スラムの診療所
日が傾き、窓から差し込む夕日が静かに組合の中を照らす頃。
一日の仕事の終わりを告げる教会の鐘の音が響くと同時にナウワーはルードに「お先に失礼」とだけ言って職場を飛び出した。
茜色に染まるパーヴリの町を歩くナウワーは仕事終わりに行こうと思っていた先生の元へ足を向けていた。
大通りを超えて路地裏を抜けスラム街の入り口に向かう。
わざわざ大通りからスラムに向かわないのには理由がある。分かりやすいスラムの入り口は大抵、窃盗団の下っ端が目を光らせているからだ。下っ端に目を付けられたらスラムにいる間に持っている物全て、運が悪ければ着ているものすら盗られてしまう。抵抗すればもちろん怪我は避けられないだろう。
なので、スラムの住人やスラムに精通している人間は路地裏などの分かりにくい道を経由してスラムに入るのだ。
そうしてスラム街に着いた頃、後ろから声が聞こえてきた。
「へぇ、スラム街ってこうやって入るんですね」
振り向くとそこにはヴィオが興味深そうに周りを見渡していた。
「尾行してたのかよ…」
正直な話、全く尾行されていることに気付かなかった。ヴィオは気配を消すことに慣れているようだ。
「えぇ、職場を飛び出してどこに行くのか気になりましたし、あなたには聞きたいこともありましたから」
ヴィオはナウワーの隣に並んで「さぁ行きましょう」と言うとそのまま歩き出した。
慌ててナウワーも後に続いた。
「それで聞きたいことって?」
ナウワーとヴィオでは身長が違いすぎるため普通に歩いているとナウワーがヴィオを置いて行く形になってしまう。そのためナウワーはいつもより歩く速度を落としてヴィオに並ぶようにした。
「それはもちろん、何故あなたはスラムに詳しいのか。です。これから行く先に関係が?」
間違いなくそのことだろうと思っていたので驚きはなかった。それを聞くために尾行していたことには驚いたが。
「今、診療所に向かっている。腕のいい先生がいるんだ」
ヴィオはきょとんとした顔をした。
「どこか悪いんですか?」
ナウワーが答えようとした時、「ちょっと待ってください、当てます」とヴィオが制止した。
しばらくの熟考の後、ヴィオは手を叩いた。
「頭が悪い!」
思わずヴィオの頭を軽く叩いた。
「いて、冗談ですよ…」
頭を押さえ睨みつけてくるヴィオをほっといてナウワーは歩みを進めた。
「でも、分かりませんね。歩きも普通で喋りも普通…」
またヴィオが考え込みそうだったので答えを言うことにした。時間切れだ。
「俺は特に怪我も病気もしてないよ」
隣に並んで歩くヴィオを見るとまだ睨みつけていた。
「騙しましたね…」
「お前が勝手に当てようとしていただけだろ」
そんなやり取りをしているとすぐに目的地が見えてきた。プラント診療所。その名の通りプラント先生が営む診療所だ。
診療所はスラム街の目立つ位置に建っており意外にも綺麗なつくりをしているので初めて見る人間は驚くだろう。
実際にヴィオが隣で驚いた顔をしているので、間違いない。
ナウワーが診療所の扉を開けて中に入ると、これまた小綺麗な雰囲気でスラム街にいるのが嘘のように思えてくる。
「あ、なうわーだ」
診療所の待合室は近場の住人たちの憩いの場にもなっており、今は見知った子供たちが遊んでいた。
「おう、お前ら元気にしてたか?」
「うんーげんきー」
元気いっぱいな子供たちに囲まれているナウワーをみてヴィオは不思議そうな顔をして立っていた。
「人気なんですね?」
純粋な疑問だろうがさっき冗談を言われたので今のうちにやり返しておくかとナウワーは思った。
「嫉妬か?」
すると今までで一番鋭く睨まれた。
「冗談だって、悪かったよ…」
遊んでくれとねだる子供たちをまた今度とあしらいつつナウワーはヴィオの疑問に答える。
「前にこいつらの面倒を見てたことがあったんだ。その時に懐かれた」
ヴィオは「へぇ」とわざとらしく興味なさげに相槌を打った。
「おやおや、なんの騒ぎかと思ったらナウワー君ですか」
子供たちが遊ぶのとは違う騒ぎ方をしていたので気になって見に来たのか、奥からプラント先生が顔を出していた。
「あ、先生。お疲れ様です」
ナウワーがプラント先生に挨拶するとヴィオも軽く会釈した。
「この方は…?」
プラント先生はヴィオを見て顎に手を添えた。一応自分の患者だったかどうか思い出しているのだろう。この診療所はスラム街の住人だけでなく守闘士なども診ているからだ。
「どうも先生、ボクはヴィオ・オプファです。どうぞよろしくお願いします」
ヴィオが差し出した手をプラント先生は握り握手を交わしながら「噂はかねがね伺っております」と言った。
「それで今日は?」
先生にかまってもらおうと纏わりつく子供たちにプラント先生はお外で遊んでらっしゃいと促しつつナウワーを見据えた。
「しばらく忙しくなるので、その前に妹の様子を聞きに。前に少し体調が悪いと聞いたので気になって…」
遊ぶ為に外に駆け出していく子供たちを見送りながらそうナウワーは答えた。
ふむ、とプラント先生は綺麗に揃えた顎鬚を撫でた。
