上
「次の儀式はまた三月後です」
眼鏡の男の言うことをぼんやりと聞きながら、ミリスは肘の内側を抑えていた。ガーゼ。消毒液の匂い。僅かな痛み。ついさっき、針に刺された感触。採血の跡。カチャカチャと男が注射器を片付けているのに、「あの」と問いかける。
「私の身体……大丈夫ですか」
男は不思議そうに顔を上げて、かえって問い返す。
「どこかお体の具合に不安でも?」
「いえ……。そういうわけではないんですけど。ただ、気になって」
ふうむ、と眼鏡の男はそれを聞くと、ついさっきミリスの針跡から抜かれて、今は透明な小瓶の中に収まった血液を手に取る。ちゃぽ、と小さく揺らす。光に少しだけ透かすように翳す。
「問題ないでしょう。もちろん、詳しく検査してみないことにはわかりかねることもありますが、前回の血液検査ではまるで異常はありません。まったくもって理想の健康体ですよ。聖女様の日頃の尊い努力のおかげです」
「……そう、ですか」
「大きく変色している様子もありませんから。もしご心配であれば、来週にはこちらで検査の数値自体は確定します。お伝えに上がりましょうか?」
いえ、と慌ててミリスは首を横に振る。
「みなさんお忙しいでしょうから。何か変わったことがあれば、また次の儀式のときにでも教えていただければ」
「そうですか? もしご要望があれば何でもお伝えください」
男はケースの中に小瓶を大事そうに収めると、鞄の中にしまい込んで、バタンと閉じて立ち上がる。さ、とミリスに呼び掛けて、
「血が止まったら聖堂から王城に移動しましょう。皆、聖女様をもてなす準備をしていますよ」
「……もてなされても、私は、習慣に外れた物を食べてはいけないので」
「大丈夫ですよ。少しくらいなら聖血に影響が及んだりはしません。教会医師のお墨付きです」
男は笑いかけるけれど、ミリスは俯いて、その顔を見ない。腕を抑えたまま、少しだけ滲み出す血を自分の身体の中に押し戻そうとするように、ぎゅうっと強く指に力を入れて、小さく溢す。
「…………いえ。やっぱり、不安なので」
そうですか、と男が言ったときの表情も、やはり見なかった。
*
聖血、というものが世に認知されたのはもう千年近く前のことになる。すでに王朝は二度三度と言わず興亡を繰り返したけれど、それでもずっと、その聖血は王の傍に置かれ続けた。
ずっと古い時代、ある病が流行った。村の中の一人が病を得たら、その村ごと失われることを覚悟しなければならないほどに強い病が。
医者たちはこぞってその病を克服しようと治療法を模索した。その中では何人もの医師が命を落とし、その数百倍以上の患者が命を落とした。外科手術では対処できないことがわかると、方向は治療薬の開発へと向かった。あらゆる秘境の草木や動物が考えうる限りの方法で加工され、処方され、けれど結局、その病に効いたのは一つだけ。
時の女王の血液だった。
貴い人々の血液にはやはり霊力がある、ともてはやされた。血液はたった一人分のもので薄めればずっと量を増して使うことができたし、病の致死率は高くとも感染速度は遅く、しっかりとした体制を築きさえすれば、十分に国を救うだけの力を持っていた。かくして、時代の危難は乗り越えられる。
けれど問題は、その後。
再び国の中にその病が現れた。やはりここは、と初めの女王の三代後に連なる王がその血を捧げたが、しかしどういうわけかその血に効果がない。病の特効薬となる血液の性質は、親から子に遺伝するものではなかった。
国中を捜した。老若男女あらゆる者たちから血液を採取し、病に効くかどうかが試された。そして見つかったのはたった一人だけ。聖なる血の持ち主は聖女と呼ばれるようになり、またも国を救った。
それからも、ずっと。
再び病が襲ってきたときのために、生まれてきた子どもは必ず検査され、聖血の持ち主であれば国の保護下に置かれることになっている。
どういうわけか、聖女と言うのは一つの時代に一人しか存在しない。
だから今は、ミリスが一人。
たった一人で、暮らしている。
*
清潔な家で、本を読んだり、花を育てたりしながら過ごしている。
