第5話:真珠の宇宙
【前回からのあらすじ】
自分を父親として慕う真珠に戸惑いながらも、不器用に接するシズカ。
『お父さん』に教えてもらったという真珠のカレーを堪能したシズカはその夜、自室の窓から冬の夜空を眺める。
夜中、シズカは一人、二階の窓から身を乗り出して星空を眺めていた。
シズカは冬の夜が好きだった。
冷たい空気が心を落ち着かせる。アルミ製の窓枠の冷たさが手のひら全体に伝わる。凍りつくような冷たさを感じつつも心地よい。月光を照り返す雪も美しい。
冬の夜はあらゆるものを凍らせる。道路の水溜りも、バケツに溜まった水も、公園の池も、今まさに滴り落ちんとする水滴さえもだ。本来形無きものすら形として留める冬の夜が神聖なものだと感じられた。
「でも寒いな」
暗黒の宇宙にまたたく数多の星も一段と輝いている。その光景は飲み込まれそうなほど圧倒的で、手を伸ばしたらそのまま宇宙に吸い込まれてしまいそうな錯覚すらしてしまう。
空の見える夜になると、毎晩シズカの心は冬の宇宙にさらわれていた。
何もかも捨て去って、この宇宙に飲み込まれてみたい。目を閉じたまま宇宙を静かに漂いたい。
ふとしたら痕跡すら残さず消えてしまいかねない、危険な願望だった。
「寒い」
レールを走る列車の音が遠くから耳に届く。地上に視線を移す。空と比べたらずいぶんとさびしい数の、人間の暮らしという星が闇の中で光ったり消えたりしている。道路を走る自動車の音がもの悲しさを引き立てていた。
「お父さん」
小さな声がシズカを呼ぶ。
隣の部屋の窓に目をやる。真珠がシズカと同じ姿勢で身を乗り出していた。
真珠はシズカと同じ柄で色違いのパジャマを着ている。元々はシズカの母のお下がりであるため、袖を二重に折ってもまだぶかぶかだった。右肩の部分も今にもずり落ちそうだった。カーディガンを羽織っていたシズカは思わず身震いし、襟を胸元まで寄せた。
「お前、寒くないの?」
「ぜんぜん平気」
えへへ、と平然そうに笑う。
真珠の柔らかな髪が冬の宇宙と同化している。さながら星のように、風に舞うたび月光を反射してきらきらと輝いている。そんな彼女に見とれた己が悔しくて、シズカは逃げるように目をそらした。
「お父さん、何見てたの?」
「空」
真珠が夜空を仰ぐ。
漆黒の空にばら撒かれた数え切れないほどの粒。それらをいちいち数えるかのように、真珠はぽかんと口を開けたまま空を凝視していた。彼女もまたシズカと同じように冬の空の圧倒的な存在感に飲み込まれたのだ。
その間、シズカは真珠をじっと見つめていた。
星を眺める真珠の横顔は昼間のか弱く無邪気な少女とは違う、大人びた雰囲気をかもし出していた。微風が吹いて彼女の髪がはためき、波を描く。晒されるうなじ。長い睫毛。あどけなさの中に宿した彼女の魅力にシズカは抗えなかった。
真珠の話が真実なら、彼女には未来のシズカが恋し、結婚した女性の遺伝子が組み込まれている。だから目の前の少女に釘付けになるのもある意味必然なのである。そう言い聞かせることによって、シズカは『真珠なんか』に見とれてしまった悔しさを紛らわした。
「きれいだね」
「……ああ」
「私も見てたんだ、あの日」
「あの日って?」
「お父さんと逢えた日」
真珠は嬉しそうににこりと笑う。
シズカは『あの日』を思い出す。
雪以外に何もない世界。そこで一人、呆れるほど穏やかな寝息を立てていた少女がいた。大いなる存在の加護を得ているかのように陽の光に守られて眠っていたのだ。少女はシズカの娘だと名乗り、今こうして一枚の壁を隔てて同じ夜空を見上げている。
シズカに会いたいがため、二十年の時を遡ってやってきた少女、真珠。デジャヴと呼ぶのか、はたまた月夜にまやかされているのか、シズカはずっと昔から二人でこうしていたような錯覚を覚えていた。他人とは思えないような懐かしさを真珠から感じ取った。
「あの日、眠る前、窓の外を眺めながらお祈りしたの――お父さんとお母さんに会えますように、って。そしたらね、目が覚めたら本当にお父さんと会えてびっくりした。きっと神様が願いを叶えてくれたんだね」
右手の隙間がきらりと光る。真珠は金の鳥のブローチを握っていた。母からもらった宝物だと真珠は言った。常に肌身離さず身に着けており、眠るときもそばに置いておくらしい。
「母親の名前は?」
「るり。天野瑠璃」
「そんな奴、僕は知らない。そもそも、どうして僕がお前の父親だってわかるんだよ。証拠でもあるの?」
「だって、私を起こしてくれたのがお父さんだったから」
「理由になってない」
