武装街
「俺はいま人生で初めて北極を愛し、その懐に飛び込みたいと心からそう思っている」
野良犬のように舌を出しのどの渇きを右隣のエレナに向かってハンドサインを出す。
この暑さは身体の機能を奪うだけではなくプライドという扉まで溶かすほどの熱さだ。
異常なまでの体内温度の上昇は、過剰なまでの熱を帯びた太陽光だけでなく身バレの危険性を危惧しラバンが渡した茶色いローブの厚さが原因の一つと考えれば、自然と匠は両手の拳を強く握っていた。
「おい、待ってろよラバン。必ずとっ捕まえてこの地獄を味合わせてやる」
と、自分自身でも呆れるほどに短所を顧みたところで、ローブで隠れているエレナの懐から匠へ木製の筒をさっと手渡した。
「喉が渇いているのでしょ? でしたら飲むといいでしょう」
「えっ? マジで飲んでいいの?」
エレナから天の恵みを頂くのは別に悪いことではなく、むしろエレナを女神として崇められるくらい匠にとってはこの飲み物が生命線となっている状況。
しかし人間、余裕が生じると余計な考えがポンポンと出てきてしまうものだ。
「間接キスになるんじゃ・・・・・・」
エレナから命のパスを右手で受け取りつつ灼熱のなか思案した。
加護から灼熱に姿を変えた太陽の熱を三十分受け続け、かつローブを今なお羽織っているこの状況に喉も乾くわけだが問題の論点はもうそこにはなく、一番の議題はエレナがこの筒に唇を触れたかどうかである。
もし口を付けたのならそれは匠の初めてを奪うこと、つまりはファースト間接キスをエレナとする事になる。異世界モノに関してはマイナーなイベントだが、匠にとってはこれらとは一切無縁な生活を送って生きたといえよう。
友人関係に関して言えば物心つく頃から何もせずとも一人、また一人とマトリョーシカの如く増える現状に悩みすら抱えるほど今は満足している。が、恋愛に関してはその真逆の道を辿り将来独り身の人生設計まで考えるほど、異性とは無縁の生活を送ってきた。
これから起きるであろうイベントの現実味を右手に実感するたびに心拍数が上がり更に発汗。それに伴う形で体内温度が血液を加熱する。
「おっしゃー覚悟を決めていくぜっ、異世界ハーレムの第一歩を!」
この日は匠の人生において記念すべき異世界ハーレムとなるだろう。
脱独り身を掲げ現実世界で叶わず諦めかけていた願いがついにこの日に解放される。この記念すべき日をなんと命名するか、ケーキで祝うかアイスケーキで祝うか、ケーキにろうそくを付けるか無しか、傍から見れば心底どうでもいい問いに脳みそを回す。
大きく深呼吸し「いざ戦場へ」と、江戸の武将を思わせる真剣なまなざしを木製の筒に向ける。
エレナが騎士道を行くのであれば、匠は日本の心でもある武士道精神を推すのがせめてものマナーではないだろうか。
「いざ、参る」
戦場で使用する言葉を覇気も一切なく口にしたところでようやく渇いた舌に命の源が注ぎ込まれる。
「いや~沁みるぜ! うまい、美味すぎるぞ!」
「満足してくれて良かったです。ここまで喜んでくれたのなら二人分用意した甲斐がありました」
「え? いまなんて?」
この流れで聞いてはならない言葉が耳を颯爽に通り過ぎ、無意識化のうち匠の足が立ち止まり右隣のエレナが少し先まで歩いたところで匠の異変を察して静止。後ろを振り返った。
「満足してくれて良かったと、お礼を申し上げただけですがどうしましたか?」
質問には的確に答えるのが騎士道精神であり、王や国民にとってそれが騎士の理想であるだろう。今のエレナは素顔が隠れていようが居まいが騎士道精神はどんな時でも介入してくるのだ。
表向きでの問いはこれで正解なのだが質問の裏、人間の気持ちまでは理解が及ばずエレナは首を横に傾ける。
「いや、違くて。二人分って言ってなかったか? それとも俺のハーレム計画を守るべく脳が過剰反応し、勘違いしただけなのか?」
「破廉恥な考えを持った男性は、この世界で粛清対象になるのでやめておくのが身の為だと忠告しておきます。それとあなたが気になっているのはコレのことですか?」
ローブから木製の筒を右手に持ちソレを左右にじっくりゆっくりと揺らし、満足げにこちらを見据えた。
