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きみがため 四

会いたい、会いたい。


あの人に会いたい。


一目会えたら。


ただ、それだけで良いのに。




夕闇の迫った廓は、ひっそりとした昼間の薄絹を纏った静けさを脱ぎ去ったような艶めきを持ち始めている。

準備に追われる女たちや駆り出された男衆たちが上に下にと走り回っている。

一重や三重の花妓たちであれば着付けも一人で行えるが、八重以上の花魁ともなればその仕度はかなりの労力が割かれる。

帯一つにも数人がかりの作業だ。

禿の少女たちも袱紗に包まれた簪を手に大人たちの間をくるくると忙しそうだ。

そんなある種賑やかな活気に満ちた廓の一角。

まるで喧騒から隔絶された一室に噤真はいた。

廓に飾っておけ、とは藤魅の弁だが蕗草は大きな広間を一つ都合してくれた。

原因不明の病に倒れた娘たちを寝かせた部屋の中、噤真は用意された籐椅子に座ってじっとしていた。

可愛らしく整った色白の容貌は、整っているだけに削ぎ落された表情によって凄みをもつ。

奇しくも藤魅の言ったように、飾られた人形の様にも見えた。

綺麗につま先を揃えて座って、微動だにしない。

差し込む夕焼けの明りは、白皙の頬を赤く染め上げる。

だが、それも少しずつ翳って行き、しばらくすると薄っすらとした闇に落ち込む。

通りを照らす提灯の明かりがわずかに部屋に届くばかりだ。

手近に置かれた蝋燭にも触れず、ただじっと佇む。

聞こえて来るのは、昏々と寝込む娘たちの荒れた息の音だけだ。

ただの子どもであれば、いや大人であっても気が滅入ってしまいそうな部屋の中。

不意に噤真の大きな瞳が瞬いた。

部屋の四隅に貼られた藤魅の白い呪符がじんわりとその色を変える。

水が染み出るように真白の表面が赤く染まり、やがて藤の花に似た紋を象る。

艶やかな花の一房が出来あがった頃。

静かな広間に、しゅるしゅるとか細い音が届いた。

それは板間を擦る絹の音だ。

常であれば合わせて足音も聞こえて来るものだが、これは違う。

絹の裾が床を舐める音だけが妙にハッキリと聞こえる。

噤真は、近づいて来る音をただ静かに聞き続けた。

衣擦れの音が最も近づいた時、四隅の呪符がチリチリと震えだした。

かすかな女の泣き声も届く。

女の嘆きにあわせるように赤く染まった呪符の花紋が色を変える。

真紅から蘇芳へ。

蘇芳から紫紺へ。

やがて、大輪の花が開くようにして呪符は金色に染まった。

(…どこ?だんなさま、どこにいらっしゃいます)

男を探し求める女の声が悲しく響く。

(どこです?お待ちしておりますのに…)

