ひとつだけの命
中学生くらいの頃に少し抱いていた痛い考えを掘り下げて書いてみました。
ーー昔から、道徳の授業というものが嫌いだった。
なにが嫌いだったかといえば、
駅のホームから落ちた人を自分も降りて救った話だとか、地震が起きた時に自分の命を厭わず近隣の住民を避難させることを最優先にした人の話だとか。
そんないわゆる英雄譚、というやつを延々聞かされるのだ。
確かに自分の命を捨てる覚悟で他人を助けようとすることが出来るのは素晴らしいことだし、褒め讃えるべきことだろう。
だが、何故それを僕たちにまで強要させようとする?
自分を犠牲にしてでも他人を助ける。
その気持ちが意識の中に長い年月をかけて刷り込まれてゆく。
それは教育というよりまるでーー『洗脳』ではないか。
他人の為に自分が死ぬのは正義なのか。それで本望だとか本当に言えるのだろうか。
我が身を捨てて他人を愛せとでも言うのだろうか。
ふざけるな。そんなもの自己満足で勝手に死ぬだけじゃないか。
……きっと、学校側はそんなことを言いたいのではないのだろう。
人を助けられるようになりなさい。その程度のことを伝えたいのだと思う。
だからこれは僕のひねくれた見方だし他人から共感されることはないだろう。そんなことは自分でもわかっている。
それでも。いやそれゆえに。
僕は道徳が嫌いなのだ。
……だのに。それなのに。
気づいた時には飛び出していた。
ーーああ。結局僕もそうだったのか。
周りがスローモーションで見える。
右手には凄いスピードで迫ってくる電車が既に見えている。
前方では僕が突き飛ばしたおじいさんが驚いた顔をしているのがわかる。
あと一秒もたたないうちにきっと僕は身体中の骨がバキバキになって死ぬのだろう。
なぜ僕がこんな状況に陥っているのか?
簡単な話だ。高校からの下校途中、踏切が閉じているにも関わらずその下をくぐって渡ろうしているおじいさんを見た。
それだけなら無茶をするなぁという感想だけで終わったのだ。だが、あろうことかおじいさんは線路の真ん中でなにかの発作なのか、突然えずきだした。
もう電車は見えている。だからといってすぐに電車を止めることは当然出来ない。ならばどうやったら救えるか。答えはひとつしかなかった。
何故自分がおじいさんを突き飛ばしてまで身代わりになったのかはわからない。衝動的に動いてしまっただけだ。
多分僕はもう洗脳されていたのだろう。
でも不思議と悲しいとも、悔しいとも思わない。晴れやかな気分だ。
ーー案外人の為に死ぬのも悪くないかな。
最期にそんなことを考えて、この世界から僕の命は消えた。
ーー少年が命を賭して助けた老人はその後間も無く心臓発作で亡くなった。