「それにお父さんの顔、私の知っている頃と全然変わってなかった。抱っこしてくれた腕も、つないでくれた手も。未来のお父さんはずっと前に死んじゃったけど、優しかったお父さんのこといつでも思い出せるよ」
真珠の口ぶりから察するに、真珠の父親は娘思いの優しい人間だったのだろう。日曜日に海に連れて行ったり、得意な料理を教えたりするような。まさにシズカの父ヒジリと同じような。
「僕はそんなんじゃない。お前が思ってるような人間じゃない」
自分は他者を思いやれるような人間ではないし、これからも多分そうはなれないことを、シズカは自覚している。真珠の話が嘘であろうと真であろうと、シズカは真珠の父親にはなれないことを知っていた。朗らかな少女のそばにいたから、愚かにも今この瞬間まで忘れていただけだった。
「だから、僕に変な期待をしないでよ」
シズカは真珠が嫌いなのではない。
嫌いなのは――何もかも不器用で無愛想な自分自身。
「そんなことないよ」
真珠は首を横に振る。
「お父さんはお父さんだよ。お父さんは今だって私の知ってるやさしいお父さんだよ」
真珠のむき出しの愛情が、真心が、シズカにはかえって重圧となった。
「今からそれを証明するね」
そう言うや否や、真珠は窓枠をまたぐ。
そして――真下にある一階部分の屋根に飛び乗った。
シズカは一瞬、何が起こったのかわからず言葉を失った。
目に映るのは、屋根の上に立つ真珠の姿。
真珠は両手を広げバランスを取りながら、危なげに屋根の上に立つ。そしてよろよろと一歩ずつ屋根を伝い、シズカの窓に向かって歩を進めた。
真夜中の月を背に、屋根を渡る裸足の少女。
風で彼女の長い髪と服の袖が踊る。
芸術的絵画とも取れる光景にシズカは息を呑んだ。
一瞬でも気が散ったらその途端、彼女は足を滑らせて闇の中へ真っ逆さまだろう。シズカは迂闊に制止することも出来ず、黙って彼女を見守っていた。
薄く積もった雪を裸足で踏みしめる。親指で屋根を強く踏み、真珠はゆっくりと一歩ずつ、確実に前へ進む。風に弄ばれ、時折右へ左へ揺れるたびにシズカは肝を冷やした。
真珠が手の届く距離まで到達したのを見計らって、シズカは彼女の腕を引っ掴んで強引に窓から部屋の中へ引き込んだ。
勢いあまって二人はシズカの部屋に転げ落ちた。
シズカはベッドの縁に背中を打つ。胸の中に真珠がいて、ちょうど彼女を抱きしめる姿勢になっていた。
真珠の体温が、抱きしめる腕と押さえつける胸に伝わる。やわらかい髪から甘い香りがした。
「お前、馬鹿だろ!」
声を荒らげながら肩をゆする。
「なんで泣いてるんだよ」
シズカは真珠が泣いていることに気がついた。
二つの宝石からひとつずつ、しずくがこぼれる。ほのかに赤く染まった頬を滑って膝の上に落ち、パジャマの生地に染みて消える。そしてまたしずくがこぼれ落ちる。しずくは絶え間なく真珠からこぼれ落ち、パジャマを濡らしていた。
真珠が無謀な行動を取った理由も、涙を流す理由もわからずシズカは戸惑った。
「お父さん」
「なんだよ」
「これからも『お父さん』って呼んでいいですか」
たったその一言でシズカはふたつの理由を理解した。同時に、今更だが、父親だけでなく母親までをも失った彼女の心細さも思い知った。
真珠は今いくつだ。小学校も卒業しない年齢で両親を亡くし、真珠は孤立したのだ。列車事故で父親を失ったシズカでさえ、母や祖父母といった保護者がいたのだ。母親をも失った彼女の孤独は計り知れない。
そんな孤独の中、真珠はシズカと出逢ったのだ。
祈りが届き、目を開けた瞬間に。
真珠にとって己がどのような存在であるのか。
鼻先が触れ合うほど近くにいる少女。彼女の涙と嗚咽でシズカはそれを理解した。
つまるところ、先ほどの屋根渡りは彼女なりの、シズカとの『賭け』だったのだ。『父』が見ず知らずの自分を受け入れてくれるかという……分の悪い。仮に賭けに負けて屋根から滑り落ち、硬いアスファルトに激突したとしても構わなかったのだ。その恐怖に立ち向かうだけの見返りが屋根を渡った先にあるのだから。
シズカの胸に飛び込んだ時点で真珠は『賭け』に勝ったのだ。
「ああ、好きにすりゃいいさ」
いくら未来の父親といえど、シズカはまだ高校一年生でしかない。二階堂に言わせれば、精神年齢はもっとずっと下のはず。故にシズカはまだ父親のように娘を強く抱擁する気概など持ち合わせてはいない。もっとも、抱きしめたりせずとも、不器用に背中をなでるだけでシズカの気持ちは充分真珠に伝わっていた。
自分が本当に真珠の父親かどうかなど、もはや関係ない。
真珠の涙が冬の大気で凍りつく前に、シズカは涙を拭ってやった。
真珠と出逢ってから二度目の夜の出来事だった。