くちなしの遥
はる君よ、透明になれ。桜と風の中、何にも遮られることなく、青い空の元まで飛んでゆけ。そうして、雲に触れる一歩手前で、わたしの放ったくちなしの香りと、花びらを見つけて。
「夢を見たんだ。空を飛ぶ夢を。俺、夢の中でこれは夢だって気付いたんだ。だから、今の内に練習しとこうと思って、一生懸命空を飛んだんだよ。でも母ちゃんとか父ちゃんとか、松山先生とか、皆邪魔してくんの。最後はひでえんだぜ、何とか皆を避けてあと一歩で雲まで届く! っていうところで、はるちゃんが目の前に現れて、俺を突き落しちゃうんだ」
病院は真っ白で、窓の傍に活けられたくちなしの花の一輪だけが真っ赤で、それがやけに鮮やかだった。
はる君は病室の中央に設えられたベッドに埋もれていた。投げ出された腕は何よりも白くて透き通っている。前にはる君を訪ねたときよりも、もっとずっと。
「そんでさ、ぐわーって落ちていって、やばいあと少しで地面とぶつかる! ってところで、目が覚めたんだ」
「わたし、突き落したりなんかしないもん」
「どうだか。一年生の頃、はるちゃん俺を駐車場の土手から突き落とそうとしたじゃないか」
「それはツッパリ相撲やってたからでしょ。やろうっていったのははる君だもん」
六畳程度の病室で、私たちの声は響く、響く。前は看護士さんが足をドスドスさせながら「静かにしなさい!」と怒りにきたけど、今はもう来なくなってしまった。わたしは、怒られた後に「看護士さんの方がうるさいよなあ」と悪戯っぽく笑うはる君の顔が好きだったのに。
耳を澄ますと、子供たちのささやかな笑い声が聞こえた。トタトタと廊下を走る音も。この扉一枚隔てた向こうでは絶えず時間が流れている。小児病棟は病院の中で唯一開放的で明るい場所だ。元気な子もそうじゃない子も、皆不思議とエネルギーに満ち溢れている。看護婦さんも、ふくふくとふくらんだ優しいおばさん、みたいな人ばかりだ。七月を目前に控えた今、小さい子たちのはしゃぎはピークを迎えようとしていた。
ひまわりの柄をあしらった、黄色と橙のワンピースが弱い冷房を受けて揺れた。ママが動きやすいようにと、しっかり採寸して作ってくれたものだ。このお洋服を着て病室に行くと、はる君はいつも眩しそうに眼を細める。それからすこしはにかんで、「その服似合ってるね」と言ってくれた。
「いま、看護士さんの怒鳴り声が聞こえた」
「本当? わたし、全然聞こえなかった。はる君は耳がいいね」
「いいんじゃなくて、よくなったんだ。ここ、静かだから。一週間もいると、それまでは聞こえなかった色々な音が聞こえるようになるんだよ。虫の声、葉っぱの音。知ってるかい、はるちゃん。多分、小児病棟にも俺らと同じ『遥』がいるよ」
同じ名前が嫌で、私、はる君に沢山のあだ名をつけた。夏休みになるとはる君はおばあちゃんの家に行くから、毎日野山を駆け巡ったり、虫を採ったり、海を泳いだりして、二学期が始まる頃にはいつも真っ黒になって帰ってくる。わたし、その度にはる君のことを醤油とかソースとか、かりんとうって呼んでからかった。はる君も「うぎゃー食べられちゃうー」とか言って、はしゃいでいた。
はる君の腕は真っ白だ。点滴の跡一つだって見当たらない。南に大きな窓があるこの部屋は初夏の太陽光を燦々と届けているのに、見舞う度はる君は白くなっていくようだった。お豆腐、カルピス、病院の床。思いつくあだなは沢山あったけれど、何も言えずにいる。
「あれさ、」
はる君が、窓の方を見やる。傍のチェストにはぬけるように白いくちなしの花が四つ活けられていた。それから同じ花瓶に、トマトみたいに嘘らしい真っ赤なくちなしの花が、一つ。
「毎日水変えてるのに、もうしおれてきちゃった」
「白い方は元気だよ」
「赤い方は元気じゃない。はるちゃんのせいだ、俺は白いまんまでもよかったのに」
くちなしの花は、私がお庭から摘んできたものだった。
