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陰謀

音をテーマとしておりますがなんとなく消化不良気味であります

 神奈川県川崎市某所。午後七時。

 体育館のような広い板張りの空間に白装束をまとった男女十数人が右手に持った鈴がついた杖を上下に振り回し、一心不乱に唱えている怪しげな念仏の声が大きくうねり、館内に響き渡っている。

「ああがらずうたらすたばばらーああがらすらたびざばばーああがらずうたらぶらぶらばー ――」

 理解不能な呪文と激しい鉦や太鼓それに鈴の音が混然と一体となり、その後ろには若い男女数人が両手を合わせ同じように声高に不可思議な呪文を唱えている。

 正面には舞台が一段高く備えられ、その上にはきらびやかに装った法衣と濃紺の袈裟、烏帽子を纏った僧侶が両手を広げ天を指し示している。

「もっと情熱をっ! 祈りは天に通ずるのだっ!」

 僧侶が叫ぶとさらに鉦太鼓鈴が威勢よく鳴り響き、同時に読経の声が一段と高まり、地響きのように大津波となり空間を駆け巡る。

「魂の叫びを解放せよッ!」

 厳しい僧侶に声を涸らさんばかりの読経は悲鳴のように甲高く会場をうねった。

 それはまるで野獣の咆哮だ。

 そして最高潮に達した時……信じられないことが起きた。

 僧侶が叫ぶ。

「祈りは天に通じたっ、見よ!」

 おお……と言う声が後方から轟いた。

 なんと言うことか、なんの前触れもなしに僧侶の身体がすっと宙に浮いたのだ!

「奇跡だ、奇跡だッ!」

 後方に備えていた若者達が悲鳴のような声をあげた。

 若い男女数人は口々に叫びひれ伏した。

 白装束の一派はそれに惑わされることなく呪文を唱え続けて打ち鳴らす。

 感極まった女達が嗚咽を漏らす。

 全く理解できない無茶苦茶な論理だがトランス状態に陥っている信者達には正当性に陶酔している。

「これは奇跡ではない。皆の声が天にとどいたのだ。さらに、見よ!」

 大僧正は空中からストンと落ちたかと思うと、法衣がドサリと落ち、僧侶の身体が煙の如く消えていったのだった!

 男女はパニックになった。あまりの恐怖に腰を抜かしたものがいる。

「消えたぞっ!」

「大僧正様っ……どちらへっ?」

「怖いっ」

 突如、大僧正の声が轟く。

「いいか新人信者ども、必死の祈りは必ずや天に届くのだ。この不退転の所作は、この世の中をきよく正しく導くのだ。現世界に天誅を下すのだ。新たなる世界を築くのだ。これを天誅と言わずとして何が天誅であろうかッ!」

 若い男女は何処からともなく聞こえた大僧正の声を聞き入るように両手を固く握りしめ、中には涙をこぼす者もいた。

 


 横浜市中区スケロク商事事務所。

 スケロク商事事務所応接間に所在なげに若い女性が座り杉田に相談を持ちかけてている。

 応接間と言っても、簡易的に仕切られたスペースで相談内容は筒抜けである。おまけに布張りのソファは所々虫食いのあとのように穴がいくつも開いているが、女性は気にもしていない様子だ。暗い表情をした彼女にとってはそれほど深刻な依頼なのだ。

「兄が変な宗教に凝り固まって、やっとの思いで貯めた私たちの生活費を無断で五十万円、断りもなく持ち去りました」

 杉田は静かに耳を傾けている。

「……それは大金ですね。何故また?」

 そして杉田は問いただす。

「お布施と称して相手に渡したようです」

 野来下雫のきしたしずくと名乗る女性は杉田の問いかけに答えた。それに対して杉田は訝しそうな顔をした。

「お布施? ということは何か買わされたのでしょうか」

「いえ……」

 女性は首を振る。

「強制されているのではありません。自主的にお金を渡しているのです」

 意味が分からない言いたげに杉田は顎に手を当て女性を見つめる。

「普通は祟られているから除霊と称しナニやらツボとか霊験あらたかなる聖水とか水晶玉など意味の無いようなものを売りつけ、金を巻き上げるのが怪しげな宗教団体の手口と聞いておりますが。それはない?」

「はい……」

「全く?」

 女性は顔を上げ杉田を見つめた。

「そうです。ただ現金だけを渡しているのです」

 そう言うと女性は深々と頭を垂れた。

「どうか、こんなインチキな宗教に騙されている兄を救い出してください。お願いします。頼れるところはスケロク商事さん以外にありません」

 そう言って顔を上げた女の両目から涙がこぼれた。涙を認めると杉田は少し動揺したようだ。

「お兄様はどこにいるか分かってますか」

「はい、川崎の天誅教会です」

 杉田はソファに背をかけるとギシギシと音を立てた。

「もう一度伺います。お兄様、野来下茂さんはその教会から抜け出したがっているのですね」

 杉田の問いかけを否定するかのように女は首を横に振った。

「いいえ……居心地がよいようです。それにお経を唱えると奇跡が起きるのをこの目で見た、と」

 信じられない、と杉田は思った。

「奇跡ですか?」

 野来下雫は答えた。

「兄が申しますには、信者一同が一心不乱にお経を唱えていると、僧侶が宙を飛び瞬く間に消え去ったって言うのです」

 話を聞いている杉田は目を丸くした。

「消えた?」

「自分もその超能力を使えるようになりたい、と」

「超能力?」

 杉田にとっては不可解な言葉が次々と来下雫から出ている。

「そんな事、信じられません……その変な宗教から兄を救い出しください」

 再度の女の言葉に杉田は困った顔をした。

「難しい問題です、野来下さん。救い出すとおっしゃいましてもね、どんな宗教なのか全く分かりませんし、下手すると裁判沙汰になるかも知れません」

「出来ませんか……」

 女性は頭を垂れるとその両目からさらに涙が溢れた姿に杉田はさらに動揺した。

「ご両親はどうしたいと思っていますか」

 野来下雫は静かに首を振った。

「両親は交通事故で、この世にはもう……」

 杉田は謝るように首を下げた。

「これは失礼を」

「よいのです。頼るのはいまは兄しかおりません。警察の他に方々の探偵社や興信所を訪ね歩いたのですが、どこも聞き入れてくれなくて、最後と思いスケロク商事さんに藁をもつかむ思いできましたのですが……」

 杉田はため息をついた。

「近日中に見積もりを出しますので、ご検討ください。話はそれからです」

「宜しくお願いします」

 誰憚ることなく涙を流しながら、ふらふらと軒下雫は立ち上がった。

 帰り際、杉田は質問した。

「弊社のことを何処でしりましたか」

 雫は振り返りながら言った。

金四大かねしだい探偵社さんから紹介を受けました」

 そう言うとスケロク商事から出て行った。

『須藤の野郎……』

 出ていくのを見定めると、杉田は、ドン、と机を叩いた。

「自分の所じゃ引き受けたくないと、思った須藤社長が、苦し紛れに紹介したんでしょう」

 成り行きを聴いていた黒川は言った。

 和道が黒川の言葉を引き継いだ。

「今回の案件は絶対我が社では無理だよ、社長。うんとふっかけて諦めてもらうようにしよう」

「でもなあ……あの涙を見るとなあ……恐らく兄妹しかいないんだろう。兄を頼りにしているに違いないなあ」

「全く社長はっ!」

 管弦は腹立つような言い方をした。

「若い娘見ると、直ぐに鼻の下伸ばすんだからッ」

 管弦に対し和道は憤慨した。

「瑠那ッ、社長に対して、なんて言い草だね。謝れ」

 謎めくように杉田は和道をいさめた。

「まあまあいんでないかい、過去が過去だけにな」

 電話が鳴った途端、いきりたっていた管弦は直ぐさま取り上げた。

「お電話ありがとうございます、心に寄り添うスケロク商事でございます……」

『なんてこった……』

 管弦のギャップに和道は額に手を当てた。

 

 しかしこの物言いが後々違和感を感じることになるのだった。



 宝来警察署取調室。

 若い男と刑事がにらみ合うように対峙していた。男は足を組み椅子にふんぞり返っている。

「お前の足取りは分かってんだ。被害者からひったくったバックの書類、誰に渡した?」

「知らねえよ、そんなの」

 髪の毛を赤く染めている男が言い返す。身を乗り出した刑事は追求する。

「ばっくれたって分かってんだ。お前なあ、奪ったあと駅前のトイレで中味を抜き、川崎に向かった。向かった先も分かっているんだぞ」

 刑事の追求に項垂れた若い男は黙り込んだ。

 刑事は数葉の写真を並べた。

「この写真を見ろ。ここに写っているのはお前だろ? トイレで押収したピンクのバックにお前の指紋もついていたんだ」

 男は重い口を開いた。

「高そうなバックに見えたんで金が入ってると思った……」

 刑事の神崎はバン、と机を叩いた。

「そんな単純な言い訳が通じると思ってんのかッ」

 若者はビクッとした。

「お前は中味を知っていて犯行に及んだ。行き先も川崎の天誅教教会だ」

 うっすらと額に汗を浮かばせた男は、肯定も否定もせず押し黙った。

「黙秘か? さっさとゲロしたらどうだ。誰の指示で誰に渡した?」

 刑事は若い男を睨みつけながら顔を近づけた。

「窃盗罪は罪は重いぞ。もう一度聞く。誰の指示だ? 誰に渡した?」

 男は貝のように一言も発しない。

「おい、ぶち込め」

「立て」

 警官二人が若い男を立たせ留置場に向かっていった。

「しぶといヤツだ。証拠を前にばっくれてんだからな。頭をどついてやりたいぜ」

「神崎刑事、そんな事したら逆に暴行罪で訴えられますよ。拘留時間も迫ってきてますし、早いところ送致しないと」

「苦労の末、やっと尻尾を掴んだんだ。これは個人の犯行じゃない。絶対、組織的な犯罪だ」

 警官の声がすると取調室のドアが開いた。

「失礼します」

 刑事の二人は警察官の後ろから入ってきた女性刑事を認めた。

「警視庁組織対策課から応援でまいりました重伝琴葉と申します」

 宝来警察署加藤副署長は神奈川県警に応援を頼んでいたのだったが……。

「僕らは神奈川県警から応援が入ると思っていたんですが、警視庁の、それもエースの応援とは凄く有り難い。御泥木事案での活躍は我々の励みです。私は今回事案担当の神崎省吾、こちらは相棒の池内純也。よろしくお願いします」

 重伝はちょっと困った顔をした。

「あの案件では途中で外されましたから……励みと言われましても」

「ここでは何ですから第二会議室で今回の事案、お話しします」

 宝来警察第二会議何時で三人の協議が始まった。

 重伝の問いかけに神崎は書類を並べる。

「はじまりは拘留している男、音成兵五おとなりひょうごが被害者から書類を強奪したことに端を発しています。私たちの調査ではこの男は中味を知っていて犯行に及んだのです」

