第一話 存在しない戦場で
——太鼓の音がする。
重く、腹の奥に響く音。
次に聞こえたのは、男たちの怒号と、金属がぶつかり合う嫌な音だった。
「……は?」
私は地面に寝かされていた。
背中に伝わるのは、アスファルトじゃない。固くて冷たい、土の感触。
目を開けた瞬間、視界いっぱいに広がったのは、見覚えのない空と、無数の旗。
赤、黒、金。
——家紋。
「……なに、これ……撮影?」
時代劇か何かのロケ?
最近はリアル志向だし、エキストラも多いって聞く。
でも、なんで、
こんなとこにいるんだっけ?
起き上がろうとして、息を呑む。
すぐ近くで、血を浴びた男が倒れていた。
焦点の合わない瞳。
流れ出た血は、まだ温かそうで。
周りを見渡しても、
数えきれないほどの男が倒れてる。
鉄の匂いと、生温い空気が、はっきりと「本物」だと告げてくる。
なんだこれは。
なぜ、誰も気にしてないのだ。
この人たちは今にも死にそうなのに。
体が、鉛のように重い。
「……嘘でしょ」
そのときだった。
視線の先、馬上にいる一人の男に、心臓を鷲掴みにされた。
——先輩。
ぱっちりとした二重も、横顔の線も、間違えようがない。
毎日、何度も恋焦がれ、
こっそりと目で追っていた人。
ただし、着ているのはスーツじゃない。
漆黒の甲冑。
恐ろしいほど堂々とした姿で、戦場を見渡していた。
「……先輩……?」
思わず声が漏れた。
もっと近くで、ちゃんと見たくて。
私は、ふらつく足で立ち上がった。
——その瞬間。
周囲の空気が、はっきりと変わった。
「誰だ、あの女」
「戦場に女だと?」
気づいた時には、槍の穂先が喉元に向けられていた。
「不審者だ!」
怒鳴り声。
甲冑の男たちが、私を取り囲む。
——織田木瓜。
その家紋を見た瞬間、頭の奥で、何かが噛み合った。
「……まさか……」
太鼓の音。
黒一色の軍勢。
この、陣形。
「この戦……大将は……」
震える声で、私は呟いた。
「……織田、信長……?」
その名を口にした瞬間、空気が凍りつく。
そんなわけない。
ありえない。
何の冗談だ。
撮影じゃなきゃ、おかしい。
馬上の男——
騒ぎに気づき、先輩にそっくりなその人が、こちらを見た。
「なぜ女が、上様のお名前を呼び捨てにする」
「その者を捕えよ」
命令と同時に、周囲の兵が一斉に動く。
——その時。
あの人は、確かに私を見つめていた。
大きく見開かれた瞳。
驚きと、戸惑いと、
そして、何かを必死に探すような目。
気づいたんだ。
私に。
でも、次の瞬間。
「進め!」
号令とともに、私は捕らえられ、
先輩とは違う方向へと引きずられていく。
軍勢が動き出し、
視界は人と馬と土煙に塞がれた。
「待って……!」
叫んだ声は、戦の音に飲み込まれる。
私は、その人を見失った。
その時の私は、まだ知らなかった。
私が存在することで、
歴史が狂い始めていること。
そのせいで、
この世界が、私の知っているものではないこと。
ただ一つ分かっていたのは。
私はもう、
帰り道を、失っていた。