朝は早い。夜更かしをすると身体に悪い影響が出るから。ほとんど陽が沈むのと同じくらいの時間に眠れば、陽が上るのと同じくらいの時間には目が覚める。うん、と背伸びをして、おはよう、と自分で自分に挨拶をして、部屋の窓辺に置かれた花に水を遣る。スリッパを履いて洗面台まで歩いていって、盥の水で顔を洗う。誰に見せるわけでもないのに髪を梳かす。寝間着を脱いで、簡素なワンピースに着替える。特にどれを着ようか、なんて悩んだりはしない。持っている十着全部が、同じデザインだから。
キッチンに行く。お茶を淹れるためにお湯を沸かす。二重扉になっている勝手口を開けると、ぽつんと野菜と魚と卵が置いてある。氷水の入った小さな箱の中に入れられて。よいしょ、とミリスはそれを持ち上げて、中に入れる。慣れた動き。キッチンに置いたメモ帳の一番上にこう書き込む。『いつもありがとう』。それを箱のあった場所に置いておく。ここに来て十何年も経つけれど、あの箱を置いてくれている人の顔を見たことは一度もない。このお礼の言葉が喜ばれているのか、鬱陶しがられているのかも、一度も確かめられたことがない。
朝ごはんはパンとゆで卵、それからサラダにハーブティー。変わり映えのないルーティーン。食べ終わったら食器を洗って、少しだけ家の中を歩く。運動不足だと血が悪くなるから。眠っていた間に怠けた身体が目を覚ましてきたら、日向で本を読む。読み切れないくらいの蔵書は代々の聖女たちから受け継いできたもの。たまには小説以外も読んでみようと思って植物図鑑を開くと、ずうっと古くなった紙切れが栞のように挟まっていて、こんなことが書いてある。『このハーブで入れたお茶、すごく色が綺麗なの』。ふ、とミリスは笑ってその紙にペンで書き込む。『そうなの?』。栞がどこかへ行ってしまわないようにページで蓋をして、次の花の形をじっと見つめる。
昼ご飯を食べて陽に当たっていたら、また眠くなってきた。少しだけ、と思ってミリスは目を閉じる。うたた寝は身体にいいですよ、とはあの教会医師の言っていたことだから、信じてもいいのだと思っている。ソファに座って微睡みに身を任せて、十五分。膝の上に置いたままだった本をどかして、頬を指で押し上げて、さてまた少し家の中を歩いて回ろうか、と腰を上げかけたところで。
「おはよう」
「へ」
まだ夢の続きにいるのだと思った。
自分の隣に、真っ黒な髪の男の人が座っている。生まれてこの方そんなことが何回あったか、数えようと思えばきっと数えられる。そのくらい珍しいことで、だから、ありえないと思った。聖女の暮らす家には基本的に人は入れないようになっている。襲われたりしないようにというのもそうだし、普通に接触しているだけでも、妙な病気に罹ってしまったら一大事だからだ。
ぺたり、とミリスはその男の頬に手を添えた。なんだかすごく現実みたいな夢だな、と思ったから。ぺたりぺたり、と赤ん坊がするように、男の顔に触れ続けた。
そうしたら、髪の中に奇妙な感触があった。
触ったことがない。なんだろうこれは。そう思って、ぐにぐにと弄る。肉よりは固くて、骨よりは柔らかい。思わず訊いた。
「これ、何?」
「角だけど」
「角? 角って……」
人には生えてないんじゃ、と言いかけたところで。
さあっ、と眠気が覚めて、これが現実だという実感が湧いてきて。
腰が抜けた。
「だっ、だだっだだだだ誰ですかっ。こ、ここ、私の、家で、人は入ってきちゃ、」
いけないんですよ、と消え入りそうな声で。みっともなく床に尻餅をついたまま足をずりずり動かして後退って。けれど黒髪の男は、それとは対照的に穏やかな優しい笑みを浮かべて、窓辺の柔らかい光すら味方につけて、こんなことを言う。
「そうなんだ。じゃあ、僕は大丈夫だな」
男の指が、少し長い髪の毛をかき分けた。ついさっき、ミリスが無遠慮に触っていたところ。固くて柔らかい、不思議なところ。それが見えるように、髪をよけて、
「悪魔だから。人じゃないし」
山羊のような、角が生えていた。
*
ほら手品、と言って男が壁から壁へすり抜けるのを見せられれば、もう悪魔と言われても疑うところはなかった。
「まあそんなに怖がんないでよ。僕、別に君のこと嫌いってわけでもないんだしさ」
そんなことを言われただけで恐怖心が薄れるのだったら、この世に怖がりなんて生き物はいない。