「残念ながら私も持っています。あなたの容器に私は一切口を触れていませんよ。それに過度な期待は己の身を滅ぼす危険があります。そういう行動は恋人同士になってからしてください」
エレナから聞かされたこの世界の真実に膝から倒れ地に両手を付き、頬から流れ落ちた涙の行方が大地に染み付く瞬間をぼんやりと見送りつつ匠は、言葉を絞って話す。
「俺はただ、俺の少ししかない青春に花を添えたかっただけなんだよ。ただ、それだけの事なんだよ。エレナ、オレどうしたら本物の青春を送ることができるんだ?」
「困っている人が目の前に居るのなら手を貸してあげなさい、これは私のモットーです。ですから私があなたをサポートします。なので前を向いて一緒に歩きましょう」
裏切りやイジメが日常茶飯事に起こる世界で高校生活を送ってきた匠にとってライトノベルの世界で生を送るエレナの姿や生き様に当時の匠は憧れていた。
人間そのものの闇を理解する人間からしてみれば、今のエレナは太陽のように明るく優しすぎる――。
――かかったなエレナ! この世界を創造しキャラクター一人ひとりの性格を熟知した俺だからこそここまで誘導することができた。俺のハーレム計画を進行する上でヒロインであるエレナの協力は絶対条件。第一関門はこれで突破。後の返事は自然に約束を明確化し、いつも通りに振舞えば安心だ。
「ホントに? 約束してくれる?」
「約束します。あなたが運命の人と出会うまで」
「分かった。ありがとうエレナ」
エレナの微笑みが匠の心を優しく愛でたかと思えば純白の手が差し伸べられた。その距離は人の手では決して届かないはずだが不思議とこの光景に違和感はない。
その手をできる限り匠は伸ばした。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦ ♦
「それにしても冒険者で賑わってきたな、ここまで人が居ると流石に俺でも迷子になりそうだ」
「ええ、そうですね。王国から近く、冒険者ギルドからも近い立地なので賑わうのも当然のことですが、それにしても今回は人がいつもより多いですね」
あれから歩いて十分が経過した。
香ばしい肉料理の匂いと屋台のおっさんたちの熱がこもった陽気な声が一瞬にして血の匂いに変わる。
ライトノベルの設定によると、リブート城は繁華街を真っ直ぐに、黒龍の銅像が左右それぞれ向き合う形で置かれていると武装街へ。そのまま前進し炎の剣が旗として描かれる位置こそ匠の生死を決定する場所だ。
いまは血の気が漂う武装街にこの足を地につけている。
異世界モノのアニメやゲームの世界において戦闘を繰り返してエンドロールを目指すように、この世界で非現実が起こるたび、お約束イベント発生が常だと覚悟しなければ精神的にも肉体的にもガタが来るだろう。
気が付けば先程まで執拗に耳から離れず騒音を放っていた子供の声が無くなったかと思えば緊張感が電気の如く背中を身震いさせた。
「おい。まさかだがここに来て早々、俺は不良やら低ランクの雑魚を相手に戦うなきゃいけねぇ面倒くさいイベントに絡まれるんじゃ・・・・・・」
獣族、エルフ族、亜人族、そして人間。一見さまざまな種族が上手いこと共存し平和な場所に見えるが、それは目的を同じくしている節が大きいのだろう。
類は友を呼ぶとは正にこのことだろうか、背中、腰周り、両腕、全身の至るところに金属製の防具や至近距離の武器、遠距離の武器を装備した人々が匠の前を通過する。が、そのほとんどがあらゆる戦闘経験を重ねてできたであろう傷が頬や腕、目立つ部位にベテラン冒険者の証を示している。
「雑魚は雑魚でも思ったより間近で見ると怖いし威圧感すらも感じるよ。あぁ~ここから早く出たくなってきたな~」
設定上、この武装街は王国内最大の規模を誇る街であり光がある場所には必ず闇存在するように、この国の闇が蔓延る場所で殺人、強盗、窃盗、などの犯罪が頻繁に起こることも肝に銘じなければならない。
今の匠には残念ながらそれを淘汰する能力、魔法適性、この世界の真実すら今は分かり切っていない。
