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きみがため 一

※このお話はサイトに載せている短編を大幅に改稿したものです。

 名前は違いますが、本人ですのでご心配なく!

 お話の都合上、前置きなく流血描写などが含まれる恐れがありますので、苦手な方はご注意ください。

 それでは、少しでも楽しんでもらえたら嬉しいです♪

行燈に火が入れられた。

ぽつ、ぽつと赤い明りに照らされた道に華やかな女たちの笑い声が色を添える。

朱塗り格子の店々は、それぞれの花紋を象った提灯を軒先につるし夢現の里を作り出す。

気の早い客を捕まえた店では、既にチンシャン、トンテン賑やかな楽の音が響いている。

抜いた襟も粋な女たちは、思い思いの絹で身を飾り、紅を塗り、細い手で男の袖を引く。

此処は、色街。女街。

笛に太鼓、三味線、琴に琵琶。奏でられぬ楽器は一つとしてない。

唄を歌えば、それにあわせて扇がひるがえる。

極上の夢を見るには、他にない。

此処は、色街。女街。

絢爛豪華な遊幻の里。




朱塗り格子の隅でお茶を挽いていた薔杏(そうあん)は、手元の扇をくるりと回した。

夜も更けて、通り過ぎる男たちの数も増えて行くばかりに見える。

黒髪に飾った簪が、ちりりと小さく音を立てた。

格子の前には、鮮やかに着飾った女たちが隙間なく群がっている。

暗がりに浮かぶ白い腕が妙に生々しく薔杏の目に映った。

一人の女が男に選ばれて張り格子を出て行く。

取りすました笑顔で出て行く仲間を周囲は、妙な緊張感と共に見送る。

霜月も半ばとなった今は、張り店の中は凍える寒さだ。

相手がどんな男であれ、彼女は少なくとも数刻は温かな布団の中で過ごせるだろう。

火鉢を入れられているとは言え、格子のみで区切られた張り店の中はかじかむ寒さだ。

ほうっと唇から洩れた吐息は、ふわりと白くたなびいた。

そろそろあの格子の隙間から手を伸ばして、手ごろな男を見つけなければ凍えてしまいそうだ。

そう思いながらも、なかなか薔杏の腰は上がらない。

気鬱を抱えながら、ふっと逸らした視線の先にその男を見つけた。

行燈の光を避けるように立つ男は、今では珍しい編み笠を目深に被っていた。

くたびれた袴に草履姿の男は、どう見てもこの辺りの者ではない。

帝都からの客がほとんどのこの花街では、洋装の者がほとんどを占めている。

たまに着物姿のお大尽がいたとしても、この男のような粗末な形をしている者はいない。

だが、時折貯めに貯めた小銭かき集めてやって来る客がいないではない。

一度この街に足を踏み入れたなら、すぐにその虜となり一度が二度に、二度が三度になるのが当たり前だった。

この男もそんな人間の一人なのだろう、薔杏はごくあっさりとそう見極めをつけた。

どんな人間であれ、お代を落としてくれるのならお殿様だ。

普段の薔杏であれば、さすがに声をかけなかったかもしれない。

だが、今日のように冷える夜は薄い打ち掛け一つでは堪える。

それにまだ一重の薔杏には、贔屓の旦那もいない。

八重や九重、それに百花の花魁ともなれば贔屓筋の旦那衆が五十人だって百人だっているものだが、駈け出しの薔杏には夢のまた夢だ。

萌葱の打ち掛けを捌いて立ち上がった薔杏は、じっと動かない男へと声をかける。

「そんな所で足休めですか、旦那様?」

格子の隙間から暗がりに立つ男の、擦り切れた袖にそっと指を伸ばす。

「お疲れなら、うちで休んで行かれませ」

紅を刷いた唇を意識して微笑ませながら近づいて来た男の腕を引く。

長いこと外にいたのか、男の肌は思わず身が震えるほど冷たかった。

「こんなに冷えて。ゆっくり温めて差し上げましょう」

銅像の様だった男の足がまた一歩動いた。

薔杏は、にっこりと微笑んで歩む男を格子の内側から追い駆ける。

これで今夜は温かな部屋で過ごせる。

ひと時の後、襖が開いて女将が薔杏を呼びに来る。

あの編み笠の下はどんな顔だろうか。

行燈の明かりでわずかに窺えた口元は、幾分か若い男の様だった。

どんな顔の男だろうと微笑んで酌をする自信はあるけれど、そんな事を考えながら客間の襖を開いた。

店では一番小さな客間に、その男は静かに座していた。

行燈に照らされた男の容姿を見て、一時薔杏は言葉を失くした。

わずかにやつれた風情が見えるが、それすらも男の整った容姿を飾り立てているようだ。

こんな男振りの良い旦那は、八重の姐さん方だって持っていないだろう。

胸を高鳴らせた薔杏は嬉々として男へ侍った。

今宵の己の幸運を信じて疑わなかった。




帝都の東。

大きな馬車通りを一つ奥へ入った静かな通り。

その道沿いに建っている煉瓦造りの瀟洒な造りの四階建てのビルが建っている。

わずかに青味がかった独特の白煉瓦を使った入り口を通くぐると、正面には古びた階段が見える。

軋む階段を上って行けば、何度目かの踊り場を過ぎた所で目的の扉を見つけることが出来る。