下ろしていた両足を噤真はひっそりと抱えた。

ゆっくりと女の声は遠ざかって行く。

床を舐めていた衣擦れもかすかな余韻を残して消え去った。

チリチリと震えていた呪符も女の気配と共に白紙に戻る。

そうして、静かになった広間で噤真はしばらく膝を抱えたまま身動き一つしなかった。

「噤真くん?」

息を潜めるように蹲って幾時か。

滑らかに開かれた襖から廊下の光が真っ直ぐに伸びた。

ちょうど光の端に引っ掛かるようにして椅子に座る噤真の姿が浮かび上がる。

ゆっくりと顔を上げた噤真に、やって来た世々はわずかに微笑んで唇に人差し指を当てた。

眠る娘たちに気を遣ってか、ひっそりとした足取りで部屋の中に入って来る。

「一人で、良くやっているね」

大きな手が優しく撫でて来る。

いつもは大きく朗々とした口ぶりで話す世々だが、声量を落とすと柔らかな声音が辺りを包むように優しくなる。

強張っていた手を下ろして噤真は世々を見上げた。

「ん?何かあったのかい?」

じっと見上げて来る瞳の強さに世々が噤真の頭を撫でたまま首を傾げる。

「藤…」

「藤?藤魅に何か伝えるかい?」

そこそこ長い付き合いのある世々だからか、辛うじて噤真の片言で言わんとしていることを汲み取る。

噤真と完全な意思疎通が成り立つのは、藤魅くらいしかいない。

「札、金色になった」

「ふむ。金色にね」

顎に手をやって四隅の札を見上げる。

今はただの真白の紙としか見えない呪符の効力はさすがに世々も知っている。

「となると、季節外れの怪談も馬鹿には出来ないと言うことか」

一人呟いて世々は、最後にもう一つ噤真を撫でて立ち上がる。

「伝言は預かったよ。僕はもう帰るから、噤真くんもあまり無理をしないようにね」

来た時と同じように、世々は足音を忍ばせて帰って行く。

大きな背中をじっと見送って、噤真はまた行儀良く椅子に座りなおした。




世々が出て行ったあと、藤魅は半身とも言える刀を携えて廓の外に出ていた。

通りをぐるりと胡染楼を囲むように回る。

軒先につるされた百を超える提灯や雪洞に照らされて廓は夜闇に煌々と浮かびあがっている。

表門に続く大通りでは多くの人間たちが行きかっている。

一本路地を引っ込めば人気は格段に減る。

だが、皆無になる訳ではない。

人目が少なくなるだけに、逆に表通りよりも濃い空気が漂っている。

電燈の光が届かぬ場所では、妙に距離を詰めた男女の姿がある。

そちら側はあっさり無視して藤魅は廓の周りを一周してしまう。

「変化はない、か」

吹きすさぶ寒風にさすがに身体が凍えて来る。

一度、廓に戻ろうと踵を返した所でざわりと背中が総毛だった。

咄嗟に振り返るが、既に先ほどまでの気配はない。

行きかう旦那衆や客寄せの女たちばかりだ。

だが、それを気のせいだとは切り捨てられない。

かすかに残る気配を追って人混みの中を駈け出した。

鬼の気配を言葉で言い表すのは難しい。

敢えて言うのなら、冷気に似ている。

触れた先から総毛立つような、凍える雪の欠片のような物だ。

一瞬の冷たさは、けれどすぐに雑踏にまぎれてしまう程度の希薄な物。

消えかけたその雪の花のような欠片を追って藤魅は走る。

やがて、電燈が消えかけた人気のない道に出る。

花街を東西に分ける小川。

朱塗りの欄干を備えた小さな橋の中央で藤魅は足を止めた。

その昔、橋の上で有名な少年が大男を仕留めたように。

藤魅も橋の彼岸に立つ男を見つめた。

ちらつくガス灯の明りがギリギリ届かぬ場所に立つ男は、帝都の闇を纏っているように姿はハッキリとしない。

辛うじて捕らえられた姿は、くたびれた浪人のような姿だった。

草臥れた編み笠を目深にかぶって静かにそこにいる。

藤魅は誰何の声すらかけなかった。

ただ、無言で抜刀する。

シンッ、とかすかに刃が夜を揺らす。

彼岸の男も腰に手を当て構えを取る。

間合いを詰めたのは藤魅の方が先だった。

力を込めたつま先で橋板を蹴る。

ほぼ一歩で相手を自らの間合いまで引き込む。

キィインと甲高い音が鳴って刀が十字に切り結んだ。

間近となった男の顔は編み笠のせいか、窺い知ることは出来ない。

火花が散りそうな程にぶつかり合った刀は、けれど男の力任せの打ち上げによって離れる。

身体ごと持って行かれそうな巻き上げに藤魅は飛びずさるように後退し、隙を逃さぬ連撃を辛うじて避けた。

