小悪魔とカップ麺
男は自宅に帰ってくるなり薄っぺらい通勤カバンを投げ出した。中には大したものは入っていない。悪い人相の社員証と、カバンと同じく薄い内容の資料。月のない夜。少ない街灯は部屋を照らすには不十分で、暗い。男は電気も点けずにベッドに倒れ込む。遠くを走るトラックが、二度クラクションを鳴らした。
男はベッドの上で体を九十度回転させた。腿のスマホを引っこ抜き、目的もなくネットの海に潜る。疲労を超えた疲労の果て、乾き切った脳にジャンキーなエンタメが染み渡った。
「腹が減った」と男が思ったのは、男が帰宅してから一時間以上が経過した後だった。空腹感が、頭を支配する倦怠感を上回ったのだ。男はのろのろと体を起こし、重い足取りでキッチンへと向かった。冷蔵庫の中には酒。そしてストッカーの中身も空。男は少し先の未来を想像し、諦めと共にため息を吐いた。このまま食わずに翌朝を迎えるか、百メートル先のコンビニまで歩いて戻るかだ。疲労を言い訳に、コンビニを横目に通り過ぎた自分を強く呪った。
数分間の葛藤の後、男はコンビニでカップ麺を一つ買ってきた。あっさりしたシーフード味。コンビニ・スイーツなど男の買う物ではない。ようやく電気を点け、床のカバンを所定の位置に置き直した。流しで水を汲み、一息にあおる。深く息を吐くと、同時に嗚咽が漏れた。
湯が沸くのを待つ間、男はダイニングテーブルに腰掛けた。向かいの席にはもう長い間、誰も座っていない。机に突っ伏したが、肌に伝わる冷たさがどこか心地悪く男はすぐに体を起こした。やることもない。やりたいこともない。そもそもやる気もない。男は何気なく部屋を見回す。そして見慣れた筈の景色の中に、見慣れない物体を見つけた。
それは、古めかしい砂時計だった。砂の入ったくびれのあるガラスの筒が、木製の枠の中に収まっている。木の部分は赤っぽい茶色。アンティークの家具のような曲線、紋様の入った装飾が全体に施されている。艶もあり、相当年季が入っているのが素人目にも見て取れた。学生時代、旅先の古物商に買わされたその砂時計は、所持者に富と名声を齎す曰く付きの逸品なのだという。
投げ売りと言って良いほど破格の値段だった事、そして話のタネに出来るだろうという安直な目算もあり、男は二つ返事で砂時計を買った。しかしその砂時計は男の暮らしを豊かにするどころか、ネタにする機会を与えてくれる事もなかった。大学を出て早六年。三十路の足音が迫る中、
電気ケトルの湯が沸いた。カップ麺の封を破り、内側の目盛りまで湯を注ぐ。時間を測ろうとしたところで、男は手元にスマホがないことに気づいた。ベッドまで歩くのすら億劫だ。だが、例の砂時計は手を伸ばせば届くところにあった。ひっくり返して机に置くと、ゴトン、と大きな音を立てた。
男は、その砂時計が何分を測る為の物なのかを知らなかった。オリフィスを通る微細な砂の粒子を眺めていると、そんな事はどうでも良いようにさえ思えてきた。
「麺が伸びちゃうよー?」
聞こえる筈のない女の声。男以外に人はおらず、オウムやインコも飼ってはいない。声のした方へ目を向けると、そこには悪魔が座っていた。
男はその存在を直観的に悪魔だと理解した。整った顔。艶やかな長い髪。その身に纏うアイドルのような、左右非対称の露出の多いコスチュームも様になって見えた。そして頭からは大きく、湾曲した角が生えている。悪魔は横長の瞳孔を備えた黄色い目で、男をじっと見つめていた。
「食べないの?」
あどけない顔で男を見上げる悪魔。
「まだ三分経ってない」
未知との遭遇でもあるにも関わらず、男はまるで古い友人と話しているように感じていた。
「そっか」
悪魔はそう言うと机に肘を着いて両手を組み、その上に顎を乗せた。クスクスと小さく笑い、さらに蠱惑的な笑みを男に向けた。
