるかなんて」
「こんな風って、どんな風か説明してくれなきゃ分かんないんだけど」
少女は促されようとも、何度尋ねられたとしても、今左目が"見ている"物を告げることはなかった。
「どうしてだよ」
「……これは、言ってはいけない気がするから」
ペンの動く音と、教員の声、そして小さな声で雑談する一部の学生らのざわめきの中で彼女はもう一度そう言った。
「これは、言ってはいけない気がする」
彼女は他の友人たちに忠告を何度も受けるが、講義が終わるまで、ただホワイトボードの字を無心でノートに写し続けていた。外の激しい雨音すらも、彼女の耳に届くことはない。
「本当にあんたの目どうしちゃったのかねぇ」
雨は講義が全て終わるまでに止んでいた。
夕焼けの空に手を伸ばし、あ、と思いついた友人がカバンの中に手を突っ込むと、少女に棒付き飴を手渡した。右眼は今日一日酷使されたためか、少々霞む。それでも彼女は器用にラップを剥くと。
からん――口の中に放り込んだ。
「私にも分かんない」
「で、他の子たちには教えなかったみたいだけど、今何見てるの」
幼少のころからの友人である彼女になら告げてもいいだろうか。
少女はしばらく考え込んでいたが、決心を固めたとばかりに、友人の顔をまっすぐ見つめ。
告げた。
「屋上」
「屋上?」
「横に猫がいて、"彼女"も多分、飴をなめてる」
「「私は一体、何をしているのだろう」」
「は?あんた本当頭大丈夫?」「にゃー?」
視界がぶれて
ブレテ、
痛む。
2人の少女は痛む頭を押さえてその場にうずくまった。
「ちょっと!?」「にゃー……?」
左眼の少女は、いつも真っ白な部屋の中で過ごしていた。右眼の少女は、いつも空の下、講義室、家、レストラン、日常の中で生きていた。
左眼の少女は、猫を愛していた。右眼の少女も、猫を愛していて、自宅には4匹の愛猫が毎日彼女の帰りを待っている。
左眼の少女は、いつも外に出ることを夢見ていた。右眼の少女は、いつも自分の周りの状況の変化についていけずに、のんびり部屋の中で過ごすことを望んでいた。
左眼の少女は、身体がヨワク、右眼の少女は、身体がツヨイ。
左眼の少女は、一人で外をアルケズ、右眼の少女は、一人でファミレスにイスワル。
そんな彼女たちがいつも思い続けてきたのは。ただ一つ。
自分たちは、一体何のためにこの世に生きているのだろう。
「なおみ!なおみってば!!!」
気づけば少女――なおみは、自分の腕をつかみ、なんとか倒れ込むことを阻止している友人が、"両目"でしっかり見えることに気がついた。運良くも倒れそうになってもなお、口の中のキャンディが零れおちることは回避できたようだ。
「あんた本当病院に行った方がいいんじゃない?」
「そうかも」
「え!?」
「……病院に、会いに行きたい子がいる」
「は?友達でも入院してたっけ?」
互いの友人関係は大概知っている、そんな幼馴染の友人の知らない、なおみの"友人"がいるわけがない。しかし、なおみは首を横に振って、例外がいることを教えた。
「今日一日しか、まだ見てないんだけどね」
「……は?」
「また、明日!私急がなくっちゃ!」
夕暮れの空の下、なおみは親友の琴子に別れを告げ、制止の声も聞かずに走り出した。
自宅に帰ったなおみは、すばやく服を着替え、薄化粧を軽く整えて階下の母親に病院に行くことを告げた。母親は特に驚く様子もなく、台所で野菜を刻みながらこちらに声だけで応じる。
「お見舞い?」
「うん」
「遅くならないようにね」
「はいはいー」
「もう、いつもはいは一回って、言ってるでしょ」
「はいはいはいはいはいはーい!」
