第4話:白き少女(3)
【前回からのあらすじ】
真珠はシズカを父として慕ってくるが、シズカは『お父さん』と呼ばれるのを嫌っていた。
理由を二階堂が尋ねるが、シズカ自身も考えがまとまらず黙り込む。
そして――
シズカを『お父さん』と呼ぶときの真珠は心底幸せそうだった。愛しげだった。失いかけた幸福を噛み締めるかのようだった。
シズカはすぐに頭を振って己の考えを否定した。理由は定かではないにしろ、未来から来た娘などどう考えても嘘であるし、彼女に父と呼ばれる筋合いなど欠片もない。
それでも「お父さんって呼ぶな」と冷たく突き放して真珠の幸福を無残に砕いたとき、シズカの良心はちくちくと痛んだ。
やっぱりお父さんだ。
あの日、雪に埋もれた世界の只中で見せた真珠の笑みがシズカの脳裏によみがえる。夢心地で、甘えるような、心の底からの幸せを表現した微笑だった。それを平気で破壊できるほどシズカは薄情ではない。
「ひょっとして、死んだ親父さんのことを思い出すから嫌なのか?」
シズカは首を横に振って否定する。
「事故のことはみんなが思ってるほど気にしてないよ。自分のせいで父さんが死んだなんて負い目もない。そもそも十年前のことなんてよく憶えてないし」
どちらかといえば、必要以上に列車事故のことを気遣われるほうがシズカにとって居心地が悪かった。
いかに人々の記憶に残る出来事であろうと、時の引き潮は記憶の砂浜からあらゆる感情を呑み込み、さらってゆく。事故の痛みも父親の死も、本人にとっては既に過去の出来事なのだ。感傷に浸りこそすれ、悲嘆に暮れて涙することなど今更ない。悪夢には時折悩まされるが。
「そもそも、得体の知れない人間に『お父さん』なんて呼ばれたら誰だって気味が悪い」
「あんな可愛い女の子を前にして『得体の知れない』ってのはあんまりだろ」
「ぜんぜんっ可愛くなんてない。それにさ、仮に僕があいつの父親だったとしたら、僕は三十代くらいで死ぬってことになるじゃないか。縁起でもないよ」
「ふーむ。なら折衷案として『お兄ちゃん』と呼ばせるのは?」
「そ、そういう問題じゃないだろ」
シズカは頬を染め、無言のままうつむいてしまった。
シズカの反応を見て二階堂が意外そうな顔をしていた。シズカは自分の隠していた『弱み』を思いがけず知られてしまい、不意をつかれた気分になった。二階堂は目ざといから、シズカの弱点など瞬く間に見通せる。
「まぁ、お父さんだろうとお兄ちゃんだろうと、ひとつだけ確かなことがある。それは真珠ちゃんがお前のことを好いてくれてるってことさ。唯一の肉親と同等の存在としてな。クールぶってないで、お前も彼女に応えてやったらどうだ」
去り際、二階堂はシズカに言った。
「俺はお前がうらやましい。無条件に慕ってくれる人がいてさ」
背中の夕日が逆光となり、二階堂の表情が隠される。
二階堂は両親から満足な愛情を受けられないまま育った。都会暮らしから一転して雪に埋もれた田舎町に引っ越したのも、高校生にも関わらず一人暮らしを始めたのも、いずれも折り合いの悪かった両親から離れるためだったとシズカは聞かされている。
「親がいなくてさびしい気持ちは、俺もお前もよくわかってるだろ?」
シズカは言い返せなかった。真珠と出逢ったきっかけがまさしく父の幻影を追いかけたことだったから。
三人は共通していた。欠けた部分を埋め合わせようと足掻くところが。
夕食はカレーだった。シズカの好みどおり甘口だった。
こたつのテーブルに並べられた五枚の皿を前にして「私が作りました」と真珠が得意そうに胸を張っていた。母と祖母が拍手している。シズカはさっさと席について、食事が始まるのを静かに待っていた。
こたつの四辺に家族がそれぞれ座する。各辺にシズカ、母、祖父母が一人ずつ。真珠はシズカの隣に座っていた。彼女特有の少しかすれた小さな声がはっきりと届く距離にいる。
こたつの中で互いの脚が触れ合う。ゼロに近い距離。シズカは左耳がこそばゆかった。こそばゆさから逃げんとこたつの端に寄ると、真珠は脚を更に広げる。ずうずうし奴だ、とシズカが睨むと真珠は逆に嬉しがってにこりと笑った。
「お父さん」
小さな口から小さな声がこぼれる。
――真珠ちゃんはお前のことを好いてくれてるってことさ。
二階堂の言葉がよみがえる。
シズカは余計くすぐったくなり、目をそらした。
窓の外は暗闇だった。電柱に吊るされた街灯の明かりがレースのカーテン越しにぼやけて映る。シズカは夏の蛍を連想した。
夏になれば雪の代わりに蛍が田んぼの上を舞う。都会ではもはや蛍など拝めないらしく、カップルや家族連れなどの見物客が遠くから訪れて榎町は若干賑わう。シズカも一度だけ、父ヒジリと蛍を見に行ったことがあった。緑色の小さな光が無数に舞う光景を二人で眺めたのを憶えている。
