命廻天意 〜使いの背反〜
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神の七日間に渡る天地創造。まだ無に近い状態であった一日目に、私達天使は生まれた。
神が無より創造された世界は、火・水・風・土の四つの元素で成り立っており、私達は火より生まれ出でた。
もう一つ土から創られたもの。それは、人間という生体物質である。
人間は男と女に別れ、制限付きの命が与えられ、繁殖の能力と生きる術を持った。
私達は母なる神のような永遠の存在ではないが、人間の魂のように不死のものである。天使も人間の魂も、不滅の物質から構成されている。
私達天使は全ての創造物の始源であり、神の光輝より流出したのだ――。
神は光の屈折が生み出す空間に手を伸ばし、その中に漂うエーテルという原質によって構成された霊体の私を掴み取り、実体を作り上げて下さった。
身体を与えられたと同時、私はアゼルという名を頂いた。そして、地上の人間を見張る役目を負った“グリゴリ”と呼ばれる者達の指導者に就任することになったのだ。
「ガドリール、日々増えて行く人間達の繁殖能力とは凄いものだな」
「これはアゼル様。繁殖と生きる術の能力しか与えられていないのですから、当然ではないでしょうか」
遥か遠い地上では、人間達の生と死が繰り返されている。彼等が気付くことの出来ない、気の遠くなりそうな程に離れた天上世界で、私達グリゴリはそれを常に眺め続けることを使命としていた。
このガドリールは、私の補佐的立場である。
「同じことの繰り返しでつまらないな」
「同感ですね。しかし私は一つ楽しみを見付けました」
地上から目を離さないままのガドリールの瞳は、柔らかく細められる。彼の唇に浮かぶ微笑に、さも楽しいことなのだろう、と私の興味はそそられた。
「それは何だ。私にも教えてくれ」
「見ていて分かりませぬか」
――見ていて、とは人間のことか?
私は詳細を語らぬガドリールを不満げに一眼し、ゆっくりと地上へ視線を移す。そこには、いつもと何等変わらぬ人間達の姿が在るだけだ。
「分からぬ」
そう唸るように声を発した私に驚いたのか、ガドリールはやっとこちらを向いた。一度肩を竦めた彼は、地上を指差し
「女ですよ」
と、再び私から人間へと視線を戻す。
「女だと」
人間の片方の種類を表す単語。私は疑問に眉を顰めた。
女の何が楽しいのか、私は見極めようと地上へ目を遣った。地を耕す屈強な男を視界の片隅に、種類の違いはこれほどか、と思わせる柔らかな曲線の身体を持つ女を見付けた。
普段何気なく見ていたものを、私は初めて深く観察したのではないだろうか。何故なら、その一瞬で魅了されたからだ。
私の見付けた一人の女。こ高い丘にぽつんと生える樹木の根に座り、栗色の長い髪は風に溶けて。大きな瞳は陽の彩を受け煌めき、花のような唇は可憐な歌声を生み出していた。
「どうですか? 女とは美しい存在でしょう。特に娘は素晴らしい」
熱っぽい眼差しを地上へと送るガドリールの瞳。私はそれに感染してしまったのか、見付けた女――麗しい娘から――目が放せない。
「これで、つまらないという問題は解決されたでしょう?」
「ああ。そうだな……」
――あの娘を見ていたい。ずっと。
私は気のない返事を返す。瞬くことも出来ず、興奮にも似た感情に混乱しつつも抗えずに。ただ一人の娘だけを、延々と見続けていた。
来る日も来る日も、私はあの娘の姿だけを追っていた。人間達の監視は、二百余り存在するグリゴリの部下達に任せきりだ。
使命を放棄しているようなものだ、そのような神に背く真似は許されないと分かっている。だが抗えないのだ、この衝動に。私を突き動かす、胸を焦がす炎に。
これは何なのだ。もどかしい想いが、私を支配して行く感覚。美しい娘が花よりも可憐に笑い、月よりも神秘的に愁う度、私の感情の器から何かが溢れ出す。
使命に支障をきたす感情は邪魔だ。しかし何よりも心地良いこの感覚は、私を着実に蝕んでいる。
この病。ついには、グリゴリ全てに広がりを見せて行った。それぞれが娘達に魅了され、使命の言葉など記憶の欠片にすら在るのかどうか。
地上を夢中に見つめるグリゴリ達は生き生きとしているが、瞳に映すは監視には程遠いものばかり。
気付けばついに我々は使命を忘れ、のめり込むように美しい花々を愛でていた。
「遠く離れた世界とは、何と恨めしいものだろうか」
