0話 漂着
こうして砦の敷地から出ると、行く宛のない鞍馬はチュークに追従する他なかった。
ここソーンの村は小規模で、村を囲う柵の内側の人口は凡そ1000人にも満たないが、それでも傷んだ木製の建物は煩雑に並ぶ。
牢屋の中では糞の臭いや、チュークの獣のごとき体臭に慣れていたものの、村内の雨水や生活排水や排泄物、牛馬の糞がブレンドされた地面の泥濘に足を取られる度に、鞍馬は悪臭で顔を歪めた。
木製の建物には時折、窓に張った紙から漏れた光と軒先の消えかけのランプの灯りとが混ざり、薄暗く足元の泥濘を照らした。
鞍馬はこの村に着いたときは気を失っており、それからは牢屋から当然一歩も出ることなく過ごしていたため、約一ヶ月間の滞在で今回の脱出で初めて村の様子を一望することとなったのだが、日本の現代建築や街作りとの格差に驚き、鞍馬は周りをキョロキョロと見回しながら小走りのチュークに追従した。
チュークは慣れた様子で、衛兵との遭遇を避けるためか何本かの裏路地を小走りで駆け抜け、ソーンの村の外壁に向かう。
ソーンの市街とその外壁の外を繋ぐ門こそ閉ざされてはいるものの、壁は戦時や被襲撃時に多数の敵の集団から侵入を防ぐための物であり、また老朽化も進んでいるため穴が多く、チュークの目指していた先である地点の壁にも半径50センチ程、大人1人が屈んで通れるほどの大きな穴が空いていた。
「アウトロー専用ソーンの正面玄関だ。」
チュークは牢を脱出してからはじめて口を開く、半分独り言のつもりで、鞍馬の返答は必要としていない内容であった。
少し屈んで穴を潜ると、深夜とは言え所々明かりの灯っていた村内とは違い、外は真っ暗であった。
村を出てから目的地であるシーロン市に到着するまで休憩を挟んでほぼ半日、明くる日の夕方まで続いた強行軍の最中、鞍馬は悩みに悩んだ。セーラにクワンウンと剛を裏切って見殺しにしたチュークをあろうことか再度信用せざるを得なかった事実と、その選択肢しか残されていない自分の無力さ。憎きチュークに一発拳を見舞うどころか、逃亡してからというもの文句の一つも言えないもどかしさ。セーラ達が目を覚まし、裁判に向かう間何を思っているのか。
チュークへの憎しみは収まるところを知らないが、事実、房から脱出してから鞍馬に出来たことは、何一つない。
今から考え直せば、脱出前、チュークには怪しむべき行動が幾つも散見された。しかし鞍馬は関係の悪化を恐れ指摘は恣意的に避けていた。
脱出後の鞍馬の行動を鑑みると、それらには皮肉にも一貫性があるではないか。
鞍馬はチュークの様にセーラ達の犠牲を直視することを怠る図太さもなければ、かといって彼女達に殉じるために引き返すという選択肢も毛頭なかった。
しかしながら、そもそも、チュークがベイルを手にかけた後、脱獄計画の真の全貌を知ってから、チュークを責めたものの声を荒らげてセーラ達を起こす様な事は避けた自分自身の行動から目を背けていた。
鞍馬はフィルアニアに来てから最も強烈な自己嫌悪に襲われながらも、最大の原因たるチュークに随行し続けた。
シーロンの街に到着すると、今度は堂々と城門から街に入った。出迎えたシーロンの街並みは、居住区・貧民街の凄惨な実態とは裏腹に、華やかに賑やいでいた……。
大通りを横切り、脇道に逸れてギルドの前に到着すると、チュークが先に口を開いた。
「お前さんにとって、今回の事は辛かったかもしれんがああするしかなかったんだ。気にするな。俺は寄るところがあるからここでおさらばだ。もう会うことはないだろうが、俺を怨むのはお門違いってもんだぜ。こいつをお前さんにくれてやる。仕事に慣れるまでの当面、こいつで飯食って宿を探すんだな。せいぜい生き延びな、ブラックアイ。」
そう言ってベイルの血の所々付着する銀貨を一枚鞍馬に手渡し、何処かに去っていった。