使い込まれた深い黒檀の扉。半円の曇りガラスの向こう側を窺うことは出来ず、代わりに銀の塗料で月と群雲の鍔紋が刻印されている。

専門職を意味するその紋は、こちらも年月を感じさせる古さで掠れ消えかかっている。

ひっそりと静かな扉の取っ手を無遠慮に回したのは、黒い革手袋を身に着けた手だった。

滑らかな光沢を放つそれは一目でそこらの量産品とは違う事を示している。

皮手袋の持ち主は、扉脇のノッカーには目もくれずに扉を開け放つ。

「まったく冬だ!」

部屋に入っての第一声を高らかに上げた青年に、室内で悠々とソファに寝そべっていた影が身動きした。

「世々(せぜ)・・・」

いかにも億劫そうに起き上がったのは真白の頭。

レースのカーテンが掛けられた窓辺から差し込む陽の光で、白髪はまるでガラス糸のようにキラキラと輝いている。

人の身を飾るには異質な輝きを乗せる髪だったが、それ以上に目を引くのは青年の目元を完全に覆ってしまっているサングラス。

日の光を遮断するガラスは青年の顔立ちを曖昧にも、逆にひどく印象付けているようにも見える。

どちらにしろ、その際立った容貌を隠しきれてはいない。

「あぁ、藤魅(ふじみ)。冬だよ、まったくもって冬だ。昨日まで秋だと思っていたのに、何だろうねこの寒さ!」

まるでオペラッタの劇団員のように朗々とした声が響き渡る。

世々は、着込んでいた狐の毛皮の防寒着を玄関脇のコートハンガーにかけると手にしていた荷物をごっそり机の上に置いた。

「せっかく今日は、秋刀魚を買ってきたというのに。これでは塩焼きではなくつみれにして鍋にしなければ」

「鍋でも塩焼きでも好きにしてくれ」

ひどく真剣な顔で、今日の夕飯を吟味する友人に藤魅は呆れたように相手にするのを止める。

元の通りにソファに長い足をもてあまし気味に寝そべった姿を今度は世々が嘆かわしいと視線を向けた。

横になっていても外さないサングラスは邪魔でないのかと世々はいつも思うのだが、どうやら少々の事ではズレたりしない特注品であるらしい。

いつものように寝て居るのか、ただ横になって居るのか判別に迷う藤魅のそっけない態度に食材を貯蔵庫にしまっていた世々は肩を竦める。

食こそ全ての原点だと自負している世々にとって、飲食に淡白な友人は理解しがたい存在だ。

もともとは帝国高等学院時代からの友人と言うには細い繋がりで付き合ってきた二人である。

あの時の事件が起こらなければ、世々はおそらく学院を卒業した次の日から藤魅の存在など忘れてしまっただろう。

だが、幸か不幸かあれから五年の月日が流れても関係は潰えてはいない。

「やはり今日は鍋だな。人参も白菜も備蓄はたっぷりだ。白味噌はこの前買い付けたものが残って居るし」

台所に立ち真剣に野菜を吟味する、平均身長を遥かに越えた優男。

摩訶不思議な光景だが、此処では日常の一部だ。

「葱は、朝の残りがあるし。おお、完璧だ!」

どうやら夕食が決定したようだ。

いそいそと手袋を外すと早速下ごしらえに生姜をすり始めた世々だったが、間髪いれずに響いた来訪者を告げるノッカーに彫りの深い鼻筋に皺を寄せた。

「・・・世々、客だ」

出る気など毛頭ない、と宣言する一言に世々は香りの良い生姜の一欠けを見つめてからため息を吐いて扉口まで出向いた。

「どうぞ、そちらへ」

客を迎えた世々は、この部屋の主である男が寝そべる長椅子の前へとお客を通し、唐絹のクッションを置いた籐椅子を勧める。

やって来た女は、わずかに驚いたように目を瞬かせたがすぐに微笑んで一人掛けの椅子に腰を下ろした。

卵色の地に桔梗の染め抜き。帯は千鳥の刺繍が施された粋なもの。

肩に巻かれた濃紫のショールをそっとほどいた女の年齢は、三十路をいくつか過ぎたほどか。

身なりは良いが、華族、豪商などの出自とは違うようだ。

藤魅のある種異様な風体にも動じないのが良い証拠だ。

客を迎えているとは思えない態度も気にせず女は、帯裏からすっと一枚の札を取り出した。

千代紙で飾られたそれに書かれているのは、色街でも名の知れた店の名前。

「私は胡染楼こせんろうで女将をしております、蕗草(ふきくさ)と申します」

花札と呼ばれる名刺をどうにか起き上がった状態で受け取って無感動に眺める。

「今日はお仕事を頼みに参りましたの」

真っ直ぐに色の濃いサングラスで隠された目を見据え女は切り出した。

「どういった類の?」

大した反応を示さない藤魅を気にもかけず、女、蕗草はにっこりと笑った。

「鬼退治を、お願いしとうございます」





「始まりは些細な事でした。ひどく冷え込んだ晩の事で、うちの子が一人体調を崩して寝込んでしまいましたの。もちろんお医者に見せて、休ませていました」

蕗草は淡々と説明していく。

半分伏せた目で、ゆっくりと状況を思い浮かべ、なるべく正確に諳んじているようだった。

「ですが、数日もしない内に息を引き取りました。見る影もないほど痩せこけて哀れな姿でございました。それから、また一人同じような症状で寝付いたのです。こちらも三日ばかり寝込んだまま・・・。いくら悪性の流感だとしても異常でしたわ」

