きみがため 三
ふっと目を覚ますと、薔杏は薄暗い部屋の中にいた。
どうやら、うたた寝をしてしまったらしい。
下ろしたままの髪がひんやりと冷え切ってしまっている。
うつ伏せていた文机から顔を上げると手にしていた平打簪が、転がった。
障子越しに差し込む月光を浴びて、真鍮の簪が鈍い光を弾く。
あの人が、訪れなくなってもう何日が経つだろう。
ただ一目、垣間見るだけで良い。
そう願いながら涙する夜を終える術を知らず。
他の男の腕の中で、愛しい人の夢を見る。
綿入れを羽織って、障子をそっと開ける。
中庭に面した部屋からは、楼の外を見る事すら叶わない。
もしかしたら、今この時にこそあの人は、この楼の前を歩いているのかもしれないのに。
空しい想像に一人笑って、障子を閉める。
階下からは、楽しげな笑い声が聞こえて来る。
可笑しくもないのに笑って、好きでもない男に愛をささやく。
馬鹿馬鹿しい。
ひどく厭世的な気分で息を吐いた。
騒々しさに苛立ちすら湧いて来る。
何処のお大尽がやって来たのだろう。
こんなに煩い夜は久方ぶりだ。
最近の花街は、何だか薄暗く沈み込んでいたから。
気分が優れないと言った薔杏を、普段なら厭味ったらしく睨みつける女将ですら、気遣わしげに休ませてくれたぐらいだから。
悪い病が流行っているのだそうだ。
薔杏の親しい友人も何人か寝込んだきり、戻って来なかった。
次は、誰の番かと女たちの誰もが華やかな化粧の下で恐れている。
賑やかな嬌声がひと際大きく薔杏のいる部屋は響いて来た。
同時に、鈍く頭が痛みだす。
あぁ、あぁ、会いたい。
あの人に、ひと目で良い。
会いたい。
簪を手に取るとそっと着物を羽織った。
仕事用の華やかな物ではなく、地味な外出用の着物だ。
狭い部屋でじっとしていると気が狂いそうだった。
店から逃げる気はない。
そんな事をしたら、二度とあの人に会えなくなる。
だけど、このまま部屋に居たら身も世もなく泣き叫んでしまいそうだった。
少しだけ、少しだけ外の空気を吸おう。
襖に手をかけて、薄暗い廊下に出る。
その時、部屋の柱に奇妙な白い札が目に入った。
何も描かれていない札を訝しく思ったのは一瞬。
すぐにそんな物があった事すら、忘れた。
だからこそ、薔杏が通った後、白かった筈の札に鮮やかな藤に似た赤い紋様が浮かんだ事にも気付かなかった。
十畳ほどの座敷には、螺鈿細工の箪笥が飾られ、艶やかな装いの花妓たちが並ぶ。
上座には、凛とした佇まいのひと際美しい花妓が彫の深い顔立ちの客に侍っていた。
どんな男相手にでも、極上の夢を与える事を自負している彼女たちだが、今宵ばかりはその笑顔もあながち作り物と言う訳でもない。
普段であれば、笑いながらも不品行な客は適当にあしらってしまう女たちが、先を争って上座で酒を傾ける男に酌をする。
華やかな光景に目を細める男は、異国の血が混じっているのか目鼻立ちのくっきりとした良い男振りだ。
最近、巷で噂になっている西洋劇の団員にもこんな華やかな男はいないだろう。
それに良いのは顔立ちばかりではない。
「こんなに美しい女性たちを、一人占めしてしまうのは、何やら罰でも当たりそうだ」
「あら、どちらかに怖い神様でもお待ちでいらっしゃいますか」
しゃなりと笑って男の盃に酒を注ぐのは、胡染楼でも名のある花妓だ。
羽ばたく蝶の翅に似せて結われた黒髪には、八重の花妓である事を示す花簪が揺れている。
上品に奥方の存在を探る言葉を、男は笑いながら酒と共に飲み干した。
「残念ながら、こんな無粋な男に嫁してくれる菩薩様はなかなかいなくてね。こうして花や蝶を愛でるばかりさ」
男が独り身であると分かると、女たちの目の色が変わる。
胡染楼は、花街でもかなり上質な部類の店に入る。
その分、客人も絞り込まれて来る。
上品で粋な遊びを弁えた年嵩の男が大部分を占める中で、今宵の客のように若く見栄えの良い人間はかなり珍しい。
だからこそ、少しでもお近づきになって、あわよくばと落籍されての裕福な暮らしと幸せな結婚を夢見てしまうのは仕方のない事だろう。
「そう言えば、蘭月殿。最近帝都では恐ろしげな話が流行っていると専らの噂だが、知っているかな?」
