西日の差す喫茶店にて-入道雲-
電車のホームから、白く大きな入道雲が見えた。
お盆も過ぎると空は青さを増し、はるか上空を飛ぶ小さな白い飛行機が鏡のようにきらりと光を送ってきた。
街はいまだ夏真っ盛りの様相を呈していた。
バス通りに植えられた街路樹からは、セミの鳴き声がひっきりなしに降り注ぎ、一本また一本と通り過ぎるたびに、声は大きくなって押し寄せてくる。
久しぶりに訪れた喫茶店は、いつものように静かに佇んでいた。
玄関脇に置かれた鉢には背の低いひまわりが三本、黄色い花びらを誇らしげに見せつけているようだった。
扉を開けると、コーヒーの芳醇な香りが漂ってきた。
マスターに会釈をし、ひんやりと落ち着いた店内に流れる静かなピアノの音楽を耳にしながら、全体が見渡せる窓際の席に座った。
今日はブレンドコーヒーではなく、カフェオレを頼んでみた。これといった理由はないけれど、何となくいつもと違うものを飲んでみたかった。
わたしは手帳に挟んだ写真を取り出し、テーブルの上に広げて眺めた。
夏休みに初めて行った離島への旅は、これ以上ないほどの天気に恵まれた。
おかげで店内の決して明るくない照明でもわかるくらい日焼けした腕を出しているのが、ちょっと恥ずかしいような、ちょっと誇らしいような、そんな気分にさせた。
島のことを教えてくれた老夫婦がいなければ、今回の旅がこんなにも印象に残ることはなかったかもしれない。
ふたりのためにお土産を買ってこようと思ったけれど、いつ会えるかわからないので、島で撮った写真をその代わりにしようと、コンビニで印刷してきた。ふたりが出会ったという場所の近くの海の写真も撮ってきた。
店の扉が開くたびに入口を見るが、その夫婦が入ってくることはなかった。
そんなに都合よく会えるとは思ってはいなかったものの、少しは期待していたので残念だったが、そのうちいつか会えるだろうと気持ちを切り替えた。
もう少しで読み終える文庫本を広げて読み始めたが、すぐになんだか眠くなってしまい、しおりを挟んで目をつぶった。
島のことを思い起こしてみた。船から見た海の青さ、緑に覆われた山や砂浜の景色を思い出していると、そのうちに普段の生活のことや家族のこと、昔のことなどいろんなことが、とりとめもなく頭に浮かんでは消えていき、やがて、意識だけが深い海の底へ沈んでいった。
……扉の閉じる音と人の話し声が遠くから聞こえてきた。少しずつ意識を呼び起こしていくと、ピアノの音楽が耳に聞こえてきた。この曲は知っている。フィギュアスケートでメダルを取った選手が使っていた。
わたしはいつの間にか寝てしまったようだった。知らず知らずのうちに溜まっていた夏の疲れが出てきたのかもしれない。
ゆっくりと目を開けると、頭がすっきりした気がした。
ふと窓の外を見ると、空はどんよりと暗く、雨粒がひとつ、またひとつとガラスを叩きはじめた。
突然、ざあっと激しい雨が降りはじめ、軒先から雨が滴り落ちてきた。雨のにおいが店の中に入ってきた。
ピアノの音は雨音にかき消され、遠くで鳴る雷の音が聞こえた。
「あぁ、これはずいぶん降ってきましたね」
風を通していたのか、少しだけ開いていた窓をマスターが閉めに来た。
「濡れませんでしたか?」
「はい、大丈夫です」
窓が閉まると、雨音はこもった音になり、その中からピアノの音がふたたび聞こえ始めた。
「そのうちにやむでしょう」
マスターが窓の鍵をかけようとすると、
「叔父さん、これはここでいいの?」
と、カウンターから若い女の声が聞こえてきた。
「ああ、そこでいいよ」
マスターは彼女に言って、今度はわたしに、
「大学生の姪が手伝いに来てるんですよ」
と、少し照れたように、けれど嬉しそうに言ってカウンターへ戻っていった。
カランカランと扉が開き、小さな白い傘をたたみながら女が入ってきた。しっとりと濡れた傘は日傘だろうか。
「いらっしゃいませ!」
マスターより先に、彼の姪が声を掛けた。
「叔父さん、傘立てあった?」
「ああ、そうだな。お客様、傘はお預かりします。お好きなお席へどうぞ」
女はわたしと同じように窓際の席に座ると、すぐにカバンから取り出したスマートフォンを開いたが、明らかにがっかりした表情を浮かべてテーブルの上に置いた。
マスターが注文を取りに行くと、彼女は「コーヒー」とだけ言い、それからずっと沈んだ表情で窓の外を見ていた。
「コーヒーお持ちしました」
マスターの姪がコーヒーをテーブルの上に置いた。
彼女はちらりと見て、落ち着かない様子でまた窓に目をやった。窓ガラスを雫が流れ落ちていく。
店の扉が開き誰かが入ってきた。彼女ははっと振り向いたが、すぐに向き直り、スマートフォンを開いて見た。
その時、スマートフォンが音を立てて振動した。
彼女は一瞬明るい表情になりあわててスマートフォンを開いたが、すぐに表情は曇っていった。
そして、コーヒーをひと口だけすすると立ち上がり、カウンターへと歩いていった。
窓の外は急に明るくなり、まだ雨は降っているものの、道路には光が差し込み始め、蝉の声まで聞こえてきた。
ちょうど喫茶店の前を横切る男の姿が目に入った。男はその格好とは不釣り合いに華やかな花束を腕に抱えていた。
わたしは彼を目で追った。その後ろ姿は、あの日、店の前で見送った老夫婦の夫のそれと似ているような気がした。