第6話:幼馴染の宝物(1)
【前回からのあらすじ】
冬の夜、雪に濡れる屋根を裸足で渡り、自身の想いの強さを示した真珠。
シズカは真珠を本当の意味で受け入れられた。
それから数日後、雪にまみれて失意に暮れる少女『芹』に視点は移る。
芹は失意の中にあった。
彼女は空模様と自分の心とを重ね合わせていた。
天は分厚い雲に覆われ、地上から光を奪っている。
雲から数多の雪が地上に降り積もる。
吹きすさぶ風、乱暴にかき回される粉雪。
空を眺めているだけで芹はうんざりとした気分になった。足取りも重く、暗闇に包まれつつある雪の世界にこのまま埋もれてしまいそうだった。
芹は今朝、珍しく寝坊した。それが不幸の発端だった。
まず、慌てて家を出たせいでトイレのサンダルを履いて登校してしまい、二階堂に笑われた。それから昼休み、弁当を忘れたおかげで芋を洗うような大混雑を掻き分けて学食のパンを買う羽目になった。極めつけに、いつも一緒に昼休みを過ごしている友人らが委員会の仕事でいないため、学校の裏庭にある屋根つきのベンチで独りさびしくカレーパンを食べているところをシズカに目撃された。
――あっ、シズ!
弁明しようと彼に近寄ったものの「そういうの気にしてないから。僕も今日、一人で昼食食べたし」と先制されてたまらなく恥ずかしかった。
そんな芹の身に降りかかった災いの中で最も彼女を絶望させたのは、大事にしていた携帯電話のストラップをなくしたことだった。安っぽいプライドを守ろうとシズカに「普段は友達と食べてるから。一人でお昼食べてたのは今日だけだから」という旨のメールを送ろうとして、ポケットの携帯電話に手を伸ばしたときに気づいたのだった。
何しろ、今朝からずっと慌しくてどこで落としたのか見当もつかない。放課後、下校時刻寸前まで思い当たるところを片端から探したが、とうとう見つからなかった。失意の中、芹はコートのフードを目深にかぶって学校を後にしたのだった。肌に張り付く鬱陶しい粉雪に見舞われたのはその直後である。
「とにかく、今日はとことん最悪だったわ」
溜息と共にそうつぶやく。
神様はどうして私にかくも試練をもたらすのか。
撮り溜めていたドラマを深夜まで見て寝坊した己の罪から目をそらし、神に八つ当たりしていると、芹の傍を誰かがすれ違った。
一瞬、見知った人に見えた芹は振り返った。
粉雪が吹き荒れる中、目を凝らす。
その人物は膝まで届くコートを羽織っている上、頭にはつばの広いパナマ帽まで被っているため、何者か判別がつかない。背丈から男であることくらいは推察できる。
一体誰なんだろう。
どうしてか無性に気になって、芹は今来た道を引き返した。
曲がり角を曲がった瞬間、芹は胸に強い衝撃を受けて地面に腰を打った。幸いにも雪が緩衝材となって怪我はなかった。目の前に小学生くらいの少女が、芹と同じような格好で尻餅をついていた。
「ごめんなさい。大丈夫?」
芹が手を差し伸べる。少女は小さな手で彼女の手を握って立ち上がる。
「わっ、私の方こそごめんなさい」
丁寧にお辞儀をして去ろうとした少女は、数歩進んだところで立ち止まってしまった。
少女はおもむろに雪の上に膝をつき、両手を雪の中に突っ込んだ。
何か落としてしまったらしい。
少女は目に涙を滲ませながら必死に雪の中を掻き分けていた。鼻水をすする音が聞こえる。背中にみるみる雪が積もる。胸が痛くなるほど哀れな光景だった。
「落し物かしら?」
「私の大事なブローチ。お母さんにもらった」
少女の声は震えている。まばたきと同時に大粒の涙がこぼれ落ちた。鼻水をすする鼻も赤い。芹は制服のポケットからハンカチを出して少女の涙を拭った。
「私も一緒に探すから。だから泣かないで」
「はい。ありがとうございます」
芹も一緒になって足元の雪を掻き分け、少女のブローチを探した。
もしかすると知り合いの妹かもしれない。
自分とお揃いの学校指定のコートを着ている少女を横目で見ながら芹は思った。