幾つかの打ち込みを片手で捌いて、更に踏み込んで来た男の肩を振り上げた足で思い切り蹴り飛ばす。

刀の動きばかりを追い駆けていた男は、思わぬ方向からの攻撃にたまらず地面に叩きつけられる。

だが、そのまま勢いを殺さず受け身を取ると無言の気合と共に振り上げた藤魅の一刀を紙一重で受け止めた。

重く高い音が、静寂を切り裂いた。

脳天を割る勢いの一撃を腰を落とした体勢で受け止めた男の頭から切り裂かれた編み笠が落ちる。

既に顔を隠す役目を果たせなくなった編み笠はころころと転がり、往来の真中で風に流れる砂のように消える。

編み笠が隠していたその奥。

爛々とした獣の目が輝いていた。

隠す物のなくなった筈の顔は、けれどその造作を確認はできない。

わずかに扱けた顔の輪郭を覆うのは、泥の様な闇だ。

粘つく液体のように糸を引いて顔を形作る部位から流れ落ちる闇の塊。

「もう、人の形を留める事も出来ないのか」

皮肉気に笑った藤魅に、吹きすさぶ風のような唸りが響く。

人の声とは思えぬ唸りで藤魅の刀を押し返した。

予想外の力に、藤魅が体勢を崩す。

それでも、わずか一歩で踏みとどまる。

即座に攻撃に備えて返した刃を構えたが、すでに男の姿はない。

分が悪いと見てとったのか、潔いまでの引き際だ。

「…ちっ、逃げられたか」

「舌打ちとは物騒だね」

「世々か」

背後からかけられた声に、顔だけ振り向かせる。

「あからさまに面倒くさそうな顔をしたね、君。まぁ、良いけれど」

やれやれと肩を竦めて返した世々は、廓を出て帰る所なのだろう。

毛皮の襟飾りも派手な外套を粋に着こなしている。

そうして気付けば、先ほどまでの静けさなど夢のように掻き消え煩いまでの雑踏が戻って来る。

「帰るのか」

「あぁ、僕も明日は予定があるからね。そうだ、噤真くんから伝言を預かっているよ」

「噤真から?」

「そうそう。どうやら幽霊が出て来たようだよ。札が金色に光ったそうだから」

遊郭と言えば花妓の幽霊と言うのが定説かな。

唄うようにそらぶいて世々は往来をゆったりと去って行く。

藤魅からの返答は特に期待していないらしい。

悠々と去って行く友人を一瞥だけして、藤魅は夜空を覆う妓楼を見上げる。

「蝶を誘うのは、やはり花の役割か」

ぽつり、呟いて藤魅は胡染楼へと入って行った。




「今度は一体何を始める気なのかしら」

日が高く上った翌日。

蕗草は頼まれた幅広の白絹を手に座敷へと入り深々とため息を吐いた。

今日の蕗草は、柳色の扇小紋に銀鼠の帯、薄群青の帯締めときっちりと纏めている。

何処ぞに用向きがあったのかもしれないが、それは藤魅の知る所ではない。

呆れた口調でやって来た蕗草から受け取った白絹を畳の上に広げる。

ちょうど藤魅が両腕を広げた程の幅がある白絹の布はそれだけで座敷の半分ほどを埋めてしまう。

「藤、はい」

隅で待機していた噤真が甲斐甲斐しく立ち動いては、筆や岩絵具と思しき小瓶を手渡して行く。

「これから、鬼の絵でも描こうと言うの?」

白い小皿に岩絵具を盛り、膠液を少量入れると指でとく。

工程を見ればただの絵を描く為の下準備だ。

邪魔にはならないよう座敷の襖近くで眺めていた蕗草は、胡散臭そうに藤魅の一連の行動を見つめている。

この数日で、藤魅への評価は限りなく目減りしている。

能力を疑っている訳ではないが、如何せん人間としての付き合い方に問題があり過ぎるせいだ。

「これから花を捕まえる」

「え?」

唐突な言葉に、一瞬聞き取り損ねた。

自分の前言に対する答えだと気付いたのは、その一拍後だ。

「どう言う意味かしら?あの妓たちの病の原因は掴めたの?」

「原因は掴めた。だが、どちらが元凶なのかはこれから確かめる」

思わず蕗草は天井を仰いで、その腹立たしいほど涼やかな横顔を眺める。

「貴方と話していると自分がとんでもなく愚か者になったような気がするわね」

「詳しい説明なら、後でしてやる。今は、こちらが先だ」

獲物を愛刀から筆に持ち替えた藤魅は、真剣な表情で白絹と向かっている。

とは言え、その表情も半分はこんな時でも外さないサングラスのお陰で窺い知ることは出来ないのだが。

これ以上は、何を言っても答える気はないのだろう。

ため息を吐いて、それ以上の言葉は喉の奥にしまう。

そうして、その場にそっと膝を折った。