うかつに行動できない以上、真っ向から喧嘩を吹っ掛けられても匠は対処しきれないどころか命が危うくなるだろう。こんなところで命の灯が消え去るくらいならエレナに助けを請うのが普通だろう。
「なぁエレナ。俺を守ってくれ、俺はまだこの異世界のスタート地点にすら立っていないんだ。せめて、俺にそのスタートを切らせることくらいはしてくれないか?」
「手間のかかる人ですね・・・・・・。分かりました、貴方の命は私が守りましょう」
「ああ、そうしてくれると助かる」
この後やってくる武装街イベントの下準備を終え、匠は震えが止まらない右足をどうにか踏み込んだ。
負の感情を抱き続ければそれを起点に思考や行動まで全てが制約されてしまう。それだけは避けなければならない。現に現実世界への想いが日に日に増している節があるからだ。
学校生活において花が無いクラスメイトに対して口喧嘩の武器として怒鳴り散らしていた「現実逃避」の四文字が、今では頼もしい相棒にさえ思えてくる。
「ちょいと気になってたんだけどさ、この世界の現状や魔法についてもっと知りたんだよ。この世界でも無学のヒトってさ就職しにくくなると思うし、だからさ・・・・・・」
左肩を鉄の塊のような強い力で言葉を強制的に遮断され、匠は後方へ勢いよく尻もちをついた。
「おい、お前どこ見てほっつき歩いてんだ? 謝れよ」
威圧的な声の主を肉眼で捉えれば、ソレはざっと二メートルは優に超す巨漢に、雰囲気は自分のテリトリーを荒らされた象そのもの。
全身は金属の合金で作られた年季ものの鎧がキラリとこちらを見据え、背中には三メートル程ある斧には力と血の気すら感じその実力を匠に見せつけてくる。
「あ、ああ、ご、ごめ・・・・・・」
突然の出来事に匠は言葉が詰まる。
相手の威圧感に心まで押しつぶされそうになったのはコレが生まれて初めて。文章で書かれているのと実際に体験するのとでは威圧感から段違いなのだ、と本能のまま怯える脳でそう判断するのが精いっぱいだった。
「あ? 聞こえねぇんだよ。さっさと謝れっつうんだよ、しっかりしろや!」
巨漢男の喝にも聞こえる怒鳴り声に自然と匠の体は答えを返していた。
この場から逃げる――。その言葉が沸き出でるよりも前に本能が匠の背中を動かした。彼の強さを分かるからこその決断と言える。
巨漢男曰くナウル・ニバスに背中を晒し、捕らえられた蝶のように両手をバタバタと動かした。
「嗚呼、あ、ああああああああ~!」
声を張るレベルではなくこれは絶叫に等しいだろう。なんせ、今視界に入る者は匠にとっても武装街の住人にとっても「死を運ぶ者」と変わらないのだから――。
巨漢男の右目、日本刀で縦に一刀両断されたかのような古傷。それは紛れもなくB級ギルド「鋼鉄の咆哮」のギルド長でありその凶暴さゆえに付けられた二つ名は「咆哮する象」。性格は凶暴、好戦的。
武装街で関わりたくない人物を挙げれば、まず最初にナウル・ニバスの名をこの場にいる九割の人間が口にするほどの奴だ。
――なんで寄りにもよって標的が俺なんだ、金もなく、見せびらかす力もなければ、強い精神力も持っていないこの俺なんだ? 他にもいるだろ、何で何で何で、俺なんだよ。
頭の中で疑問が疑問を作り出している以上正しい解、主人公位置での正解に思考を回している余裕など既に消えて、本能のまま恐怖を行動で昇華しようと足を動かすが怖気で身体の筋肉に力が入らない。
「もう我慢ならねぇ。こうなったらお前をココで殺してやる」
主人公らしからぬ対応は巨漢男の逆鱗に触れ、相手の影が真上に伸びたと視覚で認識したが直ぐ、鼻に着く血生臭さが背後から向けられる。
どうせ苦しんで死ぬのなら最低限視覚を機能させない事が、自分自身にとって楽に死ねる方法だろう。
早くも生きる希望を自ら捨て楽な方を選択したが、いつまで経っても匠の意識はそこにあった。
「もう一度しっかりと言います。乱暴はやめなさい」
張りのある真っ直ぐな声でB級ギルドを相手にし、救世主は匠の前に立ち見覚えのあるローブ姿に身を包んでいる。
「もう大丈夫ですよ、貴方の命は私が守ると約束しましたから」