 重伝は訊いた。

「核融合に関する設計図を自宅に持ち出したとなっておりますが、何故また持ち出したのでしょう」

 池内が明快に答えた。

「被害者は在宅勤務です。上司からの指示で設計図を持ち帰り、自宅で構造体の設計を調べ計算し直していたと証言しています」

 池内は書類を指し示した。

 調書を読んでいた重伝は意外な言葉を発した。

「ここに書かれている被害者の上司、横濱電力電纜株式会社の上原作之助は何故持ち出しを許可したんでしょうか?」

 神崎が答える。

「上原作之助製造課長ですか。調書にはそこに至った経緯は詳しくは書いておりません」

 神崎は調書を捲りながら呟いたが、はっとした顔つきで重伝を見つめた。

「と言う事は重伝刑事……」

 重伝は二人をじっと見つめる。

「許可した上原作之助から被疑者を襲うように指示した可能性も考えられませんか。今一度、わたしから被害に遭われた女性と製造課長と話をしてみたいと思います」



 次の日、重伝は神崎、池内と共に被害女性と面会していた。

 リビングには製図台、机の上には専門書が高く積まれ、最早リビングの体をなしていない。その光景を見ながら重伝は質問をした。

「調書に依りますと自宅で作業と言うことですね」

「そうです。核融合炉を包むための磁場誘導回路とその暴発対策で図面と格闘していました」

「難しい話は無しにしてこの時代にアナログとは。磁気カードの方が軽いでしょうに」

 女は言う。

「磁気カードですと紛失したり読めなくなったりしたりしたら困ります。多少重くても原図での確認をしたかったのです」

 重伝は疑問を呈した。

「しかし重要な設計を在宅でさせたというのは腑に落ちませんね。社内にとっても重要機密事項でしょう」

 被害女性ははっきりと言い放った。

「納期が迫っているので不眠不休でやれ、と製造課長から指示されました」



 被害者宅を出たその足で製造課長と話す重伝。

「調書に依りますと持ち出しを許可したのは製造課長の独断のようですね、何故ですか」

「納期の問題です」

 重伝は被害女性と同じ質問をした。すると上原は被害女性と同じく答えた。

「磁気カードでは破損する恐れがあります」

 まるで口裏を合わせたようだ。

 重伝はさらに続けた。

「重要な事案を製造課長の独断で決めるとはちょっとおかしいように思いますが」

 それについても上原作之助は断言した。

「彼女は優秀な理系女子で、それにかけたんです。もちろん上司には事後承諾でしたが」

 重伝はさらに追求するように言った。

「在宅ワークなら設計図を渡さなくてもメールなどで何とかなったんでしょう」

 突如、上原は汗をかき始め反論するように言った。

「A1の設計図ですし全体を検証するには原本を渡し書き込むのがいいのです」

『何か隠している』

 この時隣で聞き入っている二人の刑事が思った。さらに追求するような重伝だが……。

「今日はこれで」

 そう言うと重伝は席を立った。上原は後ろ姿を見つめていた。


 重伝が帰ったあと上原作之助は大急ぎでタブレット端末に電源を入れた。

 黄色いフードを被った人間が浮かんできた。

「教祖様、話を聞きたいと再度調査が入りました。今回は女刑事です」

「ふむ」

 黄色いフードを被り表情を見せないでいるが明らかに女性だ。

「どうしましょうか教祖様」

 女は言う。

「感づかれる前に聖コーリン、あなたは身を隠すべきね」

 上原は頷く。

「やはりそうした方が良さそうです」

 黄色いフードの女は手を組んだ。

「今夜八時、涙橋に来て。迎えをよこしますから。そこで教会に入ってもらいましょう」

「分かりました」

 聖コーリンと呼ばれる上原作之助は電源を切った。



 その頃、会議室の戻った三人は協議した。

「どうも上原製造課長は何かを隠しているわね」

 重伝が言うと、二人も頷く。

「構造に関する設計は重要な機密書類になるでしょうに」と神崎は腕を組む。

「それを社内ではなく持ち出しを簡単に許可させた製造課長は納期に間に合わない、と話していたが」

 重伝はきっぱりと言った。

「もっと上原作之助の身辺を洗った方が良さそうね」

「そうですね……」

 三人の意見は一致していた。



 午後八時。

 上原作之助は予定通り涙橋の欄干に立って、川面を見つめていた。端を渡ると直ぐ元町商店街だ。

 頭上では首都高三号線が走り車の音が絶えないが、中村川に架かる涙橋を渡る人影はない。昼間の喧噪感とは表情を一変していた。

 車の音が聞こえ、ドアが開く音がした。

『来たか』

 ゆっくりと振り向くとそこには真っ赤なフードと同色のコート着た男が近づいてきた。

「聖コーリンだな」

 赤いフードの男が言った。

「ああ、そうだ」

 それが作之助の最後の言葉だった。

「天誅」

 そう言うが早いが赤いフードの男はいきなり肩のホルスターから拳銃を抜くと三発発射した。

 乾いた音が響き崩れ落ちる作之助……。夥しい鮮血が流れ橋の通路を真っ赤に染めていった。

 フードの男は確認することなく直ぐさま踵を返し車に乗り込んだ。

 



 次の朝、重伝が宝来警察署に到着すると警察内部は慌ただしかった。

「おはようございます、重伝警部補」

 神崎の声にバッグを置きながら開口一番重伝は尋ねた。

「製造課長が殺されたって本当?」

「昨夜元町に通じる涙橋の袂で射殺体で発見されました」

 池内も繋いだ。「捜査本部の設置や人選、マスコミ対応で騒々しいですよ」

「なんてこった……」

 重伝は頭を抱える。

「一からやり直しじゃないの。というより、この事件でアタシはお役御免ってことかな」

「せっかくいらしてもらったのに」

 神崎は残念そうな顔をした。

「でも辞令が出るまで時間はあります。十時から尋問開始しましょう。どうしても吐かせないと送致時間が迫ってきてます」

 重伝は椅子に座って腕を組んだ。

「殺されたから確証は掴めないけど、製造課長と音成に何か関係がありそうな気がするわ。明らかにうそ臭いことを並べていたからね」

「我々もそう感じましたよ」

 二人の刑事も同調した。

「でも何故またそんな手の込んだことを考えたのでしょうか。製造課長が直接教会に持ち込めたはずでしょうに。現に会社は被害届を出しているので警察が動くことは承知のはずです」

「直接持ち込めば嫌疑は製造課長にかかる。捜索は会社で行われるし、ばれるのは時間の問題。そこで危険を冒してまでも奪われたとするほうが、会社にも言い訳は立つ。独断で原図を渡したのだから、製造課長は責任をとって職を失う程度で幕引きが出来る」

「さすがエース」

 二人の言葉に重伝は額に皺を寄せた。

「ちょっと、その言い方止めてくれない? あなた方だって時間があれば考えつくと思うわ。時間が無い、と言う焦りがあるから余計に頭が回らないのよ。今日の尋問、アタシにやらせてくれない?」

