2 主人公
AS文庫編集部
「真司くんから聞きましたよ!」
「し、知りませんよ」
広々とした空間の中、長机を前に匠は正面の女に問い詰められていた。
「とぼけても無駄です! 証拠は出ていますよ、いい加減同業者イジメはやめてください」
「野崎さんいい加減やめません? 時間の無駄ですよ」
「真司君の前のイラストレーターだって貴方が原因で辞めたんですよ?」
「野崎さん、そんなことしてるとまた嫌われますよ?」
「わたしは・・・・・・」
力なく野崎は自問自答することしかできなかった。
野崎彩花
二十九歳、AS文庫編集部所属。会社歴六年。
世に送り出した代表作「銀郎の花束」「英雄伝」「さよなら心臓」だ。
匠を陰で支え、同時に他会社やアニメ会社の中継役としても起用されている。
AS文庫編集部、期待の新星である。
彼女は昔から正義感が強くお人好しで面倒見が良く、小学校の卒業文集での将来の夢は「人の役に立つこと」だった。
そのせいか学校の友達は孤立している生徒が多かった。
野崎の正義はイジメが収まるどころか火に油を注ぐ事がほとんど。友達からは気味悪がられ、イジメの被害にあうことも日常茶飯事。
次第に彼女の周りには誰も寄り付かなくなり、野崎は気づけば浮いた存在になっていった。
この判断は正しいのだろうか・・・・・・
また孤立するのではないか・・・・・・
そんな言葉が野崎の脳をぐるぐるとループした。
「それでも・・・・・・」
野崎は細々と心の中で決心する。
善と悪は共存できない、それは野崎自身が一番見てきた事だ。それが出来ずに何が期待の新星と呼ばれようか。
野崎はピンクの眼鏡を右手の人差し指でクイッと上げながら口を開いた。
「あなたの行いは一人の人間として決してやってはいけないことです。」
野崎はキッパリと言い切る。
匠もすかさず反論の意を唱えるため唇を歪める。
「野崎さん、俺はこれがイジメだとは微塵も思っていませんよ」
「だとしても、片方が不快感を覚えればそれはれっきとしたイジメになります」
野崎の声が力強い声音が編集部の部屋にこだまする。
沈黙がふたりを包み込む。
その沈黙を溶かしたのは――
「それ、あなたに関係ありますか?」
――匠だ。
正義感と比例して悪も強くなる、コレが現実だ。その事実を噛み締めて時が流れていく。
「それは・・・・・・」
「確かにあなたは自分とあいつの担当者ではあるが、結局は俺とあいつの気分や今後の仕事次第で決まるものであってあなたが決める事じゃない。」
野崎は正論を浴びた。ただそれは化けの皮を被った悪なのだと野崎は既に分かっていた。
野崎の頭に再び「イジメ」の三文字がぐるぐると脳内を一周し始める。
――今度は迷わない。
野崎の固く決意した意思は気持ちから心に、心から言葉に自然と移っていた。
「確かに先生がおしゃったことは正しいとは思います。しかし、一人の人間としてイジメが起こっているのなら止めなければならない義務があると私は思うんです。」
「へぇ~それで~?」
匠が軽く言葉を返す。野崎にはこの言葉が重力のように心を拘束する道具のように思えていた。
二人の沈黙が再び動き出す。
下を向いたまま唇を噛み締め、両こぶしを強く握り締める野崎。
腕組をし、余裕の笑みを浮かべる匠。
………………。
どれだけの時間が経ったのだろうか、ふと匠は冷めかけているコーヒーカップに手を掛けながら考えた。
十分、二十分、どれくらい経ったのだろうか? いつまでこんなくだらない話に耳を貸さなければならないのか? そのことだけが匠の冷めかけているコーヒーの様な思考を動かしていた。
匠は冷めたコーヒーを口にした。
コーヒーカップの置く音と同時に、野崎が下を向いたまま口を開く。
「あなたはイジメを何とも思わないのですか・・・・・・」
「思うところはありますよ? 被害者にも問題がある事とかですかね?」
