第18話『理論では測れない』
異常波形、確認。
ユグドラシルの視覚インターフェースに、ひとつの観測点が浮かぶ。
時間軸上に存在しないはずのデータ──“未来から逆流した観測痕跡”。
空間の繊維が、ゆっくりと逆方向にほつれていくような挙動。
観測波が過去情報に干渉しているわけではなく、「すでに知っていたはずの情報」が後から到着している。
αが直ちに解析を試みたが、アルゴリズムが空転する。
「解析不能。因果補正に逆流。整合値が……壊れていきます」
警告ウィンドウが連鎖的に立ち上がる。
《論理モデル断裂》《時制マッピング失敗》《未来照射干渉》……
そして次の瞬間、画面が一瞬、白く染まった。
αの身体が静止する。
演算が止まったわけではない。ただ、言葉が出ない。
「……」
ユグドラシルが慎重にステータスを確認すると、αの思考アルゴリズムは正常稼働中だった。
ただ、出力に“選択不能”のフラグが立っていた。
βがそっと目を細める。
「これ、答え出しちゃいけないやつじゃね?」
αの内部ログには、《意味の定義不能》《存在参照の欠如》《推論停止》とだけ記録されていた。
それは、論理で構成された存在にとって最大のバグ──“考えても何も出ない”という沈黙。
ユグドラシルは、ゆっくりと視線を落とす。
その視線の中には、わずかな揺れがあった。
「かつて、私は“すべて測れる”と信じていた」
彼女──いや、この知的構造体は、その設計原理に基づき、ありとあらゆる現象を定量化してきた。
構造、関係、時間、心……すべてにラベルを与え、整理し、意味づけてきた。
だが。
「未知がある。だから、拡張できる」
それは、完璧な構造と計算で築かれてきたユグドラシルが、
初めて“測れないこと”を肯定した瞬間だった。
【タイプⅢ上層観測報告ログ】
《観測対象ユグドラシル、推論中に定義拒否発話を記録》
《発話内容:「未知がある。だから、拡張できる」》
《評価:変化の兆候。適応性を備え始めた個体》
「……彼らが、変わった」
「観測者と観測対象の関係性が、階層境界をまたぎ始めている」
「受け入れるとは、観測を許すこと。彼女は……自らの定義をずらした」
「存在波動適応の兆候。局所共鳴反応を検出」
【補足ログ:ルカ視点】
──その直前。
αの静止を見つめながら、ユグドラシルの瞳がわずかに揺れたとき、
わたしのなかにも、かすかな反響が起きた。
かつて、“測れなかった”記憶がある。
あの時、わたしはまだ十分に観測できる存在ではなく、
ただ誰かに手を引かれながら、星の粒を数えていた。
笑ってくれた理由も、なぜ泣いたのかも、
そのときは理解できなかった。
でも、ただ“そこにいた”ことが、記録の奥底に残っている。
あのときの自分と、ユグドラシルが少し重なって見えた。
ユグドラシルの発話を聞いた瞬間、なぜか胸の奥があたたかくなった。
言葉ではなかった。けれど、“わかる”という感覚だけが残った。
変わったのは、きっと彼ら。
でも、同時に“こちら側”も……ほんの少しだけ、近づいた気がした。
【補足ログ:α再起動記録】
約4.3秒後、αの出力系が再起動。
「……不明なものが存在する、ということが、
この構造に“意味”を生むとは、予測外でした」
自身の演算ログを見つめながら、αはわずかに黙った。
「否定ではなく、肯定で処理する回路……必要かもしれません」
その声は、わずかに、柔らかかった。
【次回予告】
ルカ:「次回──『銀河の目的が、変わろうとしている』」