「何か策がありますか」

 二人は目を輝かせた。

「ちょっとした考えがあるんだ」

「さすがエー……」と言った所で神崎は口を塞いだ。

「打ち合わせ中済まんな」

 会議室のドアがノックされ加藤副署長が入ってくるなり一枚の紙を重伝に見せた。

「重伝警部補、辞令が届きましたよ」

「随分早いじゃない?」

 重伝は渡された辞令書に目を通すと宝来警察捜査一課に出向せよとの命令だった。

「これはどういう事?」

 重伝は加藤の顔を見上げた。

「捜査一課で活躍して欲しい、と本店が判断したんでしょうな。期待してますぞ」

 そう言うとさっさと出ていた。

 神崎と池内は内心喜んだが、かえって重伝はため息をついた。

「重伝刑事、どうされましたか」

「ここに来るのに片道二時間はかかかるのよねえ……」


 午前十時。取調室。

 頭髪を赤く染めている若者と重伝は対峙している。

「今度は女のデカさんかよ」

 若者は不貞不貞しい顔をしている。

「女デカで悪かったね」

 神崎と池内は二人の様子を黙って見つめている。

「カメラ、録音、オーケー? では始める」

 確認が終わり重伝は徐に若者に問いかけた。

「音成兵五、証拠はあがっている。素直に認めないと裁判の時でも心証が悪くなる。窃盗罪では前科もつくしあなたの人生、転落だよ」

「俺はモウなんでも良いだ」

「随分と捨て鉢になってるね」

 頑なに証言を拒む音成兵五だ。しかし次のさりげなく言う重伝の言葉に激しく動揺を示した。

「昨夜八時頃、上原作之助さん、殺されたわね」

「なんだってッ!」

 兵五は突然立ち上がった。

「う……嘘だろッ」

「落ち着けっ」

 神崎と池内は音成の肩に手をかけ強引に座らせた。

 がっくりと座り込んだ兵五は小刻みに震え両手で顔をふさいだ。明らかに狼狽している。

「私は殺人事件が起きた、と言っただけなんだけどなあ、何故そんなに動揺するの。理由を聞かせてもらおうかな」

 優しそうな口調だが重伝は睨みつけている。

「お願いだ、俺がが知っていること全て話すから、外に出さないでくれッ」

 豹変した音成の姿を冷静に見つめ確信していた。

「アンタって不思議ね、務所に行きたいって、ヒト、初めてだよ」

 重伝は目を細めた。

「はっきり言ってご覧」

 堰を切ったように若者が話し出した。

「かっぱらったのは俺だ。俺だよ。図面は天誅教会川崎に届けた」

「誰に渡した?」

「受付に渡しただけだ、指示されたとおりでその先は知らねえ。知らねえ」

「落ち着いて。誰か水を」

「重伝警部補、自白誘導になりますよ」

 神崎の言葉に重伝はカメラを指さした。

「うたったあとだし。兎に角落ち着かせないと」

 そして音成兵五は話し始めた……。



 その夜、天馬と重伝が携帯電話で喋っている。

「その後、どう?」

 重伝の問いかけに天馬は答えた。

「いつも通り仕事をこなしているわ」

「仕事もそうだけど、体調のほう」

「左腕が時たま疼くわね。この前も無いのに左手でコップを掴もうとして、悲しく思ったわ」

「大変だよねえ」

 同情する重伝の声に答えた。

「大分慣れたけどなにせ不自由だからね、みんなに迷惑かけているかも」

「ねえ、楓」と重伝は話題を変えた。

「なに?」

「今度宝来警察に出向したんだけどさあ。自分ちから行くと二時間以上かかるんで、楓の所に居候させてもらえないかなあ」

「ええっ?」

 突然の申し出に天馬は驚いた声を出した。

「なんでまた、宝来警察署に?」

「詳しくはいえないけどさ、宝来警察に出向辞令が出されてね」

 重伝の朗らかな声が響く。

「楓だって一人じゃ心細いでしょ?」

「それはそうだけど……なに、居候って……」

「ここから行くのと、楓んところから行くんじゃ時間が全然違うんだよ」

「向かいのバス停からなら宝来警察まで十分ぐらいだけど……でも、ここ狭いし、ベッドひとつしか無いし。あの時だって散々な目に遭ったんだから……」

 天馬は不服そうな声を出した。

「あの時は完全に酔っ払ってたからね。それは謝る。謝るよ、この通り。炊事洗濯も手伝うよ。寝られればいいんだ。布団だけ持ってくから、お・ね・が・い」

「全く強引ねえ……」


 かくして天馬と重伝の共同生活が始まったのだった。



 管弦瑠那はその日は朝からウキウキしていた。

「随分陽気じゃない」

 横にいる天馬の声に瑠那が答える。

「今夜、爆走天使のライブがオッサンスタジアムでやるんだ」

「爆走天使って今流行のメタルバンド?」

「あら、知ってんじゃん。いまやダウンロード数、一、二を争うスーパーバンド」

 管弦は夢見るような目をしている。

「ようやくネットで手に入れられたんだからサ」

 天馬は何故か渋い顔をしていた。

「あたしも一度聞いたけど『レジに自由のタネをまけ』って歌詞の意味、分からないわ」

 管弦は、ふふん、と答えた。

「お局様には分からなくて結構でございますのよ」

「なに、その言い方っ」

 天馬はむっとしたが、言い争ってまた社長の逆鱗に触れるといけないと思い、それ以上は言い返さなかった。

 退社時間が来ると「おっ先~」と言いながら管弦は事務所を出て行った。

「爆発天使ってそんなに有名なのかい」

「爆発、じゃなくて爆走です、社長」

 天馬は腰を上げながら杉田に笑いかけた。

「ド派手な衣装にステージ上でのパフォーマンスが十代後半から二十代前半の若い子に熱狂的に支持されてますよ」

「ほお、そうなら、わたしも聞いてみたいもんだな」

 和道の言葉に杉田は言い返した。

「俺らおっさんには縁が無い話だぜ。……さあ、閉店時間だ、事務所閉めようとするか。天馬も帰れ。食事の支度があるんだろ」

「大丈夫です」

 天馬はきっぱりと言った。

「居候がおりますので」

「彼氏でも出来たのかな」

 戯けたように和道が小指を立てた。

「女友達ですっ」

 天馬はちょっと憤慨するように席を立った。




 オッサンスタジアム内では舞台の設営が朝早くから始まっていた。

 舞台が次々と組み立てられ、色とりどりに輝く大がかりな照明が調整を兼ねて点滅し、所狭しと並べられた数本の巨大なスピーカーがBGMを試験的に流したり、仕掛け花火の設置など次々と運ばれる資材でさながら戦場のようだ。

 そのざわついた中、昼過ぎに集まった「爆走天使」の十三名がバンド監督と打ち合わせをしている。

「いいな、デューク内藤、お前のシンセが最重要だ。一音とも外すんじゃねえぞ」

 たてがみのような金髪をなびかせている内藤が監督に口答えした。

「もう何百回と演奏してんだ、ミスることねえよ」

 監督は白じんだ。

「そう言う傲慢なところがお前の悪い癖だ。ひとつでも外してみろ、一発で計画が台無しになる、それにキント小菅、ドラゴン空町、お前らのシンセも重要だ」

「チョーオーッケーっす」

 二人は答えた。

「曲順も間違えるな。オープニングは『天使の激走』それと四曲目の『マンゴー大爆発』続けて『ぎゅうぎゅう詰めのバスの中』アンコールの最後は『天使よアタシを連れって』。この流れは絶対だ」

「間違えねえって、くどいぜ監督」

 ベース担当が言う。

「そういったお前らが危なっかしいんだ。ボーカルとMCのエンジェル台田、コーラス四人はいつものように鈴と鐘を打ち鳴らせ。これも重要だからな」

 そこへ舞台監督が近づいてきた。

「セッティングがありますので音出しの準備をお願いしま~す」

 いわれるままドラム、ベース、ギター二本にシンセサイザー三台、ボーカルとコーラス四人が位置についていった。



 そして午後七時。

 三万人を超える男女が見つめる集団の前でいきなり強烈なビート音で始まり前奏が流れた。

 熱狂的なライブの幕開けだ。黄色い声が全体を包み、会場は一体化していった。



 その夜、深夜になっても管弦は帰ってこなかった。

「何処に行ったんだ」

 和道の言葉に杉田が反応した。

「とても遊び歩いているとは思えんな。何かあったのか。もし今夜帰ってこないなら、あした捜索願をだすかな」

 杉田の言葉に和道が尋ねる。

「管弦のご両親はなんと?」

 杉田は諦めるかのように両手を広げた。

「縁を切った娘だから勝手にしてくれ、とさ」

「随分と薄情な親だな」

「人を殺しかけた娘だからな、縁を切られても仕方ない。自業自得ってヤツだな」

「しかし当社で引き取ったんだよ」

「それには感謝しているようだがね」

 和道はあくびをした。

「二人で待ってても仕方ない。和道君、俺が待っているから先に寝てくれ」

「そうかね、では先に失礼するよ」



 午前七時。

 集合時間でも管弦はいなかった。

 指示を出し終わった杉田は捜索願を提出すべく宝来警察に向かい、その足で受付に加藤副署長に面会の申し出た。

「もうすぐ来ますのであちらの席でお待ちください」

 面会場所のソファに座っているところに加藤が顔を出した。

「久しぶりだな、杉田君」

 杉田に笑いかける加藤は向かいのソファに座った。

 前屈みになり両手を組みながら杉田は言った。

「実は社員一人が行方不明になってね。困ってるんだ」

 加藤はソファの背もたれに身体を預けた。

「捜索願か。ほう、それはそれは……しかし実に奇妙だ」

「奇妙?」

 杉田は何のことか分からず問いただすと加藤は身を乗り出し声を潜めた。

「これは内緒だがな、昨晩から捜索願がいくつか出ている。それも不可解なのは全員とあるライブ会場に足を運んだ若い男女だ」

「ライブとは爆走天使かい?」

「おお、よく分かるな。じゃあ、君んとこもそのくちかね」

「そうだ」

「じきに全署員に手配書が回るんでな、ところで……」

 加藤は拝むように両手を組みながら話し始めた。

「楓は元気にやっとるかね」

 杉田は鞄から一枚のチラシを取り出した。

「そう思ってチラシを持ってきた。非常によくやっているよ。現場に出られないから企画に力を入れてる。このチラシどう思う?」

 モノクロだが何でも屋スケロク商事の作業内容が書かれたチラシだ。チラシの上部に書いてあるポップを加藤は見つめた。

「心に寄り添うスケロク商事……お電話一本即訪問……上手いこと言うな」

「そのフレーズ、天馬が考えた」

「楓が? イヤイヤさすが、わしの姪っ子だ」

 加藤は手放しで喜んだ。

「その下を見て欲しい」

「割引券つきか?」

「仕事内容によってクーポン券をつけた。これも天馬のアイデアだ」

 加藤は満足そうな面持ちをした。

「子供が居ないわしら夫婦にとって楓は娘のような存在だよ。実に素晴らしい」

 杉田は誇らしげだ。

「天馬は優秀な社員だ。みんなからの受けも良い」

 しかし、チラシを返しながら加藤は思いがけないことを話し出した。

「杉田社長には悪いがな、近々そちらから退社させたい」

 思いがけない加藤の言葉に杉田の顔が曇った。

「防衛省では人材を集めている」

 杉田はソファに背中を預けた。

「少子化だし、最近は人材募集のコマーシャルを流しているじゃないか。秘密でも何でも無いだろう」

 杉田の言葉に加藤は反対するように言った。

「イヤそれもそうだが誰でも良いと言うことでは無い。特別任務要員の用件として自衛官、消防関係、警察関係者など秘密を守れる人間を集めようとしているんだな」

「それが天馬と何か関係が? 特別任務と言ったってあの身体では無理だろう。それに我が社としては優秀な人材を手放したくない」

 思いがけない方向に発展しそうな雰囲気に杉田は少し慌てた。

「我が社の安月給では将来が不安、とでも? 確かに充分な給料ではない事は認める。しかし今後もっと事業を拡大する自信がある。少し待って欲しい」

 しかし加藤は言葉を濁すかのように言った。

「ただ、防衛省の特別任務の募集要項には一つ引っかかることがあってな。イマイチ楓を推薦するにも気が引ける部分があるのだよ」

 加藤の話し方は奥歯にものが挟まったような口ぶりだ。

「それは?」

「うむ……」

 加藤が話しかけた時、警官が二人の元に寄ってきた。

「副署長、お話し中申し訳ありません」

「緊急事案か? 杉田君ちょっと悪いが中座する。直ぐに戻るよ」

 腰を浮かしかけた加藤に杉田は言う。

「いや、加藤副署長、お話しの続きはまたの機会にでも。捜索願の件、何卒宜しくお願いします」

 杉田は直角に頭を下げ席を立った。

 後ろ姿を見送った加藤は次に警察官の顔を見た。

「で、用件はなんだ」

 警察官が耳打ちするように話した。

「今朝までに当所轄以外に千葉、埼玉から捜索願が提出されています。提出書類ですと昨夜のライブ会場周辺が多数。これは事件では……」

 加藤は渋い顔をした。

「被害届が出されれば動かないわけにはいかんが、事件性は今のところ無いのだろ? 単なる偶然じゃないか。署長には一報を入れとく。君たち生活安全課でまとめて報告してくれ」

「はっ」


 戻った杉田は古ぼけた社長専用革張り椅子にどっかりと腰をかけた。革張りと言っても劣化は激しい。

「受理されたかな、社長」

「当然さ」

 後ろ姿の天馬は振り向いた。

「管弦さん、どうしたのでしょう。何か犯罪に巻き込まれてしまったのでしょうか、心配です」

「何処かの酒場で飲んだくれてた、というなら未成年者でも目を瞑るがね、社長」

「知らせを待つしか無い。そうだ和道君、爆風天使を調べてくれないか」

「爆風じゃなくて爆走です」

 天馬は口を尖らす。

「いかんなあ歳とると」

 杉田は頭を掻いた。

「瑠那の失踪と何か関係が無いかと思ってね、調べておいたよ。公式ホームページによると総勢十三人の大きな楽曲集団だ。全員年齢非公開。おどろしげなメイクと派手な衣装、メインはボーカルのエンジェル台田。迫力ある声量と突き抜ける高音の持ち主らしいよ。シンセサイザー三台を駆使してドラムにベース、ギター二本、コーラスという編成だ。ネットでサンプル曲があるぞ、社長」

「サンプル? どうせ短いんだろう」

「ところがサンプルといっても四分近くあるのだよ」

 杉田は目を丸くした。

「そんな長いのをサンプルって言うのか?」

「このバンド、一曲一曲が並外れて長いんだ。一曲あたり約十二分は当たり前だね」

 天馬が口を挟んだ。

「歌、と言うより壮大なストーリーを歌い上げているんですよ。特にボーカルは声量もさることながら舞台を動き回ってですから、体力なんかなど人並み以上ないと勤まりません」