「なら、ゲームしない?」
訝しむ男に向けて、悪魔は話を続ける。
「心配しないで。三分経つ前に終わるような、簡単なゲームだから」
「どんな?」
「キミが心の中で選んだ言葉をアタシが当てる。簡単でしょ?」
少し興味を見せた男を前に、悪魔は目を輝かせた。そして目の前の男が考え込む様子を楽しそうに眺めている。
「正誤の判定は誰がやる?」
「キミで良いよ。それと、後から言葉を変えてもオッケー」
悪魔の付け加えたルールに男は驚く。座り直し、押し黙り、腕を組んだ。ヤギのような悪魔の目を見据え、この先の展開を想像する。
「勝ったら、どうなる?」
男の質問に取引の成立を確信し、悪魔の口元が緩む。
「そうだねー。じゃあ、なんでも良いからキミの願いを一つ、叶えてあげる」
悪魔はわざとらしく身を乗り出し、胸元を男の視線に晒した。
「その代わり。アタシが勝ったらキミの今一番大事な物を貰う。良いね?」
男が生唾を飲み込む。そして呼吸を整え、平静を装って口を開いた。
「二言はない?」
男の問いかけに、悪魔は不敵な笑みを浮かべる。
「アタシたちは契約に五月蝿いんだ。信じて良いよ」
男は再び長考に耽る。足を組み、腕を組み替え、時には明後日の方向を見つめながら……
「分かった」
男はそう言って再び座り直した。顎を引き、真っ直ぐに悪魔の目を見据え、悪魔のゲームに打ち勝つべく万全の体制を整える。悪魔は、砂時計を両者の丁度真ん中に置いた。
「二言はない?じゃあ、スタートね」
悪魔の一声でゲームが開始されたが、しばらくは両者が見つめ合うだけの時間が流れた。男は微動だにせず、ポーカーフェイスを極め込んでいる。相対する悪魔は忙しなく姿勢を変え、さまざまな角度から男を観察していた。
「アタシとヤりたい」
男の心臓が跳ねた。心を乱されまいと悪魔の顔を注視するが、それが却って男の心を乱す。
「違う」
「ホントにぃ?」
悪魔はイタズラな笑みを浮かべ、胸元の布を摘んではためかせる。男は瞑目し、自分に言い聞かせるように強く言った。
「違う」
「そっか。ざーんねん」
口調とは裏腹に微塵も残念そうな様子を見せず、悪魔は再び男の観察を始めた。
「恋人が欲しい」
「違う」
「人肌が恋しい」
「違う」
「寂しい」
「違う」
正解に掠りもしない解答が続き、悪魔の顔から次第に余裕の色が消えていった。
「独り身って寂しくない?」
それは憐れむような、嘲るような声だった。苛立つ心を隠そうともせず、悪魔は指で机を何度も叩く。
「余計なお世話」
悪魔が取り乱すほどに、男は自分の精神が安定していくのを感じていた。
「お腹が減った」
「違う」
男がそう言うと、悪魔はその大きな目を一層大きく見開く。
「えー?嘘だー」
口を尖らせ、男の前に置かれたカップ麺を目で示す。
「お腹は減ってるけど、それは決めた言葉じゃない」
男の冷静な反論に悪魔は小さく舌を出す。
「むぅ。やるなー」
悪魔が横目で砂時計を見た。中の砂はほとんど落ち切っていた。爪を噛み、解答のペースを上げる。
「お金が欲しい」
「違う」
「権力が欲しい」
「違う」
「休みが欲しい」
「違う」
「金!」
「違う」
「権力!」
「違う」
「女!」
「違う」
「あーもう!一体キミは何が欲しいの?」
悪魔が吠えたその時、砂時計の砂が落ち切った。最後の一粒を見届けた男は勝ち誇った顔で高らかに叫ぶが、その刹那に悪魔の顔が恐悦に歪むのを見た。
「「僕の勝ちだ」」
男と悪魔の宣言は寸分の狂いなく重なった。興奮で上気した男の顔は一瞬で蒼白になり、反射的に否定の言葉を口走った。
「違う!」
悪魔は目を丸くしてカップ麺を一瞥し、それから男の顔を見た。
「そ?じゃあアタシの勝ちね」
男の敗北宣言に満足した悪魔は、出来上がったばかりのカップ麺と共に消えた。




