3 救世主
「いや~! 来ないで、来ないで下さ~い! てか、来るな!」
男の叫び声が狭い路地に響き渡った。
「ガルルルル」
神崎匠の背後からケルベロスの威嚇する音が鳴り響き、心は死を感じずにはいられなくなり全速力で逃げるその様は、まるで腹をすかせた動物が草食動物を襲っているようにしか見えなかった。
ケルベロスがレンガ造りの壁に右、左と跳躍をし、距離を詰める。対する匠は『走る』しか無かった。
「クソ、なんか手はねぇのか」
自然界の弱肉強食に巻き込まれてしまった怒りで、匠は軽く舌打ちをする。
それもそのはず、匠は先程まで家に帰るべく近道を至高の飲み物であるコーヒー牛乳を口に含みながら入り、いつの間にか異世界移動を果たしいつの間にかケルベロスの縄張りに入っていたのだ。
「俺が何をしたって言うんだよ、ちくしょう!」
ケルベロスに向かい、あいさつ代わりの不満をぶつける匠。その返事を歯ぎしりで返すケルベロス。
右手にはぬるくなったコーヒー牛乳、背には着替えとアニメ化企画資料等々が入っているリュックサックが匠のひ弱な背後を守っていた。
目の前にはゴールとなる光は存在せず暗く、炎の灯りさえもないまま頼れるのは柔らかく青白い月の光だけが微かに、より確実に匠の周辺を照らしている。
刻一刻と迫るケルベロスの牙に、匠の頭は死の一文字が脳裏をよぎった。が、その弱さを何とか心の片隅に置いて策を考え始めた。
今あるのは背中を守っているリュックサックと右手にあるこのコーヒー牛乳のみ。
――俺にどうしろと?
礼儀知らずの神もいるものだなと、匠は冗談交じりに今の現状を受け止める。否、受け止めるしかなかったのだ。
思考回路を目先の先の見えない闇へと向けて、
「いつになったらゴールの光が見えるんだよ、これじゃ俺、死ぬんですけど!」
息が上がり、全身が重くなるのが分かる。呼吸をするのも苦になる。その惨状を身体の疲労で感じつつ、それが臨界点に達して覚悟する。
「スタミナ切れか……」
逃れることができない事実にぶつかり、再度、絶望が滝のように流れ出る。
目線が下を向いてケルベロスの吐息が近くなるのを感じ、両腕を膝についたまま荒げる息を整い始めた。
匠は生きるのを諦めたのだ。
「ハハッ、ここで俺の人生終了かよ。最悪な終わり方じゃねぇか」
その場で大の字に寝転んで無防備を晒し、匠は死を待つ。
しかし、その行いを無視するかのように淡い青白の光が匠を放ってはいなかった。
「光ってる? 出口……なのか」
匠の目線、ギリギリ死角にならない上端に、今にも消えそうな月明かりがぼやけるように映っていた。
「神は俺を見捨ててなどいなかった!」
思わず右手でガッツポーズをし、黒一色で塗りつぶされた匠の心に再び命の光が輝き始めた。
「よし、このまま一気にゴールまで行きますか」
汗だくなTシャツに右手の汗を荒々しく拭うと、匠の顔からは自信に満ちた表情が現れる。
上体を起こし、完全に立ち上がると匠は再度走り始める。ケルベロスもその後を懸命に追う。
「いくらなんでもしつこすぎ」
赤い目が血の色と恐怖と獣特有の匂いをまき散らしながら八つの目が匠の姿をまだ狙ってくる。名はケルベロス、ギリシャ神話において登場する怪物で、多くは三つ首で描かれその容姿から多くのアニメで登場する定番のモンスターであるが、認知する限りそれの首は二つだ。
「俺をそんなに食いたいのかよ、だったらお前にくれてやるよ」
その瞬間、後ろを向いた匠の手から茶色い液体が勢いよくケルベロスの赤い目に降りかかった。
ケルベロスの赤い双眸がおぞましいうめき声とともに匠の視界から無くなる。
「残さず飲めよ、このバケモンが」