 そう話しているうちに昼休みになった。

「天馬、留守電にしろ。昼休みでも電話が鳴ったらゆっくり出来ないからな」

 和道は事務所に置いてある古びた小型オーディオにサンプル曲の入ったカードを差し込み電源を入れた。

 突然ドラムと強烈なギター音が事務所中響いた。

「前奏も長いな」

「いきなり歌うのではなく気分を盛り上げるため、と言うことのようですよ」と天馬。

 聴いていた杉田は首を捻った。

「何だこの歌詞は。『流した涙は アマゾンの とってもマンゴーマンゴー』って意味不明だぞ」

「私も思うね、社長」

 和道も同調した。

 黒川は無言で聞き入っていたが、ややあって突然両耳をふさいだ。

「どうした、黒川。和道、音量を下げろ」

 黒川の異変を感じた杉田は命令口調で言った。

 杉田の指示で和道は音量を下げたが、黒川は塞いでいた両手を離しながら謎めいた言葉を吐き出した。

「いや、音量ではないのです」

「音量ではない?」

 不思議に思った杉田は黒川に訊いた。

「何か締め付けられるような……頭痛を呼ぶような……ちょっと水、呑んできます」

 黒川はグローリーを従え事務所から突き当たりのキッチンへ向かった。

「黒川君は何か感じたんだ?」

「あたしには分かりませんけれど」

「私もだ」

 天馬の声に和道も同調した。

「この歌詞に何かあるのだろうか……」

 杉田は独り言のように呟いた。


 閉店後の午後六時、杉田の自室にて。

 杉田は爆走天使のアルバム全十二曲をネットで買い求めた。

『この歌詞に瑠那の失踪と関係があるんじゃないか……』

 杉田は聞き耳を立て繰り返し聞きながら全楽曲の歌詞を書き写す作業に没頭していた、その最中に玄関ドアの鍵が開かれた。

 入ってきたのは地家優子だった。

「お帰り、遅かったなあ」

 玄関先で靴を脱ぎながら寺家は答えた。

「本間医院でちょっとした外科手術をしたからね」

「そうかい、風呂沸いてるよ」

「そんな気遣いする、こうちゃん好きよ。……でもこの散らばっている紙は?」

「瑠那の失踪と何か関係があるんじゃないかと思って、爆走天使の歌詞を書き写していたんだ」

「瑠那ちゃんの失踪に心配するのは分かるけど、随分と暇ね。で、何か分かったの?」

 杉田は両手を広げた。

「まるっきり分からん。『悪魔と天使 あいまみれ 万里の長城 駆け巡り……』これを歌詞っていうかよ。全く出鱈目としか言いようが無いぞ」

 あまりの無意味な歌詞に憤るように寺家に愚痴った。

「でもこれって今風で特に若い子に人気なんですってよ。あたしもそうだけど、こうちゃんも年寄りの域に入ったんじゃない?」

 杉田はちょっとむっとした表情をした。

「何だよ所の言い方。さっさと風呂に入れよ」

 寺家は上着を脱ぎ下着姿になった。

「一緒に入ろう」

 寺家の言葉に思わず杉田の顔が綻んだ。

「風呂場、狭いんだけどなあ」



 翌日、野来下雫に見積書の提出のために連絡を取り在宅を確かめたあと、杉田は港南区本郷台の野来下雫のマンションに向かっていた。

「八号棟六階、ってどれだよ?」

 同じような形の大規模なマンションが建ち並び目が回りそうだ。

 至る所に駐車禁止のマークがベタベタと張られ、スケロク一号車のライトバンを止めるにも苦労した。やっとマンション群の一角に有料駐車場を見つけ降り立ち、住居表示板を頼りに彷徨い続け、ようやくお目当てのマンションにたどり着いた。

「ここの住人は部屋、間違えることはないのか?」

 杉田は汗を拭いた。背中がじっとりと汗ばんできた。

 エレベータに乗り込み野来下がいる六○七号室に向かった。

「ここか……」

 表札には『野来下』と書かれているのでここで間違いない。杉田はインターホンを押した。しかし出てくる気配が感じられない。

 杉田は再度ボタンを押すがやはり反応がない。

「いるはずだが……」

 ドアノブを回すと鍵はかかっていないようで簡単にドアが開いた。

「ご免ください。野来下さん、杉田です」

 呼びかけても返事がない。

 ドアの先は通路になっていて突き当たりのガラス扉がリビングのようだ。

「野来下さん、いらっしゃますかー。お邪魔しますよー」

 胸騒ぎを感じた杉田は靴を脱ぎリビングに向かった。リビングのドアを開けると……。

「野来下さんっ!」

 仰向けになって倒れている野来下雫を発見したのだ。

「大丈夫ですかっ!」

 慌てて杉田は雫を抱きかかえた。

 雫の額には殴られたかのようにうっ血した瘤と首筋には締められた手形がうっすらと残っている。

「う……」

 野来下は呻いた。

「よかった、生きてる……」

 杉田はホッとした。

「野来下さん、杉田ですッ。分かりますか?」

 杉田の問いかけに野来下は目を開いた。しかし焦点が合わないような目だ。息を吸い込んだ野来下はゲホゲホと咳き込んだ。

「大丈夫ですかっ」

 ようやく野来下は杉田の存在に気がついた。

「ああ……杉田さん?」

 呟くように言うと再度咳き込んだ。

「水、持ってきます」

 キッチンに立ち手頃なコップを見つけると、蛇口から水を注ぎ込み野来下に渡した。

「落ち着きましたか? いま救急車を呼びますのでじっとしておいてください」

「大丈夫です、心配なさらないで……」

 雫の掠れた声に杉田は怒った。

「大丈夫じゃない! 頭の瘤からすると頭をを打っている可能性がある。誰にやられたんですか、犯人を見ましたか」

 しかし雫は抵抗するように言った。

「良いんですどうか内緒にしてください」

「よかあ無いですよ。どう見たって襲われたように見えます。誰がこんな酷い目に」

 押し問答が繰り返され、携帯端末を操作しようとした杉田の腕に野来下は縋り付くように纏わり付いた。

「どうか警察に連絡取らないでください……」

 野来下雫は潤んだ目で杉田を見つめた。

 愁いを含んだその目に杉田はドキッとした。

「……何故そんなに拒むんです?」

 詰問するような強い調子の杉田の声に野来下は意外なことを口走った。

「兄が……帰ってきたのです」

「何だって?」

 雫は項垂れた。

「でも兄は私を見るなり『金を出せ』と。出せないというといきなり殴りかかり私の首を締めました」

「それで気を失った……」

 雫は言葉を繋げた。

「兄は以前の優しかった兄ではありませんでした。『大僧正様に捧げる浄財だ金を出せ』と。……そのあとの記憶がありません」

 杉田はリビングから次に繋がっている和室の扉を開いた。茂は相当現金を探していたようだ。かなり取り散らかっている。

 引出を見た雫が呟く。

「生活費が無くなってる……」

 杉田は諭した。

「いくら身内の出来事と言ってもこれは犯罪だ。やはり警察に連絡を取りましょう」

 携帯を取り出そうとする杉田の腕に雫は縋り付いた。

「兄にはやむにやまれぬ事情があるのです」

 杉田は腕を振りほどいた。

「そうまでして庇う雫さんの気持ちが分からない。茂さんを怖く思いませんか」

「兄を怖いと思うより兄をそうさせた天誅教がコワい」

 すっかり落ち着きを取り戻したかのような雫はリビングの椅子に腰をかけさらに杉田に懇願した。

「どうか兄を救い出してください……」

 杉田は押し黙ったが、ややあって携帯を操作した。

「ああ、杉田だ。ドクターいるか……的場、帰社したか? そうか、ドクターと的場の二人、呼んでくれ。頼みがある」


 西日が照らす三時間後。

「これでよし、と」

 寺家が野来下の手当てをしている間、腰袋をまとった的場は玄関のドアノブを交換し終わって立ち上がった。

 雫は杉田の言動に不思議に思っていた。

「どうして鍵の交換を?」

 杉田は確信を持っていた。

「お兄さんは再びここに来ます。さらに金品を要求するでしょう。そうなると間違いなくあなたの命が危ない。鍵を換えてもここにいるのは危険だ。ホテルを予約しますので数日身を隠してください」