榎町という田舎の高校では同級生などほぼ全員知り合いのようなものであるし、女子バスケットボール部の芹は先輩の顔もある程度知っていた。知り合いの誰かの面影と重なるような気がしつつも、ぼやけた輪郭しか浮かんでこない。具体的な映像を思い描けなくて芹はもどかしかった。
フードを被っているので顔ははっきりしないが、少女のか細い声と小さくてやわらかい手、病弱そうな白い肌から大人しそうな印象を受けた。
誰か、誰かに似ている……。
「あった、ありました!」
ぱぁっと顔を輝かせながら少女が立ち上がる。その手のひらにあるものを見た瞬間、芹は思わず「あっ」と声を上げた。
少女の手にある、金メッキが施された鳥のブローチ。それこそまさに先ほど芹がなくした携帯電話のストラップの飾りと同一のものであった。
「一緒に探してくれてありがとうございます。このブローチ、死んだお父さんからもらった大切なものだったんです」
少女の声が弾む。
「そっか。よかったね、見つかって」
「あ、お父さんもう死んでないんだった」
「え?」
「い、いえ、なんでもないです」
私がなくしたストラップと同じ飾り。
ブローチを大事そうに胸に抱く少女に、芹は喉下まで出かかった言葉を飲み込んだ。
せっかく大切なものが見つかったというのに、自分が水をさしてどうしようというのか。そもそも少女のものはストラップではないし、世の中に似たようなデザインのアクセサリなんていくらでもあるではないか。
雪を蹴って駆けていく少女の背中を見送りながら、芹はそう自分に言い聞かせた。
風は止み、今は静かに雪が舞い降りていた。
雪にまみれて湿った毛糸の手袋を脱ぐ。しもやけで両手は真っ赤になっており、指先の感覚がなかった。
「私だって大事にしてたのに。一生懸命探したのに」
芹は独りごつ。
ココアでも飲んで身体を温めようと、芹は自動販売機の前に立った。
「シズからもらった宝物なのに」
もう一度、独りごちた。
「芹、どうしたの?」
二階堂とのゲームに負けてジュースを買いに行かされたシズカは、道端の自動販売機の前で呆然とたたずむ芹を見つけた。
いつからそこにいたのか、頭にも肩にも雪が積もっている。視線は目の前の自販機にあるものの、瞳はどこか遠い世界を見つめている。心ここにあらずといった面持ちで、シズカが声をかけているのにもまるで気づいていなかった。
「ねえ、どいてほしいんだけど」
「あ……シズ」
「ジュース買いたいんだけど」
芹が脇に退くと、すかさずシズカが自動販売機の前に陣取る。
五百円硬貨を投入してコーヒー、オレンジジュース二本を立て続けに買ってコートの両ポケットにしまう。がこんがこんと次々缶が落ちてきてシズカが屈んで拾う光景を、芹は呆けた様子で眺めていた。シズカはちらっと一瞥をくれるだけで、芹のことはほとんど気にかけていないようであった。
シズカは最後にココアを買って芹の前に突き出した。
最初、芹はそれが何を意味しているのかわからなくて呆けたままであった。数秒後、自分に差し出しているのだと理解すると、シズカの手からココアを受け取った。素手だと熱すぎるので、コートの袖を手袋代わりにした。良い頃合になると素手で握った。
「ありがとう、シズ」
「弁当の次はお金を忘れたの?」
「ちっ、違うわよ!」
柔和な笑みが急に鬼の形相と化す。
「じゃあなんで物欲しそうな目をして自販機の前に突っ立てたのさ」
「ちょっとだけ、ぼーっとしてただけよ」
芹は前髪をくるくる指に巻いて恥ずかしさを紛らわしていた。
ココアの缶に触れていた指が充分温まると、芹は缶の蓋に指をかけた。
缶の蓋を開けるとココアの甘い香りと共に湯気が立ち上る。芹は恐るおそる唇を缶の縁につけてゆっくりと缶を傾け、ココアを口に含む。ココアの甘い味わいと熱が瞬く間に口の中に広がった。
芹がココアを飲んでいると、不意にシズカが彼女の肩に手を伸ばした。
芹は驚きのあまり咄嗟にシズカの手を払って飛びずさる。
シズカは彼女の反応を不愉快がった。