「なんだ、お前。邪魔なんだよ、お前諸共血の池に変えるぞ」
ナウルを前にして平然と立ち続け、脅迫とも思える捨てセリフと血生臭い斧を胸に突き付けられても微動だにしない彼女の正体を理解する事など匠は容易だった。
今も昔もこの立ち姿に何度助けてもらい、この勇気にどれだけ憧れを抱いていたか。
「エレナなのか? すまん、いま思うように身体が動かないんだ」
「ええ、分かっています。待っていてください」
気が付けばエレナとナウルの周りには喧嘩を一目見ようと軽く人だかりが横一列にでき、終いにはどちらが勝つかで賭ける者さえ出てきた。
「お前、あの小僧にエレナって呼ばれて・・・・・・」
相手の意識と視線がほんの数秒匠へ向くのをエレナは見逃さず、ナウルの懐へと最短距離をしなやかに動き、相手の耳元で囁いた。
「あ、ああ、わ、分かった」
ナウルの態度が風船が割れたようにみるみる小さくなっていく。
さっきまで命の危機を作り出していたナウルの威圧感と緊張感、生々しい血の匂いが視界から外れる。
エレナがナウルの耳元で囁いたことは言うまでもないが、猛獣を黙らせ好戦的な人間に斧を収めさせることが果たして圧倒的な力でもできるだろうか――。
「おい、これで終わりかよ」
「さっきまでの威勢はどうした」
「しっかりしてくれよ、俺はお前に賭けてんだからさ」
「おいおい、これじゃ二つ名が泣いちまうぜ?」
「う、うるせぇ! 殺し合いはもう終わったんだ、とっとと失せろ!」
批判が来るのも当然だろう、周りの人間は観客でしかなくこの喧嘩を「見せ物」程度に思っている。その連中からして映画を途中まで上映していたが私的な理由で中止するのと感覚は変わらないのだろう。
クレームの嵐を焦り混じりの咆哮で弾き飛ばし、各自の定位置に戻るようナウルは促す。
安堵の表情を隠せない匠が胸を撫で下ろし、未だ生を刻み続ける事実を確認しつつ差し伸べられる救いを受けとった。
「お怪我はありませんか?」
そっと微笑みかけるエレナに匠は心から生存したのだとひしひしと感じつつ体の自由も効くようになったのを立ち眩みで理解した。
「ああ、見たところ怪我はしてないみたいだ。ありがとな、助けてくれて・・・・・・」
この異世界に来てからというものエレナという存在が無ければ心臓を動かすことも、こうして会話することもなく自然界の弱肉強食という理に今頃は埋もれていただろう。
「それは良かった、命を預けられる身としてやるべきことを行ったまでです」
人間の判断を鈍らせる「当たり前」はいつも最後にやってくるものだ。それが、幸福の時も不幸な時も平等に「気付き」という毒リンゴを渡して。
いずれにせよ毒になるのならば無害のうちに食らってしまえば問題ない。
「まぁ、アレだ、これからもよろしく頼むって事と今まで本当にありがとう・・・・・・」
全身を雑に手触りのみで確認して砂で汚れきった右手を差し出しエレナに改めて礼を尽くす。
「こちらこそよろしく頼みますね」
互いに握手を交わし、手の感触に『責任』という二文字が重たくエレナにのしかかる。表情からはそれを溶かしきるような穏やかな笑顔が垣間見れ、それに匠自身の解を示そうと再び歩き出した。
今度はエレナの手を引いて・・・・・・
♦ ♦ ♦ ♦ ♦ ♦ ♦ ♦
昼時、太陽がこの世界を覗き見るエリアが広範囲に及ぶなか匠とエレナは武装街の外れに位置する喫茶店に腰を落としていた。
「おお~来た来た、ステーキ! 待ってたんだ、君のことを。長旅で疲れた身体にはやはりタンパク質が必要なんですよ~」
両手にナイフとフォークを持ち肉の塊が焼ける濃厚で香ばしい匂いと鼻孔を刺激し、パチパチと跳ねる肉汁に思わず匠は唾を飲む。
茶色く衣替えした肉塊をナイフで切ればルビーのような赤身と甘酸っぱいソースが食欲を促進させ、口の中にソレを投げる。
「口の中で肉が溶けるぅ~」
「美味しいですか?」
エレナの顔は少し楽し気で生後間もない子犬同士のじゃれあいを覗き見るような表情にさえ匠は思えた。
ショートケーキが盛られている白い平皿を定員の男性がエレナの席に紅茶とセットで置いていく。
