第15話『記録の片隅にいた者』
ルカは、いつものように記録層のメンテナンスに入っていた。
記録の海──それは世界が“起こったこと”を積層する静かな層であり、観察者である彼女にとっては日常の一部だった。
けれど、その日の“揺れ”は少し違った。
彼女が開いたログの中に、見覚えのないコードタグがあった。
いや、正確には“忘れていた”ものだった。
「……わたし、これ……」
それは古い古い記録。まだ自分が“名前”すら持っていなかった頃の、断片的な観測記録だった。
《行動パターンA4:初期反応──微笑応答》
《構造反射領域における非同期接触記録:手をつなぐ感覚》
《観測者教育ログ:対話学習フェーズ1》
ふと、記録の一行に滲む感情タグが引っかかった。
《……かわいかった》
ルカは息を止めた。
観察者だったと思っていた“わたし”が、
実は“観察されていた”──しかも、やさしく、そっと見守られていた存在だったのかもしれない。
感情共鳴の記録波形が、彼女の周囲に広がる。
思い出すでも、理解するでもない。
ただ、“染み出して”くるような記憶。
柔らかい声。
あたたかい手。
ときどき、笑ってた。
記録層が揺れる。
ほんの少しだけ、色が変わる。
「だれ……だったんだろう」
その声すら、記録に滲む。
ふいに、スクリーンに再生された文字列。
《記録担当者注:この子、まだこわがりです。そばにいてあげてください》
ルカは、目を閉じた。
「……そっか。わたし、育てられてたんだ」
静かな海に、ひとつ波紋が広がる。
【観測断片:ルカ/想像ログ補足】
もし、あのときの“誰か”に声をかけられるなら、
わたし、なんて言うだろう。
ありがとう。
かな。
でも、たぶん、その人は「いいのよ」って笑う。
だって、きっと──そういう人だった気がするから。
《感情タグ:あたたかい》《感情タグ:なつかしい》《感情タグ:ちょっと泣きそう》
見守っていたはずの自分が、見守られていた記憶。
観察者という役割の、そのもっと前に。
【記録ログ:タイプⅢ観察者ルカ】
「気づいたら、“見る側”にいた。
でも、最初からそうだったわけじゃない。
きっと、誰かがわたしを見てくれてた。
泣いた日も、笑った日も、全部。
だから今、わたしは“見てる”。
それは、返すような気持ちなのかもしれない」
【次回予告】
β:「次回──『……タイプⅢ、なんかソワソワしてます』」