そうして一週間という短い期間で立て続けに四人の娘が亡くなった。

医者に言っても原因がわからないと首を捻るばかり。普通であればあり得ない事だと、薄気味悪そうに呟いたそうだ。

「ですから、もう最後は此処しかないかと思いまして。これ以上は、店だけでなく花街全てに関わります。早急に手を打ちたいのです」

言い募る女の口調は強い。

女一人、侮られては不愉快だと気負いなど欠片も見せずに微笑んでみせる、その強さ。

凛とした眼差しに、藤魅はわずかに沈黙した後に頷いた。

「・・・噤真(つぐま)」

呼ばれたのは今まで何処に身を潜めていたのか訝るほど存在感のある少年だった。

長い前髪は片目だけを隠すように垂らされ、他は形の良い頭に添うように整えられている。

白いシャツに黒いリボンタイ、膝丈のズボンには白い靴下と革靴を合わせた格好だ。

何処の良家の子息ともしれぬ格好は、人形の様な少年の白い面貌によく似合っていた。

静々とした足取りで噤真は、藤魅の元へと歩む。

手には抱えるほど長い得物を携えている。

黒漆に銀の群雲が刻まれた優美なしつらえの、それは紛う事なき一振りの太刀だ。

無造作に刀を受け取ると親指で鍔を押し上げ、現れた鋭い光を放つ刃にぐっと親指を押し付ける。

ぷつりと皮膚が裂け血玉が浮き上がった。

噤真はその間に、近くの文机に置いてあったすずり箱から半紙を一枚取り出し藤魅の前に置いた。

染み一つない半紙に、血に濡れた指先を強く擦り付ける。

一の字を書いたそれを折りたたみもせずに蕗草の目の前に滑り寄せる。

無言の要求に蕗草が柳眉を顰めると、取り成しに世々が割って入った。

折角の一月ぶりのお客だ、逃がす手はない。

むしろ、逃がしてなるものか。

…などと言った、がっつきは欠片も見せずににこやかに説明の口上を述べる。

「こちらは、我々とお客様との間に交わす誓約書となります。こちらの下にお客様のお名前をお書き下さい」

そっと卒なく墨と筆も差し出す。

少し迷う素振りだった蕗草だったが、納得したのかしゅるりと半紙に流麗な文字を連ねた。

名前がしっかりと書き込まれたのを確認した世々は、空いた隅に同じく墨で何ごとかを書き添えた。

最後に吸い紙で浮いた墨汁をしっかりと吸い取ると手早く半紙を折りたたみ、くるりと結んでしまう。

手のひらに隠れるほどの大きさになったそれを世々は、にこやかに差し出した。

「どうぞ、お持ち下さい。これは守りの代わりにもなります。身に着けておけば些少なりとも影響から逃れられるでしょう」

「護符と言う事かしら。では、ありがたく頂戴します」

花札と同じように帯びに挟んで蕗草は手にしていた袱紗から何やら取り出した。

「料金の前払い分はこちらに用意しております。早めに終わらせてしまいたいと思っておりますから、今日の暮れ時にはうちまで来てくださいな」

それだけ言うと女主人はスッと立ち上がる。

世々もあわせて見送りに立ったが、藤魅は相変わらず怠惰に横になっているだけだ。

玄関先まで進んだ蕗草は最後にちらりと中の主を振り返って、背後の世々に呆れたような本音を漏らす。

「仙坊のご隠居の紹介で来たけれど、本当に大丈夫でしょうね」

あれではまだ小坊主の方が信用できそう。

あまりと言えばあまりの評価だが、藤魅のあの姿で正しい評価を得ようとする方が間違いである事は重々承知している。

だからこそ、自信たっぷりに世々は頷いて見せた。

「えぇ、あれでも帝都一の退治屋ですから」




薄闇が辺りを閉じ込め始める時分。

空は朱から緑、緑から藍墨へと色を変えてゆく。