「めっちゃ美味いぜ! この世界のステーキもなかなかだな、何しろソースが未体験の味だけど上手く素材とマッチしてて良い」
ステーキの感動を言葉にし感想を伝える匠とショートケーキにさっそく手を付け、幸せそうに頬張るエレナ。
――食べ物に異常はないな。
本来、匠がここに来た目的は二つ。
一つは昼食を取り、食べ物が設定と同じか同じではないかを確かめる為である。
この世界の食文化が認識するものと違っていれば、薬草やポーションの効果、モンスターの種類まで認識の範疇を良いも悪いも超える可能性すら有るからだ。
第二にエレナが使用した魔法とナウルに向けて放った言葉だ。
階段のような魔法が分かればこの世界の魔法法則が理解できる可能性が高く、今後の野望を優位に進めることが可能だろう。
ナウルに向けて放った言葉、暴力的なナウルを黙らせるほどの発言は何だったのかを小耳に挟んでおけばいつかは役に立つ事もある。
匠自身『使えるものは全部使う』その考えを重要視している人間だ、ルート変更の世界であればなおさらソレを大事にしなければ生き残るのは不可能だとナウルの件で実感した。
匠はステーキの咀嚼を止めコーヒーの香りで満たされた店内を匠は一瞥、眼の前には白のティーカップを優雅に口元まで持ってくるエレナが視界に入る。
その可憐さに花を添えるよう喫茶店の雰囲気が見事にマッチし、エレナの優美さと真紅に染まる髪の細部や吐息に至るまで何もかもが匠には輝いて見えた。
「そ、そういえば! ナウルに使った階段みたいな魔法は何だったんだ?」
色香漂うその姿に時を奪われる感覚を察知し、匠は早めに本題を口にした。
ダイヤモンドの輝きに決して劣ることは無い青く透明でいて、真紅の輝きを幾重にも放つその存在に匠の理性など崩壊の一途を辿っている。
意識を逸らさなければ天然の輝きに魅入られてしまう、それほどまでエレナの存在は匠にとって大きくなっている。
「あれは階段魔法と言って下位魔法の一種で、魔力を伸ばし階段の様に段差を作って移動する空中移動魔法の一種です」
「そ、そうか。あ、ありがとな」
突如エレナの口から聞き慣れない単語が全身の悪寒と共に脳内まで至り、悪夢としか思えない事実に呂律が上手く回らない。
匠が知りうる知識では「階段魔法」も「魔力を伸ばす」魔法概念も設定に付け足した覚えがない。
実際主人公とは別行動を行っている為、ルート変更後の世界にどのような変化が生じるかは定かではないが多少なりとも枝分かれする事は想定していた。
だが実際は根底にある概念までも変化し匠の前に事実として突き付けている状況。
――何とかしなければ
「どうかしましたか? 随分と深刻な表情を浮かべて。何か心配事でも?」
「ああ、無いって言えばウソになるかな・・・・・・」
「困っているときはお互いさま。私にできることなら協力しますよ」
赤褐色の紅茶を木製のコースターに置くと艶っぽい薄桃色の口元をエレナは露にし、匠は改めて一人ではないことを理解する。
「だな、一人で悩んでても意味無いだろうしここは改めてエレナ、俺に協力してくれ」
ルート変更、この異世界に迷い込んで以来この地雷ワードとも呼べるものがずっと匠を孤独へと導いてきた犯人だ。
アニメやマンガ、ライトノベルの主人公が抱える秘密。
それは一見、第三者の目からすれば誰でも負の秘密や地雷を持ちたいもので、それが主人公の魅力の一つではあるが実際に体験すると話は別で――。
強制的に行動を制約し、主人公を孤独の道へと進ませるいばらの道でしかない。
匠が相手取っているのは紛れもなく世界の理そのもので、武器や防具を持たずしてボス戦に挑むくらい今も、これからも不利な戦いを仕入れるだろう。
だがそれは匠だけの場合に限る話だ、複数いるだけでも一人でいるときの負担も軽減されてその分、戦力面でも戦略面でもやり口は相当増える。
「分かりました力を尽くしたいと思います」
思案する匠の脳内にいい知らせが小鳥のさえずりの如く耳に響いた。
こくりとうなずくエレナの瞳からは桜の香りを運ぶ春風のように優しく、桜色の双眸を匠に向ける。
「ありがとう」
「礼には及びません、あなたを助けたいと思ったのは私の勝手な判断ですから」
