第0話:父の影(1)
「……んっ」
シズカは眠りから醒めた。
ここが現実であるのを確かめるため、彼はまぶたを強くこする。
ぼやけていた視界が徐々に明瞭になってゆく。しばらくすると、見慣れた駅舎の様子が彼の眼にはっきりと映った。間違いなく、ここは現実だった。
――いつのまに寝ていたのだろう。
駅舎はひたすら静けさを保っていた。休憩室の隅にシズカただ一人がぽつんと座っていて、あとは暖房が熱を吐きながらうなっているだけである。改札口に立っている駅員の姿が休憩室のガラス越しに確認できる。まだ電車の来る時刻ではないらしく、乗客らしき人はシズカの他に誰もいない。
いつもと同じ、田舎の寂れた駅舎だ。
シズカの額には冷や汗。マフラーで覆われた首元やコートの下に着た高校の制服も汗で蒸れている。心臓が高鳴り、喉もひどく渇いていた。
もう十年も経ったというのに、時折シズカは十年前の悲劇を夢に見てうなされる。平和な世界に身を横たえのんびり進んでゆく日常の中で、唐突にそれはシズカの前に姿を現す。トラウマというほどではないにせよ、鬱陶しい存在ではあった。
ジッパーを下げてコートを開け放ち、マフラーを解いて制服のボタンを外し、首元を緩める。いくらか気分は回復した。
「よく死ななかったよな、僕」
誰ともなくシズカは独りごつ。
十年前。シズカがまだ六歳だった頃、彼は死を体験した。
正確には死の寸前か。列車が脱線して、線路沿いの道を歩いていたシズカはそれに巻き込まれたのだ。
十年前の列車脱線事故での死傷者は数多。シズカのように事故に巻き込まれながら軽傷で済んだ者はごくわずかだった。
カーブを曲がりきれずレールから外れた列車は道路にその巨体を投げ放った。その先にいたのは幼い、まだ物心のつかぬ少年シズカだった。
脱線から激突までのほんの数秒、何が起こっているのかも理解できぬまま、当時まだ六歳だったシズカは恐ろしい速度で迫りくるそれを呆然と眺めていることしかできなかった。よしんば彼が今と同じ年齢だったとしても、そのとき彼に一体何が出来たであろうか。恐怖したか否かの差程度であろう。
幼いシズカは逃げることも悲鳴を上げることもできぬまま四両編成、時速数十キロの列車に撥ね飛ばされた。列車はシズカを撥ね飛ばし、他の歩行者や自動車をも巻き込みながら民家に激突したのだった。
轟音と振動、粉塵。それらが収まると、辺りは不気味なくらい静かになった。
十年前の列車脱線事故は当時新聞やテレビでも大きく取り沙汰され、のどかな町は一時期類を見ない賑わいを見せた。誰も知らないような町長の姿がニュースの映像で何度も映った。騒ぎは一ヶ月程度で終息し、町は再び静けさを取り戻した。
海辺に位置し、山に囲まれて世間から断絶された、超が三つも四つもつくこの平凡極まりない片田舎――榎町。列車事故はその町で起こったこれまでで最も大きな事故だった。シズカにとっても忘れたくとも忘れられぬ出来事であり、時折こうして夢で当時が再現される。列車に轢かれる寸前の場面でいつも夢が終わるのが唯一の幸いであった。
「雪、まだ止んでないのか」
うんざりとした口調と共に、シズカは駅舎の窓から天を仰ぐ。
灰色の空から雪がふわふわと舞い降りている。地面には雪が積もり、世界を白に染めている。錆まみれの駅舎の屋根も、広場の時計も、駐車場の自動車も、自転車も、人も、もれなく雪を被っている。
「それにしても暗いな」
時計に目をやると、もう午後の六時だった。
こんな山と海に閉ざされた田舎だと電車は一時間に一本、朝の通勤時でも二本という有様だ。加えてこの季節は豪雪で運休が多発する。シズカは帰りの電車を待っている間、つい一時間ほどうたた寝してしまったらしい。
足元に落ちていた文庫本を拾ってカバンに詰め込む。ついでにペットボトルを取り出し、ジュースを口に含む。ブドウの甘い味が口に広がる。
シズカは寝覚めの身体で駅舎を出る。
雪が舞い降りる空の下、冬の冷たさを存分に味わった。
駅舎から出た直後、シズカは自分はまだ夢から覚めきっていないのかと疑った。まぶたをこすって頭を振って、もう一度見やる。確かにその人はそこにいた。
横断歩道の前に父の後姿があった。
幼い頃よく負ぶってもらった懐かしい背中、古びた帽子。忘れるはずのない、シズカの記憶にあるやさしさと穏やかさを兼ね備えた父の背中だった。断じて空似などではない、とシズカは言い切れた。幼い頃よく負ぶってもらった父の背は絶対に忘れられないほど、シズカの記憶に刻まれていだ。そして何より、他人とは思えない『懐かしさ』をその背中から感じ取った。
息子の姿に気づいていないのか、父は横断歩道を渡って向こう側の歩道へ歩いてゆく。追おうか追うまいか逡巡している間に信号が赤に切り替わる。自動車が数台行き交う。左右を見計らって飛び出そうとするも、シズカの律儀な性分がそれを咎める。横断歩道の信号が再び青に切り替わった瞬間、シズカは雪を蹴り飛ばす勢いで駆け出し、父の後姿を追った。
父を追いかけながらシズカは心の中で自身に呆れ返っていた。
――どうして僕はあの人を追おうしているのだろう。単に背中を見ただけで、自分の父だと思い込んでしまうだなんて。僕はまだ夢に惑わされているのかもしれない。そもそも父、天野ヒジリはとうの昔……十年前に僕を庇って列車事故で死んだというのに。