臭いセリフを吐きつつ匠はその場を慢心しながら離れようとするが、無くなったはずの赤目が倍になって匠の視界を支配する。
それはまるで仕返しするかのような殺気立った目をしていた。
「クソッ、ケルベロスは一体だけじゃなかったのかよ」
殺気立ったケルベロスに圧倒された匠は後ずさりするが、小石の存在に気が付かず、匠は後ろ向きに勢いよく倒れた。
匠が後ろへ倒れたタイミングを見計らいケルベロス二体が左右に分かれ、匠を捕食しようとする。が、あと少しのところで匠のリュックサックがケルベロスの唾液交じりの牙を防いだ。
「甘いんだよ、この単細胞が!」
今、この現状は決して楽なものではないと匠は分かっていた。
だからこそこの現状を打破するには最大の後ろ盾であるこのリュックサックを手放さないといけなく、しかも数的不利を強いられている。ケルベロス二体の押す力が意外に強く、これでは押しつぶされて終わりだ。考えている暇はないここは決死の覚悟で行くしかないのだ。
途端、匠はリュックサックを左右に振りケルベロスの突進を回避。体勢を整えると、勢いよくリュックでホームランを描くようにケルベロスの顔面を打ち、二体目にヒットした。
八つのおぞましい目が殺気と共に匠の目から消え去り、安堵の表情を浮かべるが赤目の呪いはまたも匠の視界から暗現れ、息が苦しくなるほどの死の体験。
心に刻むように残酷かつ、無慈悲な登場をボロボロになったリュックで受け止めた。
「この野郎、いい加減くたばれってんだ!」
自分の指揮が下がる前にどうにかしなければならない、ケルベロスがリュックをいつ貫通して身体に到達するのか、その恐怖だけが匠の心を動かし行動させていた。
捕食しようとするケルベロスの吐息を封じるよう匠はボロボロのバックを押し付け、ケルベロスの顔面を思い切り地面に叩きつけた。
両足をジタバタしながらもがくケルベロス。それを見据えた匠は急いで光ある方向へ飛び込む。
その場所は、草原となっており戦闘にはもってこいの場所だった。
辺りは三メートル以上ある木が周りを取り囲み、下は雑草が地面の色が見えないくらいに緑が生い茂り、空は夜だが月の光と星々によって周りの状況を把握することができた。
背後から草をかき分ける音が夜の静けさをかき消すように匠の聴覚を刺激し、その音は複数となり左右に分かれる。
「チッ、これじゃ……死ぬ」
足が震え、手も同時に震え始め、服はまるで海にでも投げたように大量の汗を吸収していた。
心臓の鼓動が匠の前向きな気持ちを破壊し、死を意識させていく。精神的にも体力的にも匠は限界だった。
ケルベロスの唸り声がすぐそこまで迫って、
「死ぬなんて御免だ、痛いのは嫌なんだよ!」
匠は話が通じぬ相手に訴えかけていた。
死が迫りくる中、必死の抵抗をするがケルベロスは問答無用で匠を捕食しようとその歩みを進める。
ケルベロス三体が匠との距離を四メートルに縮めるその時だった。
「……よ、力を開放し彼のものを災厄から守りたまえ」
匠の前方から人影が見えたかと思えば、それは眩い光の波となり地面を抉りながらケルベロスを飲み込んでいった。
「美しい……」
匠は黄金に輝く波動の美しさに惚れ惚れし、胸の高鳴りが止まないまま瞳を光らせていた。
波の衝撃波で木々が激しく揺れ動き、匠は前方に勢いよく押し出されそうになったが、人間の手に襟をつかまれ何とか匠は持ちこたえている状況だった。
衝撃波が止んだと同時にケルベロス三体が力なく倒れているのが匠の視界に映る。
「なんだあれ……」
それもそのはず、匠にとってケルベロスは、今まで出会ってきた生物の中で最強のはずだ。しかし、先ほどの眩い光に包まれた瞬間にあっけなく倒れていたのだから驚くのも無理はない。