「…雪降る中で、百話の怪談でも始めるおつもりですか?」
僅かに眉を顰めた花妓、蘭月はそれでも嫣然とした笑みは崩さなかった。
「そう。怪談と言えば夏の風物詩。なのに、どうも最近の帝都は伝統と共に季節感も混乱の様相を来しているようだ」
「まぁ、それこそ恐ろしい事のように聞こえます」
「国を憂う貴方の聡明さこそ麗しいものだよ」
白魚の様な、と言う賛美が良く似合う指先をそっと取り上げる。
口づける真似ごとをして見せれば、周りの女たちから嬌声が上がった。
当の蘭月は、切れ長の瞳を柔らかく細めただけだ。
流石に八重の花妓ともなれば貫禄が違う。
「恐ろし気な噂話は、この花街では珍しくもありませんけれど」
スッと繋がれた指先を滑らせるように離す。
最後の一瞬に、軽く撫でるように離れた指の柔らかさは相手に対しての未練を掻き立てる。
世々は、にこりと笑うと蘭月の話に乗った。
「そうなのかい。ぜひ、聞いてみたいな。皆も、知っているのかな?」
周りの花妓たちにも水を向ければ、くすくすとした笑い声と共に一人、二人と話し出す。
他愛もない怪談話が続いた所で、一人の花妓が物々しい口調で話し出した。
「そう言えば、前にこの廓にいた妓から聞いた話ですけど…」
すっかり季節外れの怪談話に興が乗ったのか、声を落としてゆっくりと語る声に皆が耳を傾ける。
時折、硝子戸を叩く風の音が良い具合に場の雰囲気を盛り上げていた。
「その妓が言うには、見たらしいんですよ」
「…見たって?」
分かっているだろうに、恐る恐るの相の手が入る。
面白半分で耳を傾けていた世々は、蘭月が注いでくれた酒を一口呷った。
清酒の辛味が心地良く喉を焼く。
空になった盃に如才なく蘭月が新たな酒を注ぎ入れる。
すっかり話に夢中になっている若い花妓たちとは違いそう言った所も抜かりない。
一口だけ口を付けて、盛り上がる話に耳を傾ける。
「たまたま、その妓が風邪を患って数日寝込んでいた時の話なんですけど。毎晩、亥の刻になると何処からともなく足音が聞こえるんだそうです。その妓も最初は、旦那様か他の妓が廊下を通っているんだろうって思ってたみたいなんですけど」
こくん、とどこからか息を飲む音が聞こえる。
すっかり全員が話に引き込まれている。
そう言う世々もかなり興味は引かれた。
「でもね、おかしいんです。そこを誰かが通る筈はないんです。だって、その妓がいたのは端部屋で。旦那様が来る筈もなければ、廓も開いて忙しい時間に部屋に来る妓なんている筈ないんですから」
じんわりとした沈黙の後、小さな悲鳴がそこかしこで上がった。
どんな具合か忍び込んだ風が蝋燭を揺らしたらしい。
大きく揺らめいた影に怯えた少女たちが、互いに寄り添って震えている。
「ふふ、どうやら今夜の話上手は決まったようだね」
ゆったりと肘置きに凭れていた世々が明るく盃を干すと、ふっとその場の空気が和んだ。
「こんなに話術の巧みな花妓がいるとは思わなかった。ご褒美は、こんな物しかないけれど良いかな?」
世々が懐から取り出した包みに、また別の歓声が上がる。
可愛らしい和紙で包まれたそれは、この辺りではまだ珍しい西洋菓子だった。
貝殻に似た形の焼き菓子に、渡された少女は目を輝かせて周りの少女たちに見せている。
先ほどまでの異様な空気は吹き飛んだらしい。
「あまり騒ぐものではありませんよ。ほら、御礼がまだでしょうに」
呆れた口調で蘭月が諭せば、綺麗な所作で一斉に花妓たちが三指と共に頭を下げた。
「あぁ、大したものでもないけれど。喜んで貰えて嬉しいよ。あぁ、そろそろ時間かな」
客人の持て成しの時間を計る為の香時計は、既に半分が燃え尽きている。
普段であれば、半分が尽きる前に前座の花妓たちは下がるのが通例だ。
座が盛り上がりすぎて、期を逃した事を知ると一斉に慌てた様子で座敷を辞して行った。
綺麗に人がはけた部屋の中で、世々は見事な引き際に声を立てて笑った。
「いやいや、見事だね。まるで水鳥が飛び立つ様を見たようだ」
「嫌なお人ですね。今宵は、皆下がるのが惜しかったらしい…」