悪魔。悪魔ってなに。ミリスの頭の中を占めていたのはそのことばかり。けれど人を呼ぶのは憚られた。相手がただの不審者だったら別にいい。ただ大声で助けを呼んで、この人を叩きだしてください、とお願いするだけでいいのだから。けれど悪魔となると話が違う。悪魔。なんだそれは。たとえ自分があの教会医師から「聖女様……。悪魔に呪われてますね」なんて言われても鼻で笑うか、かえって向こうの頭の心配をする自信がある。
悪魔がいる、なんて言ったら狂ったと思われるかもしれない。それが怖くて、人を呼べなかった。相談できなかった。代わりにミリスは、沢山の蔵書の中から悪魔のことについて調べることにした。図書室まで向かえば、どういうつもりか悪魔もついてきて、必死になって本を探すミリスに向かってこんな風に話しかけてきたりする。
「へえ。すごい量の本だな。君ってもしかして、これ全部読んでるの?」
無視した。
悪魔に関する本は、ずっと古いものばかりだった。それこそ教典そのものだったり、その解釈書だったりなんだり。規則正しい生活の中で三日かけて一通り調べ尽くしてわかったことは、悪魔は人を誘惑して魂を奪おうとすると、たったそれだけのことだった。
「あれ、もういいの?」
植物図鑑に戻れば、悪魔は意外そうにそんなことを言った。机に座っていれば後ろに立って覗きこんでくるし、ソファに腰かければその隣に座ってこようとする。おかげで、できる限り空いた場所を作らないようにとソファの真ん中にどっかり座る方法を、ミリスは初めて知る羽目になった。
二週間くらいはそうしていた。危ないかもしれないとは思ったけれど、本当に教典に書かれていたことを鵜呑みにするのなら、悪魔は人を誘惑するだけ。それに引っかかった人間の魂を奪うだけ。誘惑を耐えることには自信があったし、仮にこれが本物の悪魔だったとして、そうして耐えていればいつかは諦めてどこかに出て行くだろうと、そう思っていたから。
悪魔はトイレとお風呂と着替え以外、どこにでもついてきた。
朝起きるともう部屋の椅子に座っていて、「おはよう」と声をかけてくる。おかげで自分で自分に言う「おはよう」をミリスはやめた。なんだか答えているみたいになってしまうから。
洗面所には入ってこない。顔を洗って髪を梳かして服を着替えて出てくると、廊下で待っていた悪魔が「あ、可愛くなって帰ってきた」なんて声をかけてくる。もっと地味な服はないかとクローゼットを探したけれど、当然そんなものはどこにもなかった。
台所に行って、勝手口の箱のお礼にメモを置く瞬間もいまだに煩い。最初の一回のときに目を丸くして「もしかして毎回それ置いてるの?」「君、本当に心が綺麗だなあ」なんてわざとらしく感心した声を出してきて、それ以降もするたび「えらいね」「いやあ、心が洗われるなあ」なんて白々しいことを言ってくる。悪魔の心が洗われたらもう何も残らないだろう、なんて言葉をずうっとミリスは呑み込んでいる。
本を読むときに後ろから覗き込んでくるのは、嫌がっていたらそのうちやめてくれた。机に向かっているときは基本的にこっちに構ってこなくなった。ただし、ソファに座ってうたた寝をしているときは、いつの間にか勝手に隣に座っている。一度居座られてしまうと「どけ」とも言えないし、無理矢理身体に手を触れてどこかへ追いやるなんてもってのほかだし、ぎゅーっと端の方に寄って、気にしてないように振る舞うしかない。たまに悪魔は歌を歌っている。ささやかで美しい歌。視線の先にはミリスか、それともよく整えられた庭かのどちらかがある。その庭を整えている人のことも、ミリスは誰なのか知らないままでいる。
晩ごはんを作る頃になると、毎回悪魔は訊いてくる。「今日は何を作るの?」もちろん、ミリスがそれに答えることはない。けれど必ずその後、料理しているところを見て彼はこう言う。「また同じ献立か……。いい加減飽きない?」大きなお世話だ、と思う。これは一番最初の聖女が一番よく摂っていたと言われている由緒正しい食事なのだ。わざわざ毎日これが食べられるように、毎日同じものを箱の中に置いていってもらっているのだ。