 雫は驚いた顔をした。

「そんなお金、ありません……」

 にっこりと笑った杉田は胸を叩いた。

「心配ご無用。これは弊社からのプレゼントです」

 的場は部屋に入りリビングのガラス戸を見た。高層階と言うこともあり、見晴らしがよい。

「親分、わっちなら屋上から忍び込みますぜ」

「ここは六階だぞ」と驚く杉田。

「ここのマンションは出入りが自由なんで屋上にロープを張ってリビングから忍び込むんでがす」

「そんな危険を冒してまでするのですか? いくら何でも兄はそうはしないと思います」

 雫の言葉に的場はにこりとした。

「泥棒は狙った獲物は逃しやしませんで」

 さらに的場は続ける。

「補助錠の他にガラスを割られにくいように透明シートを貼りまっせ。泥棒は時間がかかるのを嫌うんでがんす」

 そう言いながら的場は腰袋に手を突っ込み、手際よく防犯対策を施していった。

 その姿に雫は感激した。

「そんな事まで考えてくださるなんて、やはりスケロク商事さんに頼んでよかったわ」

 杉田は得意げに言った。

「彼は防犯課のプロです」

「それに治療までして頂けるなんて」

「彼女は医療課のベテラン医師です」

 雫は両手を合わせ感激した面持ちだ。

「あのようなビルでは想像がつきませんでしたが、凄い組織力。頼りがいがありますわ」

『防犯課とか医療課とか……よくそんな出鱈目を』

 そう呟きながら寺家は杉田を見ると、目線に気がついた杉田は振り向きながら舌を出した。


 一通りの作業を見ていた杉田は次の部屋を見た。

「こちらは?」

「兄の部屋です」

「入ってもいいですか」

「どうぞ」

「失礼」

 杉田は扉を開けた。

「なんだここは……」

 ベッドが設え反対側のチェストの上にはオーディオがならんでいる簡素な室内だが、飛び込んできた部屋の光景は異様だった。

 壁という壁に爆風天使の面々が映っている巨大なポスターが隙間無く貼られ、天井にもびっしりと広がっていたのだ。

「親分、こっちも防犯対策が必要でっせ」

 的場はそう言いながら手際よく施行していったのだった。


 日がとっぷりと暮れた午後七時。

 杉田達は野来下雫を連れて事務所に戻ってきた。

「和道君、ホテルの手配はついたか?」

「ああ、馬車道通りのホテル、予約できたよ」

 和道は渋い顔をして答えたが杉田は意に介さず雫に話した。

「野来下さん少しの間、ホテル住まいをしてください。ドクター、すまないがホテルまでつれてってやってくれ」

「了解」

 場所を聞いた寺家は野来下を促し事務所を後にした。

 出て行くなり和道は杉田に噛みついた。

「ホテル代当社負担って、何を考えているんだね、社長。かかる経費はどうするつもりだ、野来下さんに請求出来ないのかね」

 思わず杉田はヘラヘラと笑った。

「分かっちゃいるんだけどねえ、成り行き上そうなった」

 杉田の態度に和道は腹を立てた。

「成り行きったって……直美の隣の部屋空いているんだ。それをホテルなんて。このままだと持ち出しで大損だよ。我が社は慈善事業を行っているのではないのだよ、社長」

 和道の強い口調に杉田は答える。

「我が社の経営を考えてくれていることは充分に分かっている」

 意地悪そうに和道は言った。

「それとも何かね、野来下雫に情が湧いたとでも言うのかね」

 痛いところを突かれたのか杉田は顔を顰めた。

「情が湧くなんて冗談はよしてくれよ」

 杉田は草臥れた革張りの椅子に腰を落とす。

「帰り道、野来下雫と話し合ったんだが、茂は天誅教に操られている」

 杉田の断定した口調に和道は呆れた顔をした。

「やれやれ、いつもの通りの口調だな。操られているとはどういう意味かね」

 杉田は両手を挙げた。

「今日の茂の犯行さ。何かヒントでもと思って、大枚叩いて爆走天使のアルバムをダウンロードして何十回と聞いて、歌詞も書き写してみたんだが、さっぱり分からん」

 和道は驚いた顔をした。

「アルバムだって? いくらかかるのか分かっているんだろうな、社長」

 杉田はウィンクした。

「心配するな、和道君。全て私のポケットマネーだ。会社の金には手をつけてないぜ」

 和道は安堵した。「なら良いがね」

 杉田は左手を顎に乗せながら和道に言う。

「茂の行動からすると、瑠那も帰ってくるな。もし操れられたままだとすれば、茂と同じような行動を起こすだろう」

「待て待て社長、意味が全くわらんぞ」

 そこで杉田が気がついた。

「そうだったな、野来下邸の騒ぎを話してなかったな」そう言いながら杉田は和道に今までの経緯を話し始めた。

「そんな事があったのかね」

「そうさ」

「では、瑠那も金を要求するとか、だね」

 杉田は顎をしゃくり金庫を示した。

「瑠那は金庫の暗証番号は知っている」

「となると今日にも忍び込んでくるかな」

 和道は眉間に皺を寄せる。

「分からんよ。戸締まりは充分にしよう……と言っても我が社は隙間だらけだからなあ」

 そう言いながら杉田は笑ったが和道は真剣だ。

「笑い事じゃないぞ、社長。百万は入っているんだ」

 冗談が通じないと思った杉田はため息をついた。

「茂は操られていると何故そう思ったのだね?」

 杉田は考えながら和道に話し始めた。

「いわゆる催眠術とか何かで操られているんじゃないかと。……まあ、これは私の想像だがね」

 和道はキーボードを叩き出した。

「確かに催眠術というのは心理病理学でも採用されている術式のようだ。だが十分程度で解かれるようだな」

 杉田は机に肘をつく。

「と言うことは……茂は催眠術がかかっているというわけではない、か……」

「そうだな」

 いきなりドアが開き、二人は飛び上がった。

「ただいま~……あれ、どうしたの二人とも固まっちゃって?」

 地家が事務所に戻ってきたのを管弦が入ってきた、と錯覚した二人だった。

「あー吃驚した」

「何よ二人とも。帰ってきちゃいけないの?」

 二人の態度に寺家は不満そうな顔つきをした。

「いや、ちょっとな。ドクター、悪いがドアの鍵しっかり閉めてくれ」

「何なのよ、二人とも」

 寺家は憮然とした調子だ。

「ドクターの意見も聞かなければならないな。車内で話したことどう思うか?」

「そうよねえ、茂さんが突然帰ってきたというのは不自然よねえ」

「医師の立場としてはどう思うかな」

 和道の疑問に対し寺家は『降参』と言いたげに両手を広げた。

「医者と言っても外科医だし……心理学は分からないわ」

 和道は渋い顔をした。

「何か分かる方法はないかね。今晩襲ってきたらどうしようもないぞ」

 杉田は柱時計を見た。

「もうすぐ午後十時になる。……いくら事務所の出入り口を頑丈にしても、いざとなればガラス戸を破って侵入してくるだろうぜ」

「そんな怖いこと言わないでよ」

 寺家は身震いをした。

 突如、杉田は言い放った。

「金庫の百万はそのままにしておく」

 和道は目を丸くした。

「何故だね、社長」

 杉田は腕を組んだ。

「下手に逆らうよりそうした方が安全だ。瑠那はナイフの使い手。いくらケンジでも素手では太刀打ちでき無い。逆に素直に渡した方が、警察に被害届を出せる」

「ええ?」

 寺家は飛び上がった。

「そんな……あんなにここで貢献している瑠那ちゃんを犯罪者にするわけ? そんな非情な社長なの?」

 気色ばむ寺家に杉田は宥めた。

「俺をそんな極悪非道な人間だと思っているのかよ? 俺だってそんな事はしたくないさ。みんな可愛い仲間なんだ」

「皆にも知らせた方が良いんじゃ無い?」

 寺家の申し出に杉田は一斉放送をかけ全員を事務所に呼びつけた。

「明日、本間先生に連絡を取ってくれないか?」

「本間先生だって心理学者じゃないわよ」

 杉田の問いかけに口を突き出した寺家だった。

「わかってるさ。ただ内科全般を手広く見ている先生だ。意見を聞きたい」

 その間に天馬以外全員が事務所に集合してきた。

「いきなりの呼び出しってなんなんですか」

 肩に権太を乗せた蔵前は一寸不満そうだった。

「せっかく寛いでいたのに……」

「悪かったな、みんな。重要な話なんだ。聞いてくれ」

 杉田は言い含めるように全員に話した。

「そんな事、あったのぉ? でもそうなら瑠那ちゃん可哀想よぉ」

 同情するかのような御手洗の言葉が全員の意見を表していた。

「でもさあ、茂さんがそうならさあ、瑠那ちゃんだって被害者じゃん」

 願成寺はお酒で真っ赤な顔をしていた。

「んだな」

 銀次も酔っ払っているようだ。

「ボス、どうすりゃ良いんだ」

 ケンジは困った顔をした。


 結局夜が明けても管弦は姿を現さなかった。全員に仕事の割り振りが終わったあと、天馬にも昨日の顛末を話したが、天馬も困った顔をするだけだった。


 さらに二日後の定休日。

 杉田は朝から事務所の古びた革張りの椅子に腰をかけたまま管弦のことばかり考えていた。椅子はギシギシと悲鳴を上げる……。

『瑠那……何処でどうしているんだ……』

 午前十時、杉田の携帯が鳴った。見ると加藤からだ。

「杉田社長かね、加藤だ。吉報だ。アンタんとこの、管弦瑠那がめっかった。事情聴取後そっちに届けるぞ」

 予期しない加藤の言葉に色めき立った。

「見つかったって?」

「事故や事件、それに捜索願が多くてな、我が署はてんてこ舞いだよ。早いところ済ませんとなあ」

 冗談めかしたような加藤の語りに杉田は瑠那の行方が分かり安堵した。

『しかし……』

 暫く杉田は考え込んだ。

『瑠那はまともなのか?』

 意を決した杉田は内線をかけ全員を事務所に集め、天馬にも来るように連絡を取った。天馬は重伝が手配したタクシーに乗って予想よりも早く到着した。

 杉田は全員を見回した。

「瑠那が見つかったと警察から連絡が入った」

へええ……と部屋中歓喜が谺した。

「だが素直に喜べないんだ」

「なんでよぉ」

「人格が戻ったのか分からない……」

 あらましを話し終わったあとタイミングよくドアが叩かれ、警官が二人入ってきた。

「管弦瑠那さんお連れしました」

 そして後ろから管弦が顔を出した。

「瑠那さんっ?」

 素っ頓狂な声を天馬はあげた。

「間違いなく管弦瑠那は当社の社員です」

 杉田が言うと警官の一人が話した。

「早朝、川崎駅付近で歩いているところ、警戒中の川崎東署の職員が発見しました。異常が無いのでお連れしました」

「ありがとうございます」と杉田は礼を述べた。

「ではこれで」

 引き渡しが終わると敬礼した警官は出ていった。

「瑠那、無事でよかった」と和道は安堵した。

「そうです心配したんだよ」と願成寺。

「ご心配かけて申し訳ありません」

 管弦は頭を垂れた。

「この数日何処でどうしていたんだ?」

 管弦は伏し目がちに言った。

「記憶が無いんです……」

「オッサンスタジアムで爆走天使のライブに行ったんじゃ無いのかね」

 和道の問いかけに管弦は首をゆっくりと振った。

「確かにライブ会場に行ったことは記憶にありますが……そのさきが分かりません」

「どこにいたのか分からなかった?」と杉田。

「そうです」

「いまも警察官の話だと川崎駅で歩いていたと言うが?」

「……全く記憶がありません……」

 目線を落としている管弦の顔を杉田は覗き込むように腰を折った。が、管弦は意に介さないように俯いたままだ。

 やり取りを聞いていた盲目の黒川には気がついた事があった。

『雰囲気が違う……』

 ひとしきりの会話のあと杉田はねぎらうように言う。

「今日は定休日だ、自室で休んでくれ。明日からまた忙しくなるぞ。疲れているなら二日休暇を与えるが、どうだ?」

「大丈夫です」

 管弦は俯いたまま答えた。

「失礼します」

 そう言うと管弦は自室に戻っていった。

「瑠那に違いないがな」

 杉田は自室に戻る管弦の後ろ姿を目で追っていった。

 黒川が言う。

「いままでの瑠那さんの言い方が違います」

「顔色が悪いような気がしますね」

 同調するように蔵前が言う。

「なんとなく様子が普段と違うねえ」と願成寺。

 杉田はざわめく社員を制しながら落ち着かせようと両手を広げた。

「いま見たようにみんなの知っている瑠那ではない」

「どーゆー事ぉ――?」

 素っ頓狂の言い方の御手洗だ。

 杉田は見回した。

「瑠那は誰かに操られている」

「またあ……社長っていつも突飛なことを言い出すんだから」

 信じられないと言いたげな蔵前の表情だ。

「なんでなんで?」

 願成寺はせがむように言い出した。

「誰かに操られているってなんなのよ。訳、分んな~い」

 黒川は正面を向きながら証言する。

「いつもの瑠那さんだったら『帰ってきてやったゼ』みたいな言い方をするはずですがそれはない」

「そりゃ疲れていたからじゃない?」

 蔵前の言葉に天馬続ける。

「遊び疲れたようには見えません。伏し目がちなのも気になります。コンサートに行ったのは覚えていてもそれ以降の記憶が無い、と言うのも不自然です……」

「ボスが操られていると思ったのは?」

 祖父江の問いかけに杉田は腕を組んだ。

「瑠那を覗き込んだが、意識していない。明らかに様子が違う。瑠那の心を操っている何かがあるんだと思う。それを消さない限りいつもの瑠那にはならない」

 杉田の言葉に全員に緊張感が走った。さらに杉田は確信したように言い放った。

「今夜瑠那は事務所の金庫に手をかける」

 一同は皆、吃驚顔だ。

「金庫の金に手を出すって盗むってぇんですかい」

 杉田は的場の言葉を否定しなかった。

「そうだ。金を手にしたら茂のように逃げだし大僧正とやらに渡すだろう。俺は瑠那を犯罪者にするつもりは無い。そこで一計を案じる。いいか、みんな、耳を貸せ」



 午前一時。

 管弦は目を開けた。そして瑠那はベッドから身を起こし静かにドアを開けた。

 廊下を見回し人がいないことを確認しながら諭されないようにゆっくりと自室を出ると、音を立てないように階段を慎重に降りていく。

 古びた木造の階段は管弦が歩を進めるに従い、ギシギシと微かな音を立てるがゆっくりと降りていった……。

 一階の事務所はうっすらと街灯の光が差し込み、社内の防犯用常夜灯が薄暗く光るだけで誰もいない。

 管弦は金庫の前に立った。

 手慣れた手つきでダイヤルを回すと金庫の扉が開いた。

 暗い金庫の中に朧気ながら札束が見える。管弦は無表情でそれを見た。

 瑠那は札束に手を出したその時――!