しっとりと足を崩して身を寄せた蘭月は、それまでの凛とした仕草とは全く違う艶やかな色気を纏っていた。
それに気付かぬ世々ではない。
「おや、賑やかな席はお気に召さなかったかな」
「嫌いではないけれど。もっとゆっくりとした一時の方が今は大事」
紅の引かれた眦がそっと閉じられ、しっとりとした呼気が近づく。
そのまま重なろうとした瞬間。
「邪魔をする」
無粋な男の声が、襖を開け放つ音と共に割って入る。
正絹の打ち掛けが涼やかな音を立てて畳に落ちるのと、世々の重苦しいため息が重なった。
「藤魅…」
恨めしげな表情を浮かべる世々にも、藤魅は素知らぬ顔だ。
「せめて、もう少し待ってくれても良いだろうに」
「時間がない」
「そうかい。まぁ、そうだろうけれどね!」
分かっていたさ、と大げさに肩を落とした世々に、傍らに居た蘭月が袖口で口元を隠して楚々と笑う。
そこに先ほどまでの空気を惜しむ気配はない。
「続きは、また次の機会、と言う事かしら」
「…機会があれば、だね」
情けない返答に、蘭月の笑いがひと際大きくなった。
蘭月が座敷から出て行くと代わりに藤魅が、無造作にその場に胡坐をかいた。
ため息をついた世々が、それでも律儀に床に置かれたままの座布団を差し出す。
立ち上がったついでに、隅に置かれた朱卓から急須を取り上げてお茶を注ぐ。
さすがに花街でもそれと知られた楼館だ。
さり気なく置かれた茶葉も香り高い高級品だ。
香ばしさの中に清しい甘さを含んだ玉露の香りを満足そうに嗅いで、藤魅へと差し出す。
熱いだろう湯のみを頓着なく掴んで一口すする。
こうした時に、世々は藤魅と言う存在を現の物か心もとなく感じてしまう。
何しろ、どう考えても入れたての緑茶は即座に飲めるような代物ではないからだ。
「藤魅、君の舌は色んな意味で人智を超えた存在だと思うよ」
「何の話だ」
火傷一つせずに支障なく言葉を紡ぐ藤魅に、何でもないと肩を竦めて返す。
「まぁ、言われた情報の方は集まったと思うけれどね」
「聞かせてくれ」
「他愛ない噂話がほとんどだったから、役に立つかは分からないがね」
先ほどの季節はずれの怪談話を順に話して聞かせる。
さすがに、片手を越える数の怪談を連続で聞いていたら細かい場所は忘れてしまう。
それでも一連の流れとオチくらいは正確に伝える。
世々の朗々とした声が最後の花妓の悲恋を語り終える。
少々、余分な情景描写などは加わったのは静かな聞き手に対するちょっとした意趣返しだ。
しかし、藤魅は最後まで口を挟まずに無表情に聞き終えると何かを考える時の癖で指で畳を叩きだす。
単調な音は、畳に吸い込まれてほとんど響かない。
世々が手にしていた玉露がちょうど良い温度になった頃。
正確な音を刻んでいた指が止まる。
「なるほど…」
「何か分かったのかい?」
「あぁ、どうやら意外と面倒くさい仕事らしい」
吐き捨てる様な口調だったが、形の良い唇は薄っすらとした笑みを浮かべている。
「それは、それは」
意味のない繰事を口先で呟いて世々は、手にした緑茶を啜る。
藤魅が機嫌が良いと言うことは、もうある程度の状況は見通せたのだろう。
そうなれば、世々が言う事など何もない。
せいぜい無茶をして、せっかくのお客の機嫌を損ねないで貰うよう気を配るくらいだ。
「あぁ、そう言えば噤真くんはどこだい?廓にはいるんだろう?」
「噤真なら魔除け代わりに置いて来た。伏せった女たちの傍に居るように言ったから、その辺りにいるだろう」
何ともひどい話である。
噤真に対する藤魅の態度は、世々に対するそれに輪をかけて淡白だ。
十分すぎるほど知っている世々は、今回の事にもただため息を押し殺すだけで何も言わなかった。
「それなら、少し顔を見てから僕は帰るよ。どうせ君は、これからまた一働きするんだろう?」
問いかけにもならない口調だった。
肯く藤魅に、小さく笑って立ち上がる。
「この仕事が終わったら、今度こそつみれ鍋を作って三人で食べよう。なるべく早く仕事を終わらせてくれよ」
華やかな笑顔で片目をつぶって世々は座敷を出て行った。
大柄な背中が出て行くのを見送って、藤魅は格子戸から除く夜の花街を挑むように一つ睨むと同じように座敷を後にした。