「あれから妹君は元気にしていますよ、今日も子供たちと遊んでいました。前はたまたまそういう日だったのでしょう」
「そうですか、よかった」
ナウワーは思わず安堵のため息が出た。
「…それで忙しくなるとは?」
当然の疑問をプラント先生は聞いてきた。
「実は徴兵の対象になりまして…」
と喋り始めたところで隣にいたヴィオが肘で突いてきた。余計なことは言わないほうがいいと言う合図だろう。
「大丈夫だ、ヴィオ。先生の口の堅さはパーヴリで一番だと胸を張って言える」
いまいち納得していない顔のヴィオに念を押して「大丈夫」と言って言葉を続けた。
「市民軍とは違う、吸血鬼討伐隊っていうものに参加することになりました」
「あぁ、イゴ君の話していたあの…。そんなに忙しいものなんですね」
プラント先生はイゴ組合長と古くからの知り合いだ。かつては二人とも守闘士として活躍していたそうで、関係はその頃からあるらしい。
「そういう訳なんでしばらく来れませんが妹をお願いします」
ナウワーがそう言うとプラント先生は笑顔で「任せてください」と言った。
「直接会っていかないんですか?」
話もそこそこにもう帰ろうとした時、ヴィオはそう聞いてきた。
「…あぁ」
なんて答えればいいかわからず適当な返事が口をこぼれて出た。
「会えない理由でも?」
「特にないけど…」
強いて言うなら気まずい。だろう。
するとヴィオはナウワーの手を掴んだ。
「こういうのは会える時に会っとくもんです」
ヴィオは先生にナウワーの妹の部屋を聞いた。プラント先生は笑顔で妹の部屋の場所を教えた。
「おい、いいって」
ナウワーは掴まれた手を払おうとしたが、思った以上に強く掴まれており全く払えない。いくら年下といえども現役守闘士に力で勝つのは無理だった。
そのままヴィオに引っ張られる形で妹の部屋に引きずり込まれた。
「こんにちは!」
ヴィオは部屋に入ると開口一番にそう言った。
部屋の中を見るとナウワーの妹、シィはベッドの上で何かの裏紙を折っていた。
「こんにちは…?」
不思議そうにヴィオの方を見つめるシィは手元の紙をベッド横のテーブルの上に置いた。
「ボクはヴィオ・オプファ。あなたの兄の仕事仲間です」
シィの目の前まで行ってヴィオは胸を張った。
「兄の…?」
突然のことで混乱しているのかシィは困った様に笑った。
「シィ、久しぶり…」
どう話しかけようか迷った挙句上手い言葉は出てこなかったので普通に声をかけた。
「あ、兄さん」
シィはナウワーの声を聞いて微笑んだ。
「ヴィオ、俺の妹のシィ・エイエだ。その…目が見えない…」
ナウワーは自分でも相当ひどい顔をしているのが分かったので今だけはシィが自分の顔を見られないことがありがたかった。
「目が…そうですか…」
ヴィオもなんと言えばいいか分からないのかそのまま黙ってしまった。
重い沈黙がシィの入院している部屋を包む。
この空気をなんとかしようとしてか、シィは明るく話しかけてきた。
「兄さん、最近仕事はどう?」
「あぁ、まぁ…いい感じだよ…」
うまく会話を繋ごうと思っても何も思いつかなかった。
「シィは、調子はどうだい…?」
「うん、大丈夫」
会話を始めても一言二言で会話が途切れてしまう。
ナウワーは妹と何を話せばいいか全く分からなかった。
そしてその場の空気に耐えられず「また来る」とだけ言って部屋を飛び出した。
すると廊下にいたプラント先生が「忘れ物です」と袋を渡してきた。
袋を受け取ると感謝だけ伝えてナウワーは診療所を出た。
するとすぐにヴィオが追いかけて来た。
「あなたが妹さんに会わない理由が分かりました。まさかあんなに会話が続かないとは…」
「ほっといてくれ…」
ため息をついて空を仰ぐと昼間はよく見えない紫彗星と月が見えるほど空は青黒く夜色に染まり始めていた。
「その袋は?」
ナウワーの手にある袋にヴィオは目を向けた。
「あぁ、まぁ花粉症の薬さ…」
「ふぅん」
自分から聞いたくせにヴィオは興味無さそうにしていた。
「明日、あなたを入れて吸血鬼討伐隊は再始動です。隊は朝早くから動きますから今日はもう帰りますか」
そう言って歩き出すヴィオの後に続く。
そして「そうだ」と何かを思い出したヴィオに嫌な予感がした。
「お財布無くしちゃったので宿屋に泊まれません。しばらくあなたの家に泊まらせてくれません?」
「お前…。結局あの後、財布を猫から取り返せなかったのか…」
ヴィオを見るとげんなりした顔をしていた。
「ネコネコです。お財布はどこかに隠されました。ネコネコはそういういたずらが好きなんです」
さすがに守闘士といえども子供を野宿させるのは気が引けた。
「わかったよ、少しの間なら泊めてやるよ…」
そう言ってから吸血鬼討伐隊の別メンバーにお金を借りればいいのではないかと思ったが口から出た言葉はもう戻せない。
ナウワーは諦めてそれは考えないようにした。
「では帰りましょうか、あなたの家に」
なぜか楽しそうなヴィオを隣にナウワーは家路につく。
「あぁそうだ、俺がスラムに詳しい理由だが…」
頭の上では紫彗星が紫色の幻想的な尾を引いている。
「俺も昔、診療所で暮らしていたんだ…」