「んじゃ、本題へ事を進める」
お冷をおもむろに喉へ流し込んで真剣なまなざしでエレナを見つめ直した。
用件は三つある。
一つはこの世界の歴史が確認っできる場所。
二つ目はナウルを追い払ったエレナの言葉、その内容だ。
三つ目はこの世界の貨幣価値に関してだ。
「まずはこの世界の歴史が確認できる場所だ、神話やおとぎ話ではなく確定的な歴史だ」
ルート変更後の世界に身を置いている以上、歴史まで変更されていれば魔王軍や人類、その他の人種の力関係が分からなければ最悪不利な方向へと傾くことがあるからだ。
「それに関してなら、リブート王国直属の騎士育成学校の中にほぼあります」
「そうか、ありがとう」
「この世界の歴史を調べてあなたは何がやりたいのですか?」
弱点を突かれ匠は冷や汗をかく。
確かにただの異世界人が、それも予知能力持ちと偽っていれば誰でもその行動を疑うに違いない。
「俺は協力して欲しいと言ったが、人の問題に首を突っ込むことを了承した覚えはないぞ」
にらみを利かして相手の弱い部分を的確に狙った疑問を取り消す匠に、エレナは押し黙るしかない。
再び質問を投げ入れる匠。
「次だ、ナウルを追い払ったあの言葉、あれはなんて言っていた?」
もはやこの風景は警察官と罪人の事情聴取に近いだろう。
コレが最善の誤魔化し方とは当然思ってはいない、許しを請う事など思考にすら入らない。
ただし――、
「貴方の私情に私が首を突っ込んだ、これは私に非があるだろう。この場で謝罪します、すみませんでした」
相手がエレナ、で無ければだが。
「許してほしければ、俺の質問に的確に答えるんだなぁ!」
「分かりました。ナウルさんとは元々知り合いで、私が彼を呼ぶときには『ベアーさん』といつも口にしていたました。ですのでこの二つ名は私とベアーさんしか分からないので、それを利用しました」
「へぇーそうかい、それは良かったねぇー」
棒読みで感想を述べる匠に桜色の双眸が細まり不満げな顔をするエレナ。
「馬鹿にしてませんか?」
「いいや、してないよ。ただ、思っていたのと全く違っただけだから」
あの凶暴無人なナウル、彼を退けた言葉だけあってどれだけ強力で禁忌に触れる言葉なのかと予想していたが、予想外の回答に匠は終始笑いの線路を通り過ぎて無の線路に投げ出された気分だ。
「そうでしたか、なんかすみません・・・・・・」
「気を取り直して最後の質問だ、貨幣を見せてくれ」
ライトノベルの設定と同じであれば、上から金貨、銀貨、銅貨の三種類の名前が上がるはずだ、ルート変更されればお金の単位はもちろんのこと、貴族や金の回り方、経済までもが変わってくる可能性があるからだ。
そうなれば叩くところも叩けなくなる、という訳だ。
「分かりました。いま手元に無い硬貨がありますので口頭で言いますね、小さい単位から銅貨、銀貨、金貨、王貨です」
コーヒーの香ばしい匂いが鼻から抜けたか思えば、受け入れられない現実に戸惑う匠がいた。
事実、王貨の貨幣単位などライトノベルの設定に起用した覚えがないのだ。
「王貨って本当にあるのか?」
「ええ、貨幣単位の中でも一番大きので今は持っていませんが、どうしました?」
「い、い、いやなんでもない」
再度、確認するが回答は変化することは無く置時計の針が聞こえるほどの沈黙が両者ともに流れる。
規模が大きいルート変更が起こり、複数の変化が起こることは確認が取れたが同時にそれは経済面や世界においても根本から物事を揺るがし匠が予測することができないところまで行くのも確かだ。
ただ、気になることは『これでルート変更が終わるのか』どうかだ。
終わらない可能性を見越して今後は今以上に慎重にいかなければならない。
「ありがとう、エレナ。助かったよ」
思考を巡らせるのに一息ついて、匠は協力者のエレナに感謝を述べた。
「当然のことをしたまでです」
エレナは平常心を保ったまま桜色の瞳を匠に向ける。
時計の針が人々の生を刻みながらコーヒー特有の香ばしい匂いを後にし、匠とエレナは太陽が照り付ける外へと再び歩みを始めるのであった。