朱と黄色が交じり合う境界には、一番星が何かの証のようにきらめている。

雪洞が次々と軒に連ねられていくのを横目に気の早い旦那衆が界隈をうろつき始める。

贔屓の花妓かこがいる者は、もっと宵が迫ってから来るものだが、ちょっと新しいでも見繕うかと足を向けた者たちはあそこはどうだ、と次から次へと店を行き来する。

「鬱陶しい所だな」

周りの熱狂から程遠い淡々とした口調、足取り。

長い足を最大限に利用して藤魅は顔見世大路と呼ばれる大通りを歩いていく。

白髪に目元を覆う細身のサングラス、踝まである長いアイボリーのコート。内側には黒漆の太刀が仕舞われている。

異様な風体に集まる注目すら遮断して歩く藤魅の後ろを、これまた色街では不似合いな上品な顔立ちの少年が続く。

いろいろな意味で目立つ二人連れだったが、彼らが一際大きな灯籠の飾られた店の暖簾を潜ったところで全ての視線は外れた。

薄紅で芍薬と胡蝶の紋様が描かれた灯籠の脇には、品良く店の名が添えられている。

多くの男たちが心躍らせて足を運ぶ店に何の感慨もなく足を踏み入れると雅やかな世界が広がった。

磨き上げられ柔らかな金色に光る廊下。

朱塗りの柱。

奥を見せないように垂らされているのは、艶やかな織物だ。

山中の鹿や鳥が色鮮やかな豪奢な絹糸で表されている。

これだけで木綿の着物が十は買える。

「ようこそお出で下さいました、旦那様」

しゃなりとした白い指が床に添えられ、深緋の衣が泉の様に広がる。

結い上げられた黒髪には、びらびら簪が揺れる。

笑みを刻んだ唇には、たっぷりの紅が差されている。

藤魅を見てもその微笑みは揺るがない。

誇惑的な表情は意図的に作り出されたものだとしても、十分に魅力的だ。

ごく一般的な男にとっては。

「客じゃない。蕗草はいるか?」

切って捨てるような藤魅の言葉に、出迎えの女は一瞬鼻白んだようだったがすぐに立ち上がると近くに居た年若の娘に何ごとか言伝する。

まだ結い髪ではない少女は、奥へと駆けて行った。

嗜める声が聞こえて、足音は静かなものに変わる。

そうして、さほど待たずに蕗草が現れた。

他の女たちとは違い、床を擦る打ち掛けはなく濃い紫の単を粋に着こなしている。

髪も蝶の様に張り出した物ではなく、後ろで膨らみを持たせて一つにまとめた地味なものだ。

「少し遅いようだけど、来ていただけて何よりだわ」

上がって、と促されて履いていたブーツを脱ぐと滑らかな板張りへと足を上げた。

ついて来ていた噤真も同じく革靴を脱いで、こちらは藤魅が脱ぎ捨てたものと一緒に丁寧に靴を揃えなおすと小走りに後を追う。

藤魅が通されたのは、客を迎え入れる部屋ではなく、花妓たちが身を休める奥部屋だ。

日当たりのよろしいとは言えない陰部屋だが、代わりに窓は大きくとって換気は十分出来るようになっている。

寝て居るだけで病を得てしまいそうなかび臭い長屋に比べれば、数段マシな造りだと言える。

襖が並ぶ廊下を歩いていけば、時折苦しそうな咳や息遣いが漏れ聞こえる。

蕗草は何の感情も伺わせない淡々とした表情で、ひとつの襖を開けた。

二人分の布団を敷けばそれで手一杯の狭い部屋。

そこに寝て居るのは、一人の女。

普段は化粧できらびやかに微笑んで居るはずの女が一人、蒼褪め痩せこけた顔で荒い息を吐いて寝込んでいた。

半開きの唇はカサカサに乾き、虚ろに見開かれた目は血走り何処へともなく彷徨っている。

明らかに尋常ではない姿で眠る娘の枕元に膝を付いた藤魅は、冷静に手を取り、首元を観察し、おもむろに浴衣の袷を剥いだ。