「やめろッ」

 突然杉田の声が響き、天井の照明が一気に点灯した。闇の慣れていた目に光りが突き刺す。

 振り返ると瑠那の背後には杉田とケンジが立ってた。

「やっぱりな」

 観念したのか、ゆっくりと立ち上がり虚ろな目つきで二人を見た。シュッと言う音と共に右手に小型のナイフが光った。

「捨てろ、瑠那」

 ケンジは諭すように言った。しかし無言で身構えた。

「瑠那、お前とは争いたくねえ」

 計画通り男連中がやってきた。二階からも女どもが降りてきた。

「瑠那、止めて」

 蔵前が声をあげると管弦は喚いた。

「五月蠅いッ、金を出せッ」

「金を出せって尋常じゃあないぜえ」と的場。

 杉田の打ち合わせ通り全員がゆっくりと管弦を囲んだ。

 伊東が気がつかれないように瑠那の背後に回り、防犯用に用意してある刺股にゆっくりと手を伸ばした。

「持ち逃げしてどうするつもりだい」

 背後に回っていた銀次を確認しながら杉田は問いかけた。

「大僧正様のお布施だよッ」

「大僧正って誰?」

 願成寺が問いかけた。

「五月蠅いッ」

 狂気を孕んだ目で管弦は叫ぶ。

 杉田は和道を見た。

「完全に操られているな」

「ああ……」

 和道は杉田に呟いた。

「出せって言ってるんだッ」

 管弦は興奮した口調だ。

 祖父江は管弦に躙り寄った。

「瑠那、目を覚ませッ」

 狂気の世界に入り込んでいる管弦はナイフを振り上げた。

 その瞬間、銀次の突き出した刺股が管弦の腰に突き刺さった。

 背後から不意を突かれた管弦はのけぞり、右手からナイフが離れ同時に素早く飛び込んだ祖父江の右フックが管弦の鳩尾に命中した。

「ご免な」

 崩れ落ちようとした瑠那の身体をケンジはしっかりと抱き込んだ。

「ケンジ、来客用ソファに寝かせろ。直美、他にナイフを持ってないか瑠那の身体、調べてくれ」

 左の袖口から隠しナイフと左右の太腿と両足首から小型ナイフ合計五本が出てきた。

 御手洗はナイフを見て恐れた。

「危ないわよぉねぇ……いくらなんでも、持ち過ぎよぉ」

「よぉしここまでは計画通りだ。さて、次はどうしよう」

 杉田は腕を組んだ。

「待って、耕一……じゃない、社長、いま眠剤注射するから」

 慌てるように寺家は階段を上っていった。あっけにとられたように皆は地家の後ろ姿を見つめる。

「さすがドクター、ボスを呼び捨てにするなんて」

「社長と何か関係があるわけぇ?」

 ケンジと雄馬の声に杉田は慌てて否定した。

「ないない」

「でもさあ、と~っても自然だわよぉ」

 御手洗は意地悪そうな目つきで杉田を見た。

「なんだなんだ、その疑わしそうな目つきは……止めろよな」

 鞄を持って階段を降りてきた寺家が注射器と睡眠薬の入った瓶を取り出し、慣れた手つきで管弦の右腕の血管を探り当て針を刺した。

「これで昼まではぐっすりよ」

 寺家の言葉にようやく社員全員が安堵した。

「やっぱり瑠那は暗示をかけられている。ドクター、本間先生はなんと言っているかな」

 杉田の問いかけに寺家は、さあ、と言う顔をした。

「ドクター本間は診てみないと分からないと言うことですし、それなりに手配をしているようですけど」

 杉田は時計を見た。

「午前二時だ。俺はこのまま瑠那の様子を見とく」

 大欠伸をしながら各々自室に戻っていった。

 かくして事務所には杉田と寺家が残った。二人はヒソヒソと話しだした。

「こうちゃんご免」

 寺家は頭を下げた。

「いきなりだからこっちも吃驚だよ」

「慌てちゃってさあ、あたし達の関係ばれたかなあ」

 寺家は杉田にすり寄った。

「今日はよそうぜ、誰が見てるかもしれないしな」

 不満そうな顔をした地家だったが鞄を持つと素直に自室に戻っていった。

 杉田の勘は鋭い。御手洗が給湯室で息を潜めていたからだ。

『ラブロマンス、見られなかったわねぇ……』


 午前六時、寺家が所有している端末が鳴り響いた。

「もしもし……」

 寝ぼけ眼の寺家だったが相手は本間だった。

「開院前なら話が出来るぞ、どうかね?」

「分かりました……」

 翌朝、寺家と祖父江が管弦をスケロク号に乗せた。行き先は金沢区の本間医院だ。

「目を覚まさないようだが大丈夫か」

 道中、助手席の祖父江が後部座席で横たわっている管弦を見つめた。

「大丈夫、任せなさい。もし目を覚まして暴れたらお願いね」

 地家は自信たっぷりに話す。

「とは言われてもな、瑠那を殴る事なんてできゃしねえ。昨晩だってなかったんだ……」

 祖父江はぶつぶつと呟いた。

 午前八時前、ケンジの心配を他所に何事もなく本間医院に到着した。開院前のこともあって出迎えたのは本間だけである。

「本間先生、おはようございます」

「挨拶はあとだ、ストレッチャー用意した。院内に運び込め」

 素っ気ない本間の言葉に祖父江が管弦を抱きかかえストレッチャーに乗せた。口を微かに開けて眠っている管弦にケンジは見つめた。

『瑠那……』

 殺伐とした人生を送ってきたケンジに何故か愛おしさが募ってきた。

「そこのベッドに乗せてくれ。……さて、簡易脳波を図る」

 個室に移された管弦を見ながら本間の言い方にちょっと驚いた顔をした。

「そんな設備があるのですか。知りませんでしたわ」

 本間はニッと笑った。

「以前、てんかんを起こした患者が来たことがあってな。その時設備を増強したんだ」

「さすが本間ドクター、脳神経まで精通しているんですね」

 寺家は感激したようだが本間は首を振る。

「そこまでは分からん。外部に委託している」

「おはようございます」

 挨拶をしながら中年女性が入室してきた。

「グッドタイミングだ。紹介しよう、私の同期生で脳神経深層心理内科のドクター田代だ。こちらは外科医のドクター地家と付き添いの祖父江さんだ」

「宜しくお願いします」

 二人は頭を下げた。

「休暇中済まんな」と本間。

「本間先生の頼みならいつでもはせ参じますわ。この女性ですね」

 田代は寝ている管弦を認めた。

「では本間先生早速始めます」

 田代は手際よく脳波測定器具が設えたヘルメットを管弦の頭に被せた。

「寝てんだが?」

 祖父江に対し忙しく立ち回る田代は明快に答えた。

「脳波を図るには寝ている方がよいのですよ」

 そう言いながら計器類に次々と電源を入れていく田代。

「測定器チェック……正常……電脳サーバー、スイッチオン……測定開始」

 従業員控え室から声が響き騒がしくなってきた。看護士達が開院に合わせ出勤してきたようだ。

 本間は時計を見ると席を立った。

「開院時間が迫ってきた。あとは頼む」

 田代が言う。

「結果判定には二、三時間かかりますので、お二方お気楽にどうぞ」

「お手伝いすることあります?」と寺家。

 田代ははにかむように笑った。

「世界的に活躍しているドクターに手伝わせるなんて、おこがましいことです」

「そんな事……裁判沙汰でガタガタですよ」

「何をおっしゃいます、地家先生。外科学界では憧れの一人だと聞いております」


 一時間……二時間……管弦は眠っていた。

 しかし脳波ははっきりとした波形をモニターに吐き出している。田代はオシログラフを見つめ呟く。

「シータ波が異常だわ……」

「異常って?」

 寺家の問いかけに田代は髪を掻き上げた。

「うーん……いまでは経験したことのない値だわ」

「どういう意味ですか、先生」

 祖父江も意気込んだ。

「シータ波は微睡みを表します。あえて言うなら管弦さんは半覚醒状態に陥っています。原因は今のところ分かりません」

 祖父江は疑問を口にした。

「半覚醒ってのが分からんが、瑠那は俺たちに襲いかかってきたんだ」

 田代は考え込んだ。

「だとすればこれは催眠作用。それも強力な催眠活動でしょう」

「でも田代ドクター、行方不明から数日経ってます。催眠ってそんなに長く続くのでしょうか?」

 田所は唸った。

「未だ解けていないとなると……無意識界の強制催眠、と言うこともあります」

「瑠那は戻らないのか?」

 祖父江の顔が引きつった。

「先生、お願いです、何とかしてください。このままじゃ納得できないっ」

 祖父江は喚いた。

「ケンジさん、落ち着いて」

 地家は優しく祖父江の肩を抱いた。

「瑠那が戻らないなら……」

 弱音を吐く祖父江に寺家はあやすように肩を叩いた。

「……あなた、瑠那さんを愛しているのね……」

 それには祖父江は無言だった。

 田代は言う。

「成功するかしないか運次第ですが、瑠那さんの麻酔が切れ、目を覚ました時、強制催眠を解くように試みます。無意識界に問いかけ成功すれば正常に戻る確率は高くなります。でも失敗したら……」

 田代は祖父江を見つめゆっくりと言った。

「精神を病んだまま……廃人として一生を過ごすことになります」

「そんなッ!」

 祖父江は呻いた。そして涙が頬を伝わっていった……。

 寺家はぐっと祖父江の肩を引き寄せる。

「大丈夫よ、ドクター田代に任せなさい」

 丁度その時病室のドアが開き本間が顔を出した。

「どんな調子だ? 丁度休憩時間になったので様子を見に来たんだ」

 病室の時計は午後一時を示している。

「随分時間が経つの早いわね」と田代。そしていままでのいきさつを本間に話し出した。

 それをじっと聞いていた本間が口を開いた。

「そうか……これは私の想像でしかないが、ライブを見に行ったあと何かの拍子で催眠術をかけられた。いやライブの最中かもしれんが、兎に角術にかかり彷徨いはじめた」

「二日も三日も彷徨うもんなんですか」

 祖父江の疑問に対し本間は戸惑ったようだ。

「……イヤまあ、彷徨ったのか分からんが……ともあれかくもあれ、その間は食事を摂らねばならんだろうし睡眠だって必要だ。不眠不休で彷徨うなんて普通は考えられん」

「本間先生、次の日には会社から警察に失踪届を出してますのよ」

 寺家がそう言うと本間は後ろ手に腕を組み病室を歩き回った。

「ふむ、そうなら、こんな若い娘がふらふら彷徨っていたなら挙動不審で警察に通報されるだろう。ところが発見されるまで時間がかかった。……ということは何処で何をしていたのか、だな――」

「さらわれたのでしょうか?」

 寺家の問いかけに本間は首を横に振る。

「縛られたような擦過傷がない。それよりわしが思うに……自主的にそこにいたのではないかな?」

 寺家は驚く。

「自主的?」

「あくまでも想像だがな」

 看護士が顔を出した。

「本間先生ここにいらしたのですか。まもなく午後の診療時間はじまります」

 本間は時計を見た。

「おお、いかん。飯喰い損なった。そう言うわけで失礼する」

 そう言いながら本間は個室から出ていった。

「案外、本間先生の想像は当たっているかもしれないわね」と田代。

 寺家は腕時計を見つめた。

「そろそろ麻酔が切れてくる時間だわ」

 その拍子に管弦が呻いた。

 寺家は管弦の顔を覗き込んだ。田代は管弦に被せていたヘルメットを外しはじめた。

「うう」

 管弦は目をゆっくりと開けた。

「瑠那――」

 祖父江は声をかけようとしたが寺家は止めた。「待ちなさい」

 田代が管弦の顔を覗き込んだ。田代はここが勝負所、と確信した。

 田代はゆっくりと管弦に聞いた。

「瑠那さん、分かる?」

 田代の諭すようなゆっくりとした声かけに管弦は頷くでもなくぼうっとした表情だ。

『催眠が解けてない……』

 管弦の表情を見た田代は疑う余地はない。

『このままではマズい……ここは勝負所……焦ったら負け……』と田代は心に念じた。

 そう自分に言い聞かせると田代は管弦の眼を見つめた。

「瑠那さん、これを見て」

 田代は右手の人差し指を立てた。眩しそうな目つきで田代の指を見つめた。


 何が始まろうといているのか?