手を伸ばしても届くはずのない世界へ、私は何度それを試しただろう。
――この手で、触れたい。
だがそれは、叶わぬ夢。望んではならないこと。
使命という名の隔たりが、この想いを尚も恋しく膨脹させているのだろうか。
雲の垣間に見える、水蒸気の鏡に映し出された私の顔は、酷く情けなかった。
「なんて顔だ。そんなにも、あの娘が愛しいか」
水鏡の己に語りかけると、胸の奥底から沸き上がる熱が応えてくる。焦がすようにちりちりと痛む胸、そこに全神経が集中するようだった。
――痛い。辛い。
あの娘が居着いた心。必死の抵抗を見せなければ、刹那の内に堕ちてしまいそうだ。
「アゼル様」
苦痛と葛藤に飲み込まれそうな時、我が名を呼ぶ声が背中を叩く。
「ガドリール……」
振り向いた私と視線が交わった途端、ガドリールはきょとん、といったふうに目を丸くした。しかしその目は直ぐに細められ、彼は吐息のような笑い声を漏らした。
「そのような顔をなされる程、人間の娘が恋しいのですか」
「な、何を馬鹿なことを。私は……」
そんな愚かな幻想など抱いてはいない。と、その言葉が私の口から出てくれない。どんな弁明をしようとも、偽りとなる言葉は力を成さないのだ。陳腐な言い訳など、知に長けた彼には通じぬだろう。
表情を苦に歪ませ、下唇をきつく噛み締めた私の肩に、ガドリールの手がやんわりと触れた。
「私も同じですよ」
彼の瞳が、切なさに揺れる。私と変わらぬ想いに苦しむ姿。我々グリゴリは一人も逃れることが出来ずに、夢や幻想の高波に飲まれ、その中で惨めにもがいていたのだ。
「私は、地上に降りようと思います。同じ想いに苦しむ者達を連れて。アゼル様も、共に行きましょう」
――神よ……。
私が彼御方を尊んだのは、それが最後だった。
風が、変わる。上に居た時は感じられなかった地上の匂い。
神聖なキンとした空気が柔らかく解れ、この身を縛るようだった緊張感が消えて行く。けれど微かに清浄さを欠く世界は、背に在る純白の翼を穢れに染めて行った。
地上に降り立った我々グリゴリは、各々が目当ての花へと散り散りになる。ガドリールもまた、直ぐに私の前から姿を消した。
私も両の翼を広げ、大空を舞った。ハラハラと幾つかの羽根を降らせ、焦る心を宥めながら、あの娘の元へ急いだ。
天上で気の遠くなる程に眺め続けていたのだから、居場所は解している。きっと今は視界に映り始めた、あの樹木の聳える丘に。
――嗚呼、見付けた。しかし、突然現れた私を娘は何と思うだろう。
この世界に存在する、どんな金銀財宝も敵わぬだろう美しい娘。その柔らかに靡く髪の一筋一筋が、空で躊躇う私を誘う。
その時、突風が私の羽根を掠った。雪のように舞いながら、娘へと降り落ちて行く。鳥のそれよりも遥か大きな羽根を掴み、娘は驚いたように空を仰いだ。
「あ……貴方は……?」
いつも精神で感じ取っていた娘の声が、直接耳の奥に響く。湧き出る泉よりも澄み切った声音。
――もっと近くで聞きたい。
その一瞬で躊躇いを忘れ、得体の知れぬ者を見開いた瞳で見つめる娘へと、吸い込まれるように私は舞い降りて行った。
「まぁ、なんて麗しいのでしょう」
私の姿を間近に捕らえた娘は、両の指を唇の前で絡ませ、うっとりと頬を染めた。
私達の造りは、人間の男と同じ。だが線は細く、全てにおいて神聖な物質で構成されている容姿は輝いた。しかし私は、人間から見れば異形種だ。この美しい娘に、受け入れて貰える自信など無かったのだが――。
「娘、名は?」
「シスと申します」
私がゆっくりと近付くも、シスは警戒するそぶりを見せない。それどころかその滑らかに細い足は、緑の芝生を踏み締めながら私へと歩み寄って来る。
「私は、アゼル」
求めるように、腕を伸ばした。拒まぬシスの頬に触れ、吸い付くような肌の潤いに歓喜する。
頭一つ分は身の丈が高い私を見上げるシス。その表情には見覚えがあった。水鏡に映った、恋しさに愁いでいた私の表情とよく似ている。
これは、運命という名の神のお導きだろうか。使命に背いた私へ、それは有り得ないことだろうけれど。シスの愛しい顔を見ると、そうとしか思えなくなる私はご都合主義なのか。
「お前を欲し、私は今、ここに居る」
「きっと私が今ここに居るのも、貴方に会う為だったのです」
神には及ばぬが、まるで奇跡の如く。私達は共に惹かれ合い、そして、深い愛の渦へと巻き込まれていった――。
愛しい、愛しいシスよ。私にはお前さえ居れば良い。他には何も望まぬ。
――永遠にお前と共に。それが私の唯一の願いだ。