さすがに驚いた蕗草が口を開くより前に、藤魅は噤真を呼ぶ。

少年は素直に傍に寄ると、肌蹴られた胸元に躊躇いなく左手を伸ばした。

良く見れば、少年の左手は包帯に巻かれ素肌が覗く場所はない。

「どうだ?」

蕗草には全くわからない流れだが、口を挟める雰囲気でもなく黙って部屋の隅で二人の様子を見つめる。

じっと黙りこんだ噤真は何かを探すように目を伏せている。

しばらくその状態が続き、黒目の大きな瞳が開かれる。

無表情のため気付き難いが、目だけを見れば子犬の様な風情を持つ少年だ。

「何か感じたか?」

藤魅の再度の問いかけに、噤真はこくんと頷いた。

片側を覆った真黒の髪が頷いた拍子に揺れ、隠された奥が一瞬露わになる。

やわらかな稜線を持った頬は、まるで片側と変わりない。

だが、大きな黒目がちの瞳があるはずのそこには、暗い淵が覗いている。

目蓋は縦に裂け、横も同じようにして十字の裂け目が走っている。

明らかにただの人間にある傷ではない。

だが、それもすぐにまた前髪の奥に隠れてしまう。

「鬼で間違いないな」

もう一度、こくんと頷きが返って来るのを確認して藤魅は立ち上がった。

「他の部屋も見せてくれ」

「良いけれど。何処も変わりはなくてよ」

「それは俺が決める」

突き放す藤魅に蕗草は、鼻白んだようだがしゅるっと組んだ腕をほどいて案内に襖を開けた。

「噤真、もう良い。行くぞ」

肌蹴た袷を直していた噤真は、こくりと肯いて出て行く藤魅を追いかけた。




藤魅はそれから、奥向きを回り、客間を全て見て回った。

さすがにこの一体でも名の知れた大見世だ。

回りきるだけでもかなりの時間が経った。

既に、客が大勢行き来している。

蕗草は、すれ違う客に丁寧に頭を下げながら厭うことなく藤魅を連れて歩いた。

それに対して、藤魅は一つ一つの部屋へと立ち入りゆっくりと見渡すとすぐに出て別の場所へと案内を頼む。

何の確認をしているのか、まるでわからない。

だが、その部屋ごとに何かしら呪いをかけている様子はあった。

その部屋の柱に薄様の紙を貼り付けていたからだ。

「あの子は、助かるかしら」

最後の一室を確認していた藤魅は、ふっと聞こえてきた独白に振り返った。

二階の格子窓から人の途絶えない大通りを見下ろして、蕗草は今まで見せなかった憂いと共に呟いていた。

「ここにいるのは、どの子もみんな親から売られたり、捨てられたりした子ばかり。男に体を売って、嘘を売って。最期があんなものなんて、余りに哀れだわ」

「・・・鬼に魅入られたのは、寂しさからか」

「え?」

問い返した蕗草は、ほつれた髪をついと直すと何を考えて居るかわからない男を見返す。

「鬼は、そこにいるだけでは人間に害は与えない。鬼が人間に影響を及ぼすのは、人間が望んだからだ」

「招き入れたのは、こちらだと言うの?」

「そうだろう。呼ばなければ、あいつらはこちら側に来る事も出来ない」

「・・・呼んだ?」

一人考え込む蕗草に、藤魅はぴくりと指を跳ねさせた。

「来たな」

好戦的な笑みが一瞬だけ、その白麗の顔を彩る。

即座に身を翻した男に蕗草は慌てて、その後を追う。

「待ちなさい!もうお客人も大勢いるのよ。下手な大立ち回りは遠慮して頂戴!」

ハッキリした主張に、藤魅はわずかに足を止めて蕗草の方を見た。

「考慮しよう」

甚だ心もとない首肯に、蕗草は天を仰いで息を吐いた。



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