 寺家と祖父江、無言で田代の動作を見続けた。

「瑠那さん、あなた今どこにいます?」

 田代の問いかけに管弦は意外なことを言った。

「……天誅教川崎……」

「そう。あなたは教会にいるのね。その前にオッサンスタジアムにいたわね。そこで何を見たの?」

 数秒の沈黙の後、管弦の首ががくりと落ちた。

 そしてやおら管弦の口から漏れた言葉……「迷える子羊よ……我が御手の元に集え……」

「何だって?」

 その言い方にぞっとし、身を乗り出す祖父江を寺家は止めた。

 管弦はゆらゆらと立ち上がった。そしてまたもや謎の言葉を吐き出した。

「呼んでいる……呼んでいる……」

 管弦は両手を下げ揺らしながら、悪霊に取り憑かれたかのように不気味な雰囲気を醸し出している。田代はさながらエクソシストのようだ。

「何処行くの、瑠那さん……さあ、もう一度指を見て」

 田代の額に汗が滲む。

 ストンとベッドに腰を下した管弦は呟いた。

「大僧正様に……お布施を……」

 祖父江は首を振った。

「何を言っているんだ、気味が悪いぜ」

 祖父江の声を余所に田代は汗だくになっていた。

 汗を吹き払うことなく二人に耳打ちするように田代はそっと呟いた。

「彼女の無意識界に問いかけています……」

「……聖女瑠那と呼ばれるために……」

「これを見て」

 謎の言葉を紡ぎ出す管弦に顎からしたたり落ちる汗を拭おうともせず、田代は人差し指をゆっくりと右に移動させる。

 それを管弦は目でゆっくりと追いかける。田代が左に寄せると管弦の目もそれを追う。

 そして次の瞬間――勢いよく両手を、ぱん、と叩いた。

 吃驚したような顔をした管弦……。次の瞬間「あれ、ここどこ?」


 正気に戻った瞬間だった。


「ふう……」

 全身が汗みどろになった田代がため息をつき、椅子にガタンと腰を下ろした。

「凄いわドクター。あ、でもその汗は?」

 寺家は吃驚した。顎から……指先から……汗が涙のように滂沱と流れ落ちている田代を見つめるのだった。

「悪魔払い終了」

 田代は安心させるかのようににっこりと笑った。

「瑠那、俺が分かるか」

 祖父江は急ぐように問いかけた。

「何言ってんのかサ、ケンジだろ?」

 そのいつもの管弦の言い方に寺家も安堵した。

「術が解けたようね」

「先生も何言ってんのサ? どうでも良いけどトイレ何処? 漏れそう……」

「寝たままだったからね。こっちよ案内するから」

 寺家は管弦の手を引いた。

 二人が出ると祖父江は田代に深々と頭を下げた。

「先生、本当にありがとうございました。畜生どこのどいつだ、瑠那をこんなにしたヤツは。タダじゃあ、おかねえ」

 祖父江は息巻いたが、ふと疑問が湧き起こった。

「でも何でこんなことが?」

 田代が言う。

「もしかするとそのきっかけは爆走天使の楽曲かも知れないわね」

 田代の言い方に祖父江は反論した。

「でも先生、オッサンスタジアムには三万人以上の人間が演奏を聴いていたんだ。その中で瑠那だけがおかしくなったというのは腑に落ちねえ。聴いた人間全員が狂ってもおかしくないはずだ」

「そうねえ……」

 田代も分からない、と言いたげな顔つきだ。

「第一、楽曲で暗示をかけたり催眠を施すなんて私も理解できません。それに音楽だけでこんなに長く催眠状態にさせることは不可能です」

「なんでこんな騒動になっちまったんだよ、クソ忌々しい」

 寺家と管弦が戻ってきた。

「なんの話、聞かせて」

 管弦が割り込む。

「瑠那、お前のことさ。ライブに行ったあとのこと、全く覚えてねえのかよ?」

 思い出そうにも思い出せない管弦だった。

「ウーン。聴いているうちになんだか気分がハイになっちゃったことは覚えているけどサ。……そう言えば頭ん中で何か呼ばれたような気が……」

「瑠那、我が御手の元に集え、と言ってたけどな?」

 管弦は驚いた。

「えええ? ……そんな事言ったかサ。記憶にないヨ」

 管弦は頭を振った。

「まだ無意識界の底には少し潜在意識が残っているようですね」と田代は言うと腕を組んだ。

 今までじっと聞いていた寺家が田代に問いかけた。

「田代先生、今後も瑠那さんにこんなことが起きますか」

 田代は言う。

「爆走天使の楽曲を聴いたりすれば元に戻る可能性は否定できないわね」

 寺家ははっとした。

「洗脳されているのでは?」

「洗脳……洗脳か……それも否定できませんが、先ほども申し上げたとおり、催眠状態を長く続けさせるのは不可能です」

 田代に寺家はさらに質問をした。

「ではこんなことは考えられませんか。音楽でとある場所に集合させる暗示をかけ、その場所で洗脳する……瑠那は天誅教会と言っていましたね」

 田代は寺家の言葉を反芻するように考え込んだ。

『催眠……暗示……洗脳……ライブ会場で無意識界に暗示をかけ、そのあとに本格洗脳を施す……か。あり得るのか?』

「先生達って……何言ってんだかサ」

「俺もだ」

 管弦と祖父江はすっかり蚊帳の外だ。ガラス窓がオレンジ色に光り外が夕方になっていった。

「どんな調子かな」と、本間が入ってきた。

「診察、宜しいのですか」

 寺家の問いかけに本間は椅子にどっかりと腰掛けた。

「ああ、一段落ついた。あとは佐々木医師と梶山医師に任せた」

「本間ドクター瑠那が戻りました」

 祖父江の言葉に本間はちょっと驚いた顔をした。

「ほう、治ったのかね。さすが田代先生」

「ただ妙な成り立ちなのです。音楽だけで催眠状態になるというのが。それも三万人以上が聞いていたというのですから」

 田代は本間に今までの経緯を話し出し、本間はそれをじっと聞き入って暫く考えていた。そして……。

「わしは精神心理学には疎いが、人間の身体は約五十パーセントの水分で構成されている。音の周波数は水を振動を与える。つまりこの場合、人体の水分が特定の周波数により共鳴作用が働き、無意識であるがその潜在意識に訴えかけ強制的に催眠状態にさせた……と考えるのは強引かな。しかし、謎は残る。何故三万人の中で彼女だけがそうなったのか、だ」

 四人の議論を聞いていた管弦が誰憚ることなく大欠伸をした。

「真剣なんだぞ、瑠那」

 祖父江は管弦を睨みつけた。

「だッてぇ、何言ってんだかさっぱり分かンないし」

「瑠那、もっと何か思い出すこと、ないかよ」

 祖父江に管弦は考え込むように顎に手を当てた。

「そういやどっかの場所に行った……かなア……男や女……集まったような気がする……」

 寺家が問いただす。

「さっき天誅教会と言ってたわね?」

 管弦は分からないと言いたげに首を横に振る。

「ウーン……分からないンだけどさあ……」

「瑠那、思い出せ」

 祖父江の言い方に管弦は頭を抱えた。

「……頭痛が痛い……分からンないヨ分かンらないヨ……」

「ケンジさんよしましょう」

 寺家は祖父江を止めた。

「正常になっただけ感謝しないと……」



 午後六時。

 寺家と祖父江はまともになった管弦を連れて事務所のドアを開いた。

「おかえりー」

 事務所では全員が管弦の帰りを待っていた。

「ボス、瑠那が元に戻りました」

 嬉しそうに祖父江が杉田に報告をした。そして寺家からの経緯を聞いて杉田は納得した。

「辛かったろう瑠那」

 労るような杉田の言葉だったが管弦には理解不能のように呆けた顔をした。

「辛いもなにも、思い出せないんだヨ」

「今日はゆっくりと休んでくれ」

 杉田のねぎらいに管弦は素っ気なく答えた。

「そうする。皆さんお休みー」

 管弦は自室に戻るべく階段を上がっていった。

 杉田は自問するかのように唸った。

「コンサート会場で催眠状態になり失踪したのは間違いではない。爆走天使の目的は何なんだ? コンサートで金を取るだけじゃない。何か他の目的もあるのでは?」

 地家が言う。

「さっきも言ったけど音楽だけで催眠状態にさせることは不可能、と田代先生もおっしゃってたわ」

「と言うことは他の方法で催眠をかけられた?」

 和道が言う。

「逆に言うと催眠術かどうかも疑問だな。コンサート会場は騒がしいものだろう。感極まって失神する、と言う話を聞くぞ。そんな状態に近いのではないかな?」

「失神した人間にどうやって催眠術をかけるのが出来るんだよ」

 祖父江は反論する。

「確かに道理に合わんな」と和道は降参した。

 杉田は言う。

「今回、コンサートを発端に妙な失踪事件には何か目的が隠されているんじゃないか。宝来警察で加藤副署長と面会した際、オッサンスタジアムから失踪した人間は瑠那以外数人いると聞かされた」