長くかかるのだろう事は今の作業からも汲み取れた。

ならば、もう諦めて待つだけだ。

途中で通りかかった下女に、念のために急須を頼む。

恐らく飲まれることはないだろうが、蕗草自身の為にもお茶がある方がありがたい。

そうして、その予想通り蕗草が何杯目かのお茶を淹れなおした頃、一心に白絹と向かい合っていた藤魅が顔を上げた。

「良し。噤真、そちら側を持て。重ならないように気を付けろ」

こくりと肯いた噤真が蕗草の前を通り抜けていく。

そうして指示された白絹の端を持ち藤魅と共に持ち上げる。

丁寧に持ち上げられた白絹には、岩紅や辰砂、淡口紫と言った色合いで見た事もない図案が描かれていた。

見ようによっては、梵字の様にも見えたし、下手な絵師が描いた何処ぞの風景とも見えた。

「これは…?」

「霊寄せの図だ」

「たまよせ?」

聞き慣れない言葉に蕗草は端麗な眉を顰める。

「霊を寄せると書く。その字以上の意味はない」

簡素を通り越した説明にも、だいぶ慣れて来た。

ようは幽霊、人の魂を呼び寄せる為の図柄と言う事らしい。

だが、引っ掛かったのは別の事だ。

「霊を寄せるって、何故?私が頼んだのは鬼退治の筈でしょう」

もちろん、この怪異が収まるのであれば鬼であれ、幽霊であれ大差ない。

だが、この帝国では“鬼”と“霊”では根本的に違う存在とされている。

鬼とは、人間の魂や無念、情念などが凝り固まって肉体を得た物だ。

常人であれば見る事の叶わぬ魂や恨みつらみと言った感情も鬼となれば、どんな人間であれ見る事が出来る。

霊となれば、鬼となる前の段階であり、素質のある人間以外目に触れる事もない。

藤魅は鬼を退治る事を専門としている人間だ。

人魂の対処となれば、坊主や神官が主とする領域になる。

それとも、こんな身なりで念仏でも唱えるのだろうか。

自分の想像にあり得ないと蕗草は首を振る。

「もちろん、退治するのは鬼さ。俺には幽霊なんて物は…見る事も出来ないからな」

自嘲に混じった僅かな寂寞。

蕗草が感じ取る事も出来ない程にわずかに滲み出た感情は一瞬で拭い去られる。

「それなら、どうやってその見も出来ない幽霊とやらを呼ぶつもり」

「俺には無理だが、出来る奴がやれば良い」

「だから、それを一体誰に頼むと…」

苛立ち混じりに言葉を返していた蕗草は、途中でハッと口をつぐむ。

何処か愉しげな笑いを浮かべた口元は、ハッキリと座敷の中にいる人間に向けられている。

「まさか」

信じられないと目を丸くした蕗草に、藤魅は手を上げてその名を呼ぶ。

「噤真、印は描いた。後はお前の仕事だ」

無造作に投げられた言葉に、噤真は、まだ年端もいかぬ少年はいつもと同じように小さく肯き返す。

まだ、信じられないと噤真と藤魅を見比べる蕗草に、藤魅はどかりとその場に腰を下ろして口を開いた。

「アレでも力はある。仕損じる様な相手でもない」

「…そう言う意味ではないでしょう」

帝都では、幼い頃から働く子どもなんて多くいる。

それこそ噤真ほどの年になれば大店に丁稚奉公に出されてもおかしくはない。

だが、それにしたって店の掃除や遣いに出るのが精々だ。

誰がこんな稚い少年が、人魂を呼ぶなんて所業をこなすと思えるのだ。

心底疲れたと額を押さえた蕗草に、藤魅の方は悠々としたものだ。

勝手に用意された急須から冷めたお茶をついで一服している。

「ひとまず、準備は終えた。また、夜になるのを待つしかないな」

「昼では無理なことなの?」

素朴な疑問が飛び出す。

「別に昼でも呼ぼうとするなら出来るだろうが。今回は駄目だな」

「そんな制約があるものなのね」

半分、呆れ交じりの言葉に藤魅は薄っすらと笑い返す。

「夜にしか咲かない花もあると言う事だろう」

相も変わらず、顔半分は暗いガラスに隠されて見えない。

だが、口元に浮かべられた何とも言えない凄みの籠った笑みは蕗草を沈黙させるには十分だった。

一瞬で飲まれかけた己を叱咤して、どうにか背筋を伸ばす。

「良いわ。では、その待つ時間の間に詳しい説明をしてもらいましょうか」

「…まぁ、そうだな」

すぐに素っ気ない表情を浮かべた藤魅は、それでも拒否する事はなく二杯目のお茶に手を付けた。


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