食べている間、悪魔は向かいの椅子に座ってじっとこっちを見ている。「美味しい?」と訊ねてくる。二日目に椅子を自分の分だけ残して別の部屋に撤去したけれど、料理している間に悪魔はそれを持って帰ってきた。勝手口のところに椅子を置いておけば回収してくれるだろうか、とミリスは少し考えた。考えて、負担になったらと思ってやめた。そもそもどうしてこの家の中に自分の分以外の椅子があるのだろう、と今さらになって不思議に思う。確かに、四辺のうちの一辺にしか椅子がないというのは何となくアンバランスには見えたけれど、実際に不要なものなのに。
お風呂に入る。悪魔はついてこない。清潔は常に保たなくてはならない聖女の条件だから、ミリスは本当にゆっくりお湯に浸かる。たった一人で。このお湯を沸かしている人たちもどこかにいるはずだけれど、それが誰なのかもミリスは知らない。せめて決まった時間に入って、決まった時間に出ることにしている。そして出ていくときには「ありがとうございました」と言う。それくらい。声が届いているかどうかも知らない。
長い髪だと乾かしている間に風邪を引いてしまう。だから、ミリスの髪はあまり長くない。同年代の女の子と比べたらぎょっとするほど短い。さすがに男の子と比べたら長いけれど、そのくらい。それでも結構長いことタオルで乾かさないといけない。これまでは本を読みながらゆったりとその時間を過ごしていたけれど、悪魔が来てからはそれができないでいる。脱衣所でたっぷり時間をかけてから出ていく。悪魔はその間いつも部屋の花をぼうっと見ながら過ごしていて、扉の開く音に振り向くとこう言う。「うわ。どこを目指してそんなに可愛くなってるの?」軽薄。
灯りを消してベッドの中に潜り込むと、悪魔は言う。「もう寝ちゃうの?」「まだ夜は長いよ」「僕、結構楽しい話をいっぱい知ってるんだぜ」知るもんかそんなこと。布団を頭まで被って丸まって眠る。部屋の中にはカーテン越しの月明かり。星明かり。草木の擦れる音。虫の声。遠くの街で、自分以外の人々が笑って暮らしている気配。
おやすみ、と悪魔は囁く。
ミリスが悪魔に話しかけたのは、その声を心地よく感じるようになってしまったから。
*
「出て行ってください」
「あ、話しかけてくれた」
「出て行ってください! ここは私の家です!」
必死になってミリスが怒ってみても、まるで迫力がない。これは当たり前の話で、ミリスはずっとこの家で暮らしてきたから、人と会話したり、感情を見せたりするのが全然得意ではない。案の定悪魔はにこにこと笑ってその言葉を聞いている。
「な、何を笑ってるんですか。何がおかしいんですか」
「いや、なんでも」
「何でもなくはないでしょう」
ミリスが問い詰めても、悪魔はまるで答えない。ぎっ、とミリスは睨みつけてやった。実際にはそんな表情を作ったことがなかったから、ただ子どもが遠くのものを見ようとするような、間抜けな顔になってしまったけれど。ふふ、と悪魔は笑っている。なに、その顔。
「……何が目的なんですか」
「あれ? この間、ミリスちゃんは自分で調べてくれてなかったっけ」
「み、ミリスちゃ……」
絶句。生まれてこの方、『ミリス様』か『聖女様』以外の呼び方をされた記憶がなかったから。かといって、自分から「ミリス様と呼びなさい」なんて命令することはとてもできないので、一旦それは呑み込んでおいて、
「ゆ、誘惑して、魂を奪うとか……」
「そう。そのとおりです」
大げさに、悪魔は両手を広げた。
「って言っても、いきなり誘惑されたりしても、君はそんなのに乗ったりしないだろう? ほら、心が強そうだし」
うん、とミリスは自分で頷いた。そのことにも悪魔はちょっと笑って、
「だからまずは、僕に心を許してもらうところから始めようと思ったんだ。ほら、知らない人から遊びに誘われたって乗りにくいけど、ちょっとは知ってる、っていう人が相手だったら、少しくらいは心揺れるものがあるだろう?」
「心を許してなんかいませんっ」
「それなら試してみようか?」
へ、とミリスは気の抜けた声を上げる。一体何をされるんだ、と想像もつかなくて。
「これから僕は一ヶ月の間、君の前から姿を消してみよう。そうしたら、きっと君は、」
寂しくなるよ、と。