お庭に咲いていたときは、その真っ白さがとてもきれいに見えて、はる君にも見せてあげたいって思った。でも、はる君の病室に持ってきた途端なんだかひどく嫌になって、私、一輪だけくちなしの花を赤く塗った。いつも鞄に入れている色鉛筆だとうまく色が付かなくて、花びらがやぶれそうだったから、わざわざ家からアクリルガッシュを持ってきて丁寧に色付けたのだ。はる君は、困っていたように思う。でもただでさえ、ここに在るものはすべて真っ白なのに、私がもってきたくちなしも真っ白で、そんなのは窒息してしまう。私のお洋服以外に色が無ければ、私が病室を出て行った後にはまっしろなお部屋と真っ白なはるくんがいるだけで、そしてそれは、何よりもはる君が遠くにいるように感じられるのだ。
「俺も赤く塗ってよ」
はる君が、まったいらな声で言った。
「いやだよ」
「どうして」
「しおれちゃうもの」
「しおれたって、いいよ」
「茶色にしようよ。ちゃいろだったら、わたし……」
そこまで言ってハッと口を噤んだ私をみて、はる君は困ったような笑みを浮かべた。
「うぎゃー、食べられちゃうー」
ふざけた明るい声は変わらない。部屋の温度も、いつも同じ。肌がどんどん白くなっていく以外、はる君は学校に通っていたころとまんま一緒だ。お薬を飲んでいるところも、苦しそうに咳をするところも、気持ち悪さに耐え切れず吐いてしまうところも、わたしは何一つだって見ていない。ひょっとしたらはるくんは、今にだって窓の外から飛び出して、芝の生えた広いお庭を走れるんじゃないかとさえ思う。
わたしは、はる君にこのまま苦しまずに死んでいってほしいと思う。ありふれる薬の苦しみも、点滴の痛々しさも、止まらない咳も、何も感じることなく、ありふれない死に触れてもらえたらと思う。いま私がおどけたり、冗談を交わせるのは、きっとはる君が一見健やかに見えるからだ。
「次また、空を飛ぶ夢を見たら、」
日の光がはる君の睫毛を透かした。髪の毛も肌も光でまっしろになって、はる君はくちなしになる。
「俺、透明人間になって空を飛ぼうと思うんだ」
「透明人間?」
「そう。そしたら、父ちゃんにも母ちゃんにも、松山先生にも、はるちゃんだって見つからない筈だから。そして今度こそ、雲に触るんだ」
みてろよー、とはる君は意気込んで両腕を振り上げる。陽が彼の腕を照らして、一瞬だけ空気と同じ色に見えた。
「本当にお空に行くの、」
私はなるべく、明るい声で尋ねる。はる君は、うん、とまたまったいらな声。
「病院に入る前、せめてくちなしの花をみせてやりたいって、父さんと母さん、話してたんだ。おれ、それ聞いちゃったよ。だから、この前はるちゃんがくちなしの花を持ってきたとき、俺すごいびっくりしたよ。それから、ああもうそんな時期かあって」
薄い雲が太陽に重なる。蛍光灯のはっきりとした光は物に色を与え、はる君の黒い髪の毛を一本一本鮮やかにあらわした。
「はるちゃん、俺達さ、夏の教室も冬の教室も好きだったよね。夏は早く冬の、寒くてひんやりした教室に行きたいねって言って、冬には、はやく夏の教室に行きたいねって。ここはね、ずっとあったかいんだよ。あったかくて涼しい。だから、今がどれくらい暑くて寒いのか、分からないや」
扇風機の弱弱しい風もストーブののぼせる温かさも、ここにはない。クラスの子ははる君のお部屋エアコンがついてていいなあ、なって羨ましがってるけど、わたしはそれをはるくんに言えなかった。
「お空って、何か持っていけないのかな」
「どうなんだろう。ひとつくらいは、いいんじゃないかな」
「はる君は、何を持っていきたい?」
ううん、とはる君は唸った。それからこちらを振り向いて、ないしょ、とわらった。
薄雲が散る。日の光が戻ってくる。はるくんの、まっくろい髪の毛を全部光の白に染め上げて、つやつやひかるまつ毛は空と同じ色になる。
―終―
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