あまりにもきれいだったからであろうか。当時五歳のシズカは一匹だけ蛍を捕まえて家に持って帰った。翌朝になると蛍はコーヒー瓶の中で孤独に死んでいた。蛍の屍骸を父と二人で庭の花壇に埋葬した。その日、シズカは生まれて初めて『罪悪感』という感情を知った。
父ヒジリは蛍が死ぬことをきっと知っていた。
にも関わらず、何故父は無邪気に蛍を捕まえる息子を制止しなかったのか。罪悪感を息子に教えるために、あえて止めなかったのであろうか。蛍を見殺しにしてまで? 確信は持てない。シズカは『まだ』父親ではないので、ヒジリの気持ちを理解できなかった。
蛍を埋めたその日以来、シズカは蛍を見ていない。
「カレー、冷めるよ?」
「うるさい。今食べる」
カレーをスプーンですくって恐るおそる食べる。普段よりもとろみが強い。牛肉と野菜に加えてまいたけも混じっている。適度な辛さと牛肉の味わい、ほくほくのじゃがいも、甘いにんじん、そしてまいたけの歯ごたえが絶妙に組み合わさっていた。
「……」
「なに見てるんだよ」
次々とカレーを口に運ぶ様子を真珠がじっと観察していたので、シズカは大いに鬱陶しがった。腹が立ったので、目を輝かせた真珠の「おいしい?」という問いかけに対して「普通」とだけ答えた。期待通りの返事をもらえなかったらしく、真珠はへなっと萎れた。
「おかしいな、お父さんに教えてもらったのに」
真珠が「うーん」とうなりながら首をひねる。
「料理、してたんだ」
「今のお父さんはお料理しないの?」
「ぜんぜん、まったく、ちっとも興味ない」
「お父さんね、お母さんよりお料理上手だったんだよ。お母さん病院で働いてて、帰ってくるのいつも遅かったから、お父さんがご飯作ってたんだよ」
シズカは不思議な気分に陥っていた。未来の自分が作った料理と同じ味の料理を過去の自分が食べている。しかも、未来から来た娘と一緒に。真珠の話を信じていないつもりでも、やはり奇妙だった。
シズカとは対照的に母や祖父母は「おいしい」「おいしいわぁ」とひたすら真珠のカレーを褒めちぎっていた。祖母に頭を撫でられて真珠はくすぐったそうにしていた。へそ曲がりな本物の孫よりもよほど孫らしかった。
こういうとき、未来の自分は「おいしい」と答えたのだろうか。自分を真似て料理を作る愛しい娘に対して。
ふと思ったが、シズカは即座に頭を振って考えを振り払った。
「お前、料理は得意なんだ」
「えっと……うん! す、すっごく得意。なんでも作れる! お父さんが好きなハンバーグも作れるよ!」
シズカに話を振られたのがよほど嬉しかったのだろう。真珠はここぞとばかりに食いついてきた。
「酢豚は作れる?」
「酢豚は作れない、かも。お父さんピーマン苦手だったから」
真珠の勢いは瞬く間に失速し、しょんぼりと肩を落とす。
「で、でも、お父さんのためにがんばって覚えるよ」
「別にいい」
「……うん」
「ハンバーグでいい」
「え?」
「酢豚よりハンバーグがいい」
「じゃ、じゃあ、明日はハンバーグ作るね!」
曇り空だった真珠の顔がぱぁっと輝いた。
真珠が未来の娘であろうとなかろうと、きっと子供が出来たら自分は甘やかしてしまうのだろうな、とシズカは苦笑した。
「本当に真珠ちゃんはいじらしくてかわいいわ」
「長生きする気にもなるってもんだよ」
「こんなにいい嫁さんもらえて、シズカも果報者だなぁ」
「……は?」
嫁、という言葉が聞こえ、シズカは耳を疑う。
「ばあさんの若い頃とそっくりだ」
「今時なかなかいないわよ、こんな奥ゆかしい子」
「シズカも恥ずかしがらないで、もっとこっちいらっしゃい」
母がシズカの背中を押して、無理やり真珠とくっつける。
「じいちゃん、僕が昨日なんて話したか忘れたの?」
「おお、憶えてるとも。あー、確かシズカの未来の嫁だとかどうとか」
「……」
「でもね、二人ともまだ未成年だから、部屋は別々じゃないとダメよ」
母のくだらない冗談に祖父母がどっと笑う。真珠も合わせて笑うが、言葉の意味は理解していないようである。難しい顔をしているシズカを差し置いて、家族はひとしきり談笑していた。真珠は口数こそ少ないもののすっかり天野家に馴染んでいた。
母も祖父母も、真珠の素性をまるごと信じていたとシズカは思っていた。ところが、それはまるで勘違いだったのだ。家族はシズカとは『別の意味』で、未来から来た娘だということを信じていなかったのだ。だから母や祖父母は彼女をまるで『娘のように』甘やかしていたのだ。
そのことに気づいた瞬間、シズカは青ざめた。
真珠は愛しい父の隣で無邪気な笑みを家族に振りまいていた。