「肩と頭、すっごい雪積もってるんだけど」
「そ、そそそそういうことはちゃんと一言言ってからにしてよね!」
顔を朱に染めつつ、肩と頭の雪を自らの手で払う。
「心遣いは嬉しいけど、私もシズももう子供じゃないんだから。誰かにこんなの見られたら……さ」
「雪を払おうとしたこととそれにどんな関係があるのさ」
「……前言撤回。やっぱりシズはまだまだ子供ね」
あくまで親切心から雪を払おうとしたのに、露骨に嫌がられた上に何故か子供呼ばわりまでされたためシズカは心底不服だった。
普段の人間嫌いなシズカなら、困っている人に手を差し伸べたりするような真似は滅多にしない(パジャマ姿で雪の中寝ているなどという、極めて稀な例外を除いて)。幼馴染という気の知れた者が落ち込んでいたからこそココアを買ってやったり、肩の雪を払ってやろうという気になったのだ。
幼馴染の芹。
シズカと最も長い月日を共有する少女であり、シズカのことを最も気にかけている人間でもある。だが、シズカにとってそれはたまらないおせっかいだった。一歳年上だからってお姉さんぶった物言いをするのが、シズカは気に食わなかった。
山と海に閉ざされた冬の榎町は氷の世界と化している。
人の手の及ばぬ場所にはことごとく雪が降り積もっている。路面は氷結し、水溜りにも氷の膜。家屋の軒下には無数の氷柱が鋭く生えていた。ただでさえ過疎化が嘆かれる榎町は、この時期になるとますます人の姿を見なくなる。シズカは人の気配のしない、静寂に包まれた世界や、澄んだ冬の大気を気に入っていた。
「小学生の頃さ、私の家の庭でかまくら作ったよね。執事の山岡さんにも手伝ってもらってさ。中でお餅食べたり、トランプしたり。昔と比べて雪が積もらなくなったのは、もしかして地球温暖化の影響かしら」
「気のせいでしょ。僕らの背が伸びてそう感じるだけさ」
「私はともかく、シズは全然あの頃と変わらないじゃない」
悪戯っぽい口調の芹。シズカは「三センチも伸びてるんだけど」と精一杯強がった。
幼い頃、シズカは芹といつも一緒に遊んでいた。この時期になると、芹の家の庭で雪だるまやかまくらを作ったり、軒下や木の枝から垂れる氷柱を折って遊んだりしていた。男女や年齢の差など二人の間にはなく、ただ幼馴染という関係のみで繋がっていた。
高校生となった今でも二人の交友は続いている。もっとも、昔のように無邪気にじゃれあう関係ではなくなった。隣り合って歩く今のように、微妙な距離感が二人の隙間にあった。手も繋がなくなった。
「中学校に上がってからさ、一緒にかまくらとか雪だるま、つくらなくなったよね」
シズカが言った。
「二人で遊んでるのを友達に見られて恥ずかしかったのよ」
「恥ずかしい?」
「恥ずかしいに決まってるじゃない。学校でならともかくさ。シズこそどう? 私と遊んでるところを見られてからかわれたこととかない?」
「ある。むかついたし、恥ずかしかった」
「でしょ」
「僕のことを嫌ってたとか、そんなんじゃないんだね」
目をそらす不安げなシズカに、芹は一瞬ぽかんとした後くすくすと笑った。姉が愛しい弟に見せるかのような愛情を含んだ笑みだった。
不安を払拭してやろうとシズカの頭に手を触れて優しく撫でる。シズカは恥ずかしがりつつも素直に芹の行為を受け入れていた。
「シズってホントかわいい」
「ふざけるな」
「そうやって強がるところも。後で写メ送ってあげる」
冗談めかしながらポケットの携帯電話に手を伸ばした芹は、水分を失った花のように急に萎れてしまった。
「芹、どうしたの?」
「ねえ、シズ。話したいことがあるんだけど、いいかな?」
「長い?」
「長いかも」
「ならさ、ここじゃ寒いから家で話そうよ」
「し、シズの家で?」
「二階堂とあと一人、変な奴もいるけど。もしかして他人に聞かれたくない話?」
芹は首を横に振った。
二年ぶりだろうか、芹を家に上げるのは。ならば彼女が戸惑うのも無理はない。
ただ漠然とシズカは思った。