お見舞いなのだから、病人の体調を考え長居するのがよくないことは当然娘に教えている。だから夕飯前に帰ってくることは分かっているのだろう。なおみが台所に見える背中に行ってきます、と声をかけると、声の代わりに空いている左手をひらひらと、彼女を見送った。
ようやく、会える。
病室の番号も知らず、ただ自分の"視界"を頼りに向かった屋上には、多くの看護師や医者が出入りしていた。何事かとしばらく立ち尽くしていたなおみだったが、その騒動の渦中の人物が、自分が探していた人物だと知った時、彼女は激しく動揺した。
「え、明美ちゃん!?」
ストレッチャーに載せられていく彼女の顔色は真っ青だ。そしてそんなストレッチャーに乗せられた彼女と"全く同じ容姿"を持つ少女が屋上に現れたのだから、それは看護師も驚くだろう。しかしさすがは人の命を預かっている者。すぐに冷静さを取り戻し、屋上に向かう階段にある小さな緊急搬送用エレベーターに"明美"と呼ばれていた少女を載せ、自分たちはバタバタと階段を駆け下りていった。
なおみは置いていかれた猫の首輪に書かれた名前が「なおみ」だということに気づき、しばらく考え込んでいたが、さすがにもう1人の自分が気になって、彼女も後を追うことにした。
処置室から出てきた少女は、今は眠っているらしい。
そんな少女の容体の急変の報せを受けた母親が、病院にやってくると、再びなおみはその容姿で明美と間違われてしまった。何をやってるの、と肩を揺さぶられ、慌てて事情を説明すると母親もそれを理解したようで、なおみの小さな鞄の横に力なく腰掛けた。
「あの子はね、3歳の頃からほとんど外に出られたことがないの」
ポツリポツリ、明美の母親が話した事実は、なんと残酷で悲しいものなのか、外で生き続けてきたなおみにはよくわからなかった。
「生まれつきの奇病、っていうのかしら。珍しい病気を持って生まれたのよ、彼女」
「それが分かったのは2歳の冬。彼女が初めて急性気管支炎を患った時よ」
「その後から、彼女は一時退院を許される度に何かを探して、そしてまた病院に逆戻り」
「彼女はいつも言ってたわ……せっかく外に出られるのに」
――外の世界をつまらなそうに見ているなんて。
「……明美ちゃんは」
「ん?」
「明美ちゃんの病は、どう、なんですか」
「色々薬を使ってはいるんだけど改善は、見込めないそうよ」
「……そう、なんですか」
「でもね、あの子、昔こう言ってたことがあるの」
――
目が覚めた明美は、その視界が、元に戻っていることに気が付き、何度か目を瞬かせた。
今日も倒れてしまったらしい。
猫が心配そうに私を見つめるのを最後に途切れた視界、ひとりでに口から飛び出たため息は、一人の別な少女の言葉で遮られた。
「ねぇ明美ちゃん」
「……え?」
白い病室のベッドの上、顔を上げたそこには、一人の少女がいた。少女というのももうおかしい年齢かもしれない、明美は既に20歳で、目の前に居る彼女も恐らく20歳だろう。
緑色のクッションがついた、古びたパイプ椅子のきしむ音と共に、少女、なおみは明美と瓜二つの顔で笑って見せた。ドッペルゲンガー、そう呟かれた唇をしばらく呆然と見つめていた明美だったが、何とも奇妙な出会いだと、彼女も思わず微笑み返してしまった。
「明美ちゃんのお母さんから聞いたの。ずっと――私を探して、たんだって?」
「……うん……」
そう、明美は小さいころに見た夢が忘れられず、微かな希望を胸に抱き、必死に探し続けたのだ。
自分と同じ容姿を持つ……世界のどこにいるかもわからない、そんな彼女を。
「夢の中でこう言ったの。とても優しい声の人がね」
「……何て?」
「"もう一人の自分――なおみという少女を見つけたら、奇跡が起こるよ"って」
「奇跡?」
「何が奇跡なのかは私も分からなかった。でもね、何となく、私は思ってたんだ」