「クラウ・ソラスの光によって気絶しているだけです。先ほどの攻撃は魔物のみにダメージを与えるものを調節して死なないようにしただけで、人間に害は一切ありません」
その言葉には時間という概念を停止させるような力があった。正確には時が止まった、と言う方が今の匠にはしっくりきていた。
襟をつかんで今も離さぬ少女を匠は凝視した。
身長は百六十センチ。腰まである髪は太陽のように赤く艶やかで結ばれることなくその輝きを保ち、服装は西洋の白い鎧に胸元にはエメラルドグリーンの宝石が埋め込まれ、黄金のマントからはその強さが本物であるかのように圧倒的な存在感を有していた。
瞳からはとても柔らかな印象を与え、少女とは思えないほどその立ち姿は美しく大人の顔負けのスタイルだった。
「お怪我はありませんでしたか?」
再び彼女は言葉を紡ぎ、左手に掴んでいる匠の襟をそっと放す。
「いえ……大丈夫です……」
その圧倒的な存在感と恋という名の運命を心に感じながら匠は言葉を返したが、彼女の澄んだ瞳に吸い込まれるように匠の意識がそれに集中した。
「私の名前はエレナ・アイ・リブートと申します、気軽にエレナとお呼びください。あなたは?」
右手をエメラルドグリーンの宝石に添えて丁寧にお辞儀をするその姿は一流の騎士そのものだった。
エレナの自己紹介で匠の意識が戻りその場で正座したまま慌てて匠は名を名乗った。
「自分は神崎匠と言います」
「神崎たくみ……聞いたことが無い名ですね、それに見たことが無い服装……。何者ですか?」
エレナは艶のある赤髪を左右に揺らし疑問を匠に向かって投げかけた。
匠の服装を不思議そうに見るのは問題にはならないが、服を触りだしたのは非常にマズい。
「これは何でできているのですか? 触り心地といい、作りが気になって仕方がありません!」
エレナの白い鎧が匠の体に密着し、体温が上昇するのを首元で感じつつ慌てた様子で匠は返答した。
「ビックリするかと思うけど俺、じつは異世界から来たんだよね」
言ってしまった感は否めないが、一度は言いたかったセリフなのだ。心の中でガッツポーズする自分を想像しつつ匠は目の前のエレナに視線を向ける。
が、その反応は耳を疑う結果となり現れた。
「異世界から、そうですか。なら辻褄も合いますね」
エレナから身体を触られるご褒美ならぬ理性崩壊行為が自然と収まり、匠はその言葉にツッコミを入れる。
「いやいやいや、もっとあるでしょ違う反応が!」
異世界への期待がジェットコースターのように下っていくのが分かり、匠はその場で石ころを蹴飛ばした。
「と、言われても……」
エレナは顔のしわを寄せつつ指を顎に乗せて考え、匠はそれを凝視し満面の笑みで悟りを開くと、
「これで良いんだ」
「なんか言いましたか?」
「いいや、何でもない」
「何ですか?その顔、おかしいです」
二人の笑い声が広い草原に響いた。
「ところであの魔物、殺さないのか?」
匠のどことない発言はエレナを迷わせ、不安めいた表情で匠を見つめていた。
「あの……驚かないで聞いてください。私は、生物を殺さないんです何があっても、絶対に」
「分かった、魔物は諦めるよ。素材をもらっていこうと思ってたんだが、まあいいや」
「人類の敵だとしても生きてますから。暗いですし、行きましょうか」
「何処へ?」
純粋な疑問と共に投げられた問いに対し、エレナは自信ありげに言葉を口にした。
「リブート王国ですよ」
月の光に映し出される二人の影が森林に消え、匠には真実、エレナには紅色の剣がそれぞれ待ち構えている試練を予期していた。