「そうなの? 何人ぐらい?」と寺家。

「総数は聴いてないぜ。ただいえることは瑠那以外に被害が及んでいるのは間違いない。ところで脳波の値が異常だ、と言ったのは田代ドクターだったか?」

 杉田が思い出すように言った。

「シータ波ね。脳波には固有の周波帯域があって、そのひとつがシータ波」

 寺家はしたり顔で言った。「これって田代先生からの受け売りよ」

「さて、皆」と杉田が口を開いた。「いままでの話の中で何か意見はないかな」

 皆、分からないと言いたげに無言になった。

「何かきっかけがあるはずだ」

「わっちも音楽に関してはまるっきり分からんですがな」

 的場も困惑した顔だった。伊東も無言で俯いた。

 ふと、蔵前は右肩に止まっている権太を見た。そのとき突然閃いた。

「音楽、と言うより音ではないかしら?」

「音?」

「何か人間の脳波に語りかけるような音では?」

 蔵前は笛をとりだした。

「音、で思ったんだけど参考になるかなあ」

 そう言うと竹笛を吹いた。それは人間には聞こえない高周波音だ。

 するとどこらからマギーがぬっと顔を出し座っている蔵前の足元にすり寄った。

「どういう事なんだね」と不思議がる和道。

 蔵前はマギーの頭を優しく撫でながら言う。

「この笛はマギーを呼び寄せるために作りました。マギー専用の音波をだします」

「専用、と言うことはそれ以外もあるッてこってすかい」

 的場の疑問に蔵前は答える。

「基本は同じだけど微妙に違いはありますよ。動物達ってみんなが考えているほど単純じゃありません。結構賑やかに話をしていますよ」

「話をするってどんなことさ」

 願成寺の問いかけに蔵前は言う。

「今日は天気がいい、とか、彼処にはエサがあるぞ、とか」

「そんな話、するのぉ?」

 御手洗に微笑みながら蔵前が言う。

「動物達って結構お喋りよ」

 そのやりとりを聞いた杉田はいきなり叫んだ。

「そうかッ歌詞に意味があるんじゃないんだ、爆走天使の曲にある『音』そのものに人間を狂わす何かがあるんだ……それに反応した人間だけが……選ばれし者として集まったんだっ」

 黒川が杉田に同調した。

「いまの話ですと基本は同じでも微妙に違う、と直美さんはおっしゃっていましたね。自分も初めて暴走天使の曲を聴いた時、頭が締め付けられたようでした。音の感じ方は人により微妙な違いがあるのではないでしょうか」

「ひょっとして聴く人間側に微妙な音の聞き分けが? ……和道君」と杉田は言う。

「なんだね社長」

「爆走天使の音、分析してくれ」

 いきなりの言葉に和道は目を丸くした。

「なんだ、分析って。楽曲を分析かね」

 さらに不可解なことを杉田は言いだした。

「曲そのものではない。『音』としての分析だ……ドラムの音、ギターの音、キーボードの音、歌声、コーラス……どれも音の要素として一つひとつバラバラにしてくれ」

「何だって? そんな無茶振りされても……」

 和道は当惑した。

「まあ、ソフトを使えば音響分析事態はできなくはないがね、だが金と労力がかかるぞ。それにとても私一人では出来ない相談だ。だが何故そう思ったんだね、社長」

 杉田は続けた。

「俺の頭脳が疼くんだ。これは和道にしか出来ない芸当だ」

 二人のやり取りに全員があっけにとられ「訳分がらねァ」と銀次が呟いた。

 二人は続ける。

「私が持っている音源モジュールでは解析は不可能だね、もっと高性能なモジュールが必要だよ、社長」

「金か? いくらぐらいかかる?」

「二十万はかかるな。それに微調整が必要で最終的には三十万は下らない。さらに腕利きの音源解析の人物が必要だ。人件費もかかかるぞ、社長」

 呆れたと言いたげに両手を広げる杉田。

「そんな予算何処にもないぜ」

 しかし和道は強気だ。

「言葉を返すがね、野来下雫のホテル住まいもまだ続いているし、今回の案件にはどう見ても金に糸目をつけないように思えるが、どうかね社長」

 和道の反論に杉田は頭を抱えた。

「分かった分かった。――俺の負けだ」

 和道は笑った。

「明日アキバに言って物色してくるか。それとブラックウェッブで人集めだ」



 その頃、楽屋では大声を上げる内藤がいた。

「やってらんねえよっ。俺たちは何十億と稼いでやってんだろっ」

 喚く内藤を監督が宥めていた。

「お前達をここまで育てるのにどれだけかかったのか分かってるんだろうな? その金はお前らだけでなく教団全体の金だ」

「アンタはそう言うけどな、俺たちが活動しなけりゃそれすらも無いんだぜ」

「それは承知している。信者を集めるにはお前達が必要なのだ」

 反論する監督だったが内藤には響いてないようだ。

「集団催眠で信者をかき集めたのは、誰だと思ってんだよ」

「確かにオッサンスタジアムのコンサートでは六十数名の俄信者が集まってきたのは事実だ。だがその催眠音楽を編み出したのは教祖様に他ならない」

 しかし監督は防戦一方だ。

「教祖は関係ねえ。アイツがどう指導したところで演るのはこっちだ、そうだろ? その対価として何某らの報酬があってしかるべきじゃんかよ」

「そう言うが、催眠音楽で集まってきた信者でも自力で正気に戻ったヤツもいるんだ。だから、お前はもっと腕を磨け」

「これ以上腕を磨けってか。冗談じゃないぜ、みんなどうだよ」

 内藤以外の爆走天使の面々は俯いていた。

「お前ら、金が欲しくないのかよッ、見損なったぜ」

 監督が言う。

「内藤……」

「何だよ?」

 監督の問いかけに内藤は反応する。

「いつからか金の亡者になったんだ」

 それを聞いた内藤は唾を吐いた。

「けっ、俺はバンドから抜けるぜ」

 内藤の言葉に監督は青ざめた。

「グループを抜けるだと? それは断じて許すわけにはいかん」

「許すも許さねえも金をよこさないなら俺は抜けるぜ」

 声高に叫ぶ内藤に監督当惑する。

「そういきり立っても困る。大僧正様と話し合う。ちょっと待ってくれ」


 天誅教会川崎支部。

 一言も声が漏れないように固く閉められた控え室では、大僧正がモニターに映し出されている黒いフードを被り表情を見せない男に訴えている。

「もっと寄こせ、と言うのか」

 重々しい男の台詞だ。

「我々の苦労も知らずに欲に目の眩んだ男の暴言ですよ。自分が編み出したと思っていやがる。全ては聖天使様のなせる技でございます」

 大僧正の目の前で両手を組んだフード男は突然言い放った。

「バンドを解散する」

 大僧正は一瞬、耳を疑った。

「奴らの目的は果たした」

 その言葉に大僧正は理解できないというように首を横に振った。

「あやつら下人どもは未だ利用価値があります。あやつらがいなくなると信者をどうやって集めますか」

「それはお前の仕事だ」

 冷たく言い放つ男。

「解散理由は如何致しましょう」

「それもお前の仕事だ」

 それだけ言うとモニターから黒フード男の姿が消えた。

『何という無慈悲な……聖天使様』

 大僧正はこの難題に頭を抱えた。


 数日経った午後零時。スケロク商事の昼休み。

 昼のKHKニュースでアナウンサーが開口一番爆走天使解散を報じた。

「絶大な人気を誇るバンド、爆走天使が音楽の方向性の違いにより来月解散する、と突然発表されました。マスコミ各社は爆走天使の所属するなんちゅう音楽事務所と連絡を取っておりますが、発表後の事務所のドアは固く閉じられたままで当惑しています。……では次のニュースです。米国国防省レスター・フラット国防長官の談話によりますと日米の軍事力協定に――」

 昼休憩のスケロク商事事務所では古びたテレビを見ていた。

「トップニュースが爆走天使解散って、なんて日本は平和ね」

 そう言いながら天馬はサンドイッチを頬張った。

 管弦のため息が聞こえると杉田は管弦の顔を見た。

「今の心境はどうだ、瑠那」

「もう、どうでも良いヨ」

 管弦は素っ気ない。

「どうでもいいって……あれほど熱中してたのに?」

 杉田は反応を見るかように巫山戯た口調で管弦に問いかけた。

「モウいいんだよ」

「突然、解散するとはどういった意味を持つのでしょう?」

 黒川の呟きに杉田が反応する。

「なにかヤバイ事が起きたかな。――天馬のサンドイッチ、旨そうだな」

 天馬は右腕をかざした。

「これ? 片手でも食べられるよう居候が作ってくれたの」

「よい居候だねえ」と杉田。

 事務所のドアが開いた。

「へい、毎度ー。カツ丼、四つ、お待ちー」

 和道の支払いに恭しく受け取り「ご贔屓にー」と出ていった。

「ようやく昼飯にありつけるぜ」

 管弦は黒川の前にカツ丼とお茶を置く。

「カツ丼、ここにおくヨ。お茶こぼさないようにネ」

「ありがとう」と言い『いつもの瑠那に戻ったな……』

 黒川にはすでに疑うことはなかった。

 カツ丼を掻き込んでいる和道に杉田は質問した。

「分析の方は進んでいるかい」

「音源解析ソフトとアナライザーを組み合わせて解析しているが相当難儀だな」

「何か気がついた点とかあるか」

「三台のシンセのうち、一台が奇妙な音を出しているようだ。極低音で『音』というより『振動』で、普通じゃ聞こえない音だな。今のところなんだか分からんよ」とそう言いながらお茶を含んだ和道は「アチッ」と短く叫んだ。

「ごめ~ン、和道さん猫舌だったネ」

 管弦はペロッと舌を出した。



 突然の解散宣言から一ヶ月後。

 最終の解散ライブコンサートには内藤の姿がなかった。

「あの野郎、組織を舐めてやがるっ」

 プロデューサーは激怒した。

 監督からの報告を聞いた大僧正は控え室でモニターの男を呼び出した。

「如何致したものでしょう」

 顔を見せない黒いフードを被った男は冷酷だった。

「天誅だ」

 男の冷徹な響きに大僧正は思わず聞き返した。

「どのようになさるおつもりで?」

「お前の出る幕ではない」

「そうおっしゃっても……」

「組織の問題だ。口出しするな」

 そう言うと男はモニターから消えた。

『聖天使様はいつもこれだ……』

 


 その日の夜午後十一時。

 横浜市中区元町通のカクテルバーを出た内藤はかなり酔っ払っていた。

 陽気な内藤はゆらゆらと歩きながら、汐汲坂通り近くにある自分のマンションを目指していた。昼間は賑わう元町だがこの時間になるとさすがに人通りがない。

『俺がいなきゃバンドだって……そのうち監督が泣きついてくるぜ』

 そう思いながらいい気分でゆっくり坂を登っていた内藤だったが、突然後ろから男の声が響いた。

「デューク内藤だな」

 内藤は振り向いた。

「誰だお前は」

 酔眼で見た内藤は目深に被った真っ赤なフードとジャケットを身にまとった得体の知れない男を認めた。

「だからなんだってんだよっ」

 赤いフードの男が冷めた口調で言う。

「天誅」

 そう言うと懐から拳銃を抜き出し三発連続的に発砲した。

 上原作之助製造課長と同様一発目は正確に額を撃ち破り、反射的に仰け反った体に二発目三発目を心臓にたたき込んだ。

 大地に転がった内藤の状態を確かめることなく赤いフードの男は素早く走り去り、人気の無い往来にタイヤの軋む音が響いた……。


 翌朝のKHKニュース。

「昨夜十時過ぎ、横浜元町付近で人気バンド爆走天使のキーボード奏者デューク内藤、本名内藤致(二十四歳)さんがで何者かに拳銃で撃たれ、その場で死亡が確認されました――」




 第五話 第一部 完


かなり血なまぐさいストーリーとなっておりますが、今回は文章に出来ない『音』をテーマとして展開しております。

果たして『音』が人の心を支配することはあるのでしょうか。

天誅教その2では、所轄内で殺人事件を解決する宝来警察署とそれに関わることになった重伝琴葉。さらに茂を救い出すべく奮闘するスケロク商事の面々を中心にストーリーが進みます。


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