囁くように、悪魔は言った。
「なりませんっ」
「お、強気」
「どうぞご自由にっ。一生戻ってこなくたって、私は全然かまいま」
せん、と言い切る前に、悪魔は姿を消していた。
どこかに隠れているんじゃないかと、辺りを一応探してみたけれど、どこにも見つからない。本当に、綺麗さっぱり、魔法のように消えてしまった。
ああ、せいせいした。
ミリスはそのまま、生活の続きを始めた。本を読んで、いつも通りの晩御飯を作って、食べる。お風呂に入る。出てくる。部屋に入る。誰も待っていない。ベッドに入る。誰も引き留めない。丸まって眠ったりしなくても、何も困らない。真っ白な天井に月明かりの青。何の変哲もない夜。どういうわけか少しだけ眠りに入るのが遅い。きっと、昼間に大きな声なんか出したせい。昔読んだ上手な眠り方の本を思い出す。一匹、二匹……羊が柵を飛ぶ姿を思い浮かべて、途中から山羊との区別がつかなくなれば、ようやく意識は薄れていった。
目が覚めて、いつもより少し遅い時間。うん、と背伸びをする。ちょっとの間だけ待ってから、そうだ自分で言わなくちゃ、と思い出して口にする。おはよう。そうしてまた、何でもない一日のはじまり。
洗面所で顔を洗う。髪を梳かす。服を着替える。外に出て、自分を褒める人は誰もいない。キッチンに行く。食べ物の箱を受け取って、メモ用紙を残す。そのことに何かを言う人もなくて、そうしたら突然、自分のやっていることがひどく独りよがりなように感じた。いつもの朝食。美味しい?と訊ねる声もない。
本を読む。日向で、机に向かって。昼ご飯を食べた後は、ソファに座って。窓から差す真っ白な光に染められて、紙面が反射する明かりも頬の上にそのままに、ゆっくり眠りに落ちれば目覚めたときには独りきり。続きの部分を読み解いて、晩ごはんを食べて、お風呂に入って、ベッドに横に。また眠りに就くのが少し遅れて。
ああそうか、と。
思い至った。
誰も、囁く人がいないから。これから眠りに落ちて、夢を見る合図をしてくれる人がいないから。だから身体と心が、すんなり意識を手放してくれないんだ。そう気付いたから、ミリスは自分で言うことにした。
「おやすみなさい」
おやすみ、と十五日目に小さく声が返ってきて、その日は長い夢を見た。
ずっと一人きりで、どこかに立っている夢。草原のようにも見えたし、花畑のようにも見えたし、海や空の真ん中のようにも思えた。確かなことは一つだけ。自分が一人きりで、立っていたということ。
夢の中のミリスは羊だった。小さなか弱い、一頭の羊。いつの間にか群れからはぐれてしまっていた。
どこにいるの、と何度も鳴き声を上げた。どこかにはきっと、自分の仲間がいるはずだと思って。けれど、誰も答えてくれない。顔を上げているのもつらくなって、俯いて地面を見ると、こんな文字が書いてある。
『大丈夫。みんな、ちゃんとみんなの役に立って、笑って死んでいきました』
静かに、羊は泣いた。ぽたりぽたり、と晴れの空の隙間に紛れ込んだ雨雲が、その言葉を誰かに伝えたがったみたいに、静かに一滴、二滴と涙を流した。それを最後に、鳴き声を上げるのはもうやめた。ここが自分の居場所だと、勝手にそう決めつけて、座り込んだ。雲が流れていく。星が巡っていく。風はずっと遠くから吹いてきて、ずっと遠くまで彼女を置き去りにする。羊は眠った。長い夢が、どうぞずっと早くに終わってしまいますようにと祈りながら。
目を覚ますと、悪魔は朝の陽射しを背にして座っていた。
「悪魔の誘惑っていうのはね……。君はもっと、幸せになっていいんだって伝えること。魂を奪うっていうのは、君が死んだ後も僕の地獄で幸せに暮らしてもらうってこと」
悪魔は立ち上がる。ゆっくりと歩いて、ミリスの眠るベッドに近付いてくる。それから、きまり悪げに笑って言った。
「……本当は、もっと時間をかけるつもりだったんだけど、僕の方が我慢できなくなっちゃったな」
ねえ、と彼は問いかける。
「寂しかった?」
はい、と素直に答えるわけにも。
いいえ、と嘘を吐くわけにもいかなかったので。
布団を引っ張って、口元を隠すようにして、もごもごと呟いた。
「お、おはようございます……」
おはよう、と悪魔も応えた。