「アゼル、見て。どうかしら」
「とても美しいよ」
シスはもとより何物にも劣らぬ美貌を持っていたが、それに気付かずに私を見ては落ち込むことがあった。少しでも自信を持ってくれたら、と私はシスに容姿を装飾する化粧を教えたのだ。
人間に何かを教えるということを神は禁じておられたが、天界から降りた私には無関係だ。
他にも、異形の者故にされる警戒を解く為、男達に剣や楯などの武具、金属の指輪などの装飾品を構成する知識を与えて行った。
私が与えた覚えのない知識を持つ人間が現れ始めたのは、他のグリゴリ達も私と同様に上手くいっている証だろう。
「アゼル。私、子供が出来たわ」
「嗚呼……お前はなんて素晴らしいのだ」
幸多き日々が続く。最愛のシスと、その中に宿った小さな命。この至福の夢は、永久に覚めることはない。私は、そう信じていた。
しかし、武器を持った男達は戦い争うことを覚え、女達は派手に装い男に媚びを売ることを覚えて行った。
領土だなんだと男達の戦は絶えず、女達は生きる為、または快楽を得る為にその身を様々に穢した。
私達の与えた知識により、平和だった地上が壊れて行く。だが荒廃は、それだけの為ではなかった。
「アゼル、エルヒムが居ないの。目を離した隙にあの子ったら」
「他の子らも姿を消したらしい」
グリゴリと人間の娘の間に生まれた子は全て、私達とは似ても似つかぬ恐ろしく醜い、巨人の化け物だった。
種の違う掛け合わせが生んだ悲劇か、姿形を形成する遺伝子の狂い。それは乱れることなく全てが狂暴化し、私達は監視を強め拘束していた。だが一瞬の隙をつき、子供達は自由の世界へ解き放たれてしまったのだ。
「アゼル様! 何とか食い止めなければ」
ガドリールの悲愴な叫びに導かれ、私は子供達を鎮めるべく空に飛び立った。上から見た地上の荒廃は、グリゴリの子供達によって見る見るうちに進んで行く。
「エルヒム!」
父である私の声も届かない程、彼等の人格や理性といったものは既に消滅してしまったのだろう。
私達グリゴリはこの凶行を抑える為、持てる力の全てを注いだ。天使の身に宿るエネルギーの集合体は背に在る翼。それが散り行くまで力を放出し続けたが、食い止めるまでには至らなかった。
子供達は地上の作物はおろか、鳥や獣、人間を食い尽くし、最後には巨人同士での共食いまで始め、地上は真紅の荒野と化した。
「エルヒム……シス……!」
私の夢の宝物達は、悲惨な最後を遂げた。
――悪夢なら、覚めてくれ……。私の夢は、こんな残酷なものではなかった。
最後の羽根が、抜け落ちる。私の瞳から零れる悲しみと共に、空を舞う。
力を失い、私は堕ちて。至福の夢は覚めてしまったのだ。全てを捧げた奇跡の愛は、もう、存在しない――。
荒野の中、私は倒れ込むように一人取り残されていた。絶望に心が砕け散り、無意識の涙がとめどなく溢れる。そんな私に影がさし、気怠く視線を向けると、私など比にならない翼の質量を誇る四大天使が一人、ラファエル様の御姿がそこには在った。
「全地はアゼルのわざの教えで堕落した。いっさいの罪を奴に帰せよ、との神の御言葉だ。これより大洪水を起こし、救えぬ地上を滅ぼす」
カドリールら他のグリゴリ達の罪状は、神の審判が降されるのを待っている、とラファエル様はおっしゃられるが。
――もう、どうでも良いことだ。だが……。
私はラファエル様の手により、デュダルの洞窟と呼ばれる荒野の穴の中に投げ込まれ、一点の光も射さない闇の世界に閉じこめられた。
私は朽ちる時まで、この闇の中だろう。外の世界のことなど、何も分からない。己の位置、手や足の感覚さえも闇に溶けて行く。
唯一求めた花を失った私には、もう、どうでも良いことだ。だが一つ、最後の願いが聞き届けられるのならば。
――魂が廻り命となるのならば、私の身体が尽きた時、次の命に生まれた時は、またシスに出会いたい。
神に背いた私の、身勝手な願い。全ての罪を被った私なのだから、叶えてくれても良いだろう。
愛故に背反し、愛に生きた私には、その願いが全てだ。
ここは正に無の世界。己の存在さえも失う闇の空間では、何もすべきことはない。私は最後が訪れる長い時の中でそれだけを神へ祈り、永久の夢を抱いて眠るだけだ――。
END
お読み頂き有り難うございました。
難しい題材でてこずりました。
好みが極端に別れる作品だと思いますが、気に入って下さる方がいらっしゃれば幸いです。
参考文献:エノク書、創世記、他。