もしかしたら、自分の病が治るのではないか。明美の言葉に大きく目を見開いたなおみは、細く白い腕を掴んで大きく頷いた。なおみにだって、その奇跡が何なのかなど、分かるはずもなかった。それでもその奇跡は、十分期待することができるのではないかと、そう思っている。
なぜ猫の名札がなおみだったのかと聞けば、その名前を忘れないようにするために猫に名付けたのだと明美が笑い、なおみは納得した。
「今日一日、"私"の視界を見てどう思った?」
「大学生活ができる貴女に正直嫉妬しちゃった」
「明美ちゃん、お母様に聞いたよ。本当は高校卒業に値するもの、持ってるんだって」
「そう、大学に行ければなぁって」
「奇跡は、起こるよ。起こらなかったら、私が神様を叱りつけてやるんだから」
「はははっ、なおみちゃんったら!」
長い間明美が生活してきた一人部屋の病室の扉の外で。数年ぶりに聞いた娘の心からの笑い声に、明美の母親は声なく、泣き崩れていた。
「明日も来るね」
「いいの?」
「うん。なんだか自分と瓜二つの人って言うのが信じられなくて」
「……そうかも」
「今日から、友達ね」
「瓜二つの顔の、友達ってことかぁ」
日が暮れていくその病室に、笑い声が響く。
――
「私は一体何をしているんだろう」「私は一体何をしているんだろう」
2人の、
全く違うタイプの、
全く違う境遇の、
全く違う地域で、
全く違う生活をするそんな少女たちが、
0.0001秒もたがわず
小さなため息とともに、同時にそんな言葉を吐き出すと。
そんな2人に、とある奇跡が起こった。
<ドッペルゲンガー>、都市伝説ではその姿を見ると消えてしまうだとか、数日後に死んでしまうだとか言われている、自分と瓜二つの容姿を持った存在だが、その都市伝説の真偽を問うには、証拠はなさすぎた。当然、その話はあくまでも噂であり、もしもそれが本当だったとして、死人に口はない。真相を語るには、それを語れる生存者がいなかったのだ。
「……ドッペルゲンガー、かぁ」
空っぽになった病室のベッドを前に、なおみはしばらく病室の中を眺めていた。既に彼女のいた痕跡は何も残っておらず、脳裏に焼きついて離れないのは、あの日見ていた彼女の視界だけだった。なおみの肩をぽん、と叩いたのはなおみの母親だ。彼女は微笑を顔に張り付け、娘に行こう、と促した。
「なおみちゃん、今まで本当にありがとう」
「いえ……明美ちゃんのお母さん……」
泣きはらした顔で、病室を出たなおみと母親を出迎えたのは、花束を抱えた明美の母親だった。あの謎の出来事が起きて以来、毎日のように明美に会いに来ていたなおみを、明美の母親は本当に感謝していた。ずっと病院の中で過ごしていた20年、明美はようやく心の底から笑い、冗談を言い、じゃれ合える親友を見つけたのだ。
「明美は本当に……さいごまで幸せだったわ」
「私も、明美ちゃんに出逢えたこと、本当に嬉しく思います」
「よければ今度、遊びに来てあげてね。あの子も、待っているだろうから」
「はい、もちろんです。また連絡取り合って、遊びにいきます」
頭を下げ。そして微笑みを浮かべて病院を去っていく明美の母親の背中を見て、なおみは不意に泣きたくなった。明美という少女の、悲しい人生を聞いても流れ落ちなかった涙が、初めて彼女の頬を、雫となって転がりおちていったのだ。
「あら、なおみったら。なんで泣いてんのよ」
「……お母さーん」
「もう、どうしたの」
20歳、既に成人したというのに、母親にしがみついて涙をこぼす娘に、困った子ね、と呟きながら母親は、彼女の背中をぽんぽんと、あやしたのだった。
お読みいただきありがとうございます。゜(゜´ω`゜)゜。 ドッペルゲンガー、不思議な都市伝説ですよね。