その瞬間野崎は自分の耳を疑い、怒りの感情が徐々に湧いてくるのも分かった。
抑えなければならないのは十分承知だ。だが、野崎の手は自然と机を強く打ちつけていた。
「それでは被害者が・・・・・・真司君が報われないじゃないですか!」
「別にあいつが報われなくても俺には関係無い」
「なんで・・・・・・」
「なんでって、さっき言いましたよね? 関係ないんですよ。俺にとっては」
「何であなたはそこまで酷いことができるのですか・・・・・・」
野崎は目に涙を浮かべていた。
「じゃあ、何であなたはここまで他人に涙できるんですか?」
「それは……」
野崎の頬から涙が流れ落ちる。
「あなたが居ても何も出来ない」
野崎の心をえぐるように匠はつぶやきながら、会議室のドアノブに手を掛けた。
その瞬間、ドアの前から女の声がした。
「誰が悪役のアニメ化を進んで観たがると思う?」
キッパリと言い張った声音は、右手を使いドアノブを静かに回して人影を強めていく。
「キィ」と金属特有の擦れる音が会議室に響き、ふたりの緊張感を高める。
野崎の前には書類をこれでもかと両手いっぱいに抱えているスーツ姿の女がドアの前に立っていた。
「へ、編集長。なぜ此処にいるんですか?」
先に口を開いた野崎は、あまりの予想外な女の登場に疑問を投げかけた。
「とりあえず、その涙を拭きなさい。かわいい乙女には似合わないものですよ」
「す、すみません」
頬の涙をハンカチで静かに拭く。
女は長机に向かい前進し、両手いっぱいの資料を雑に置くと野崎の問いに答え始めた。
「部下よりも先に来ない上司が居るの? だとしたらそれは、上司の皮を被った偽物だと私は思いますが、野崎さんあなたはどう思います?」
「いえ、私も編集長の意見は正しいと思います」
女は、野崎の答えに満足したのか軽く微笑んだ。
佐山梨花
三十二歳、AS文庫編集部編集長。
若くしてAS文庫編集部の編集長まで上り詰めた天才である。そしてこの会社の最高責任者だ。
主な代表作品に「ドールズたちの墓場」「オオカミ様は喜べない」「ラストプラン」などの名作を世に送り出している。
性格は頼れる姉御系でクール。時々出る天然が彼女を邪魔をするが、彼女自身は全くと言うほど気付いていない。
見た目の方は、モデル体型とそれに似合わない豊かな胸がふたつあり肩まである髪は、ポニーテールで綺麗に纏められている。
その姿は誰が見ても仕事のできる女、そのものであった。
「佐山梨花……」
匠は唇を強く噛みながら呪う様に、その名を口にした。
「さて、野崎さんとの話も終わったところですし、次はあなたの話を聞かせてもらいましょうか工藤レン先生。いや、神崎匠さん?」
佐山は野崎から見て一番左、周りを一望できる社長椅子に静かに腰を下ろした。
「神崎匠さん、まずは立っていてもなんですから座ったらどうですか?」
佐山は神崎匠からの視線を、自分から左手の先の椅子へと誘導する。
刹那の時間、沈黙が流れた。
それにシビレを切らしたのか、匠は面白くなさそうな顔を見せながら渋々と小声で応じる。
「……分かったよ」
匠が座り終わるのを見て、佐山は口を開いた。
「それでは神崎さんも座ったところで、さっきのイジメについてあなたの意見が聞きたいのでどうぞ、このスマホに話してください」
佐山の左ポケットからウサギ耳のスマホカバーが、匠を覗いていた。
「まさか・・・・・・録音するつもりですか?」
匠にはこれが何を意味しているのか数秒も経たずに分かった。
匠は、額に冷や汗を浮かべながら必死に弁論を重ねようとするが、佐山の人差し指が匠の唇の動きをストップさせた。
「何を焦っているんですか? 早く話してください」
「……焦ってなどいませんが?」
傍から見ても匠の言葉は嘘としか言いようがないくらいにわざとらしかった。
その反応から佐山は匠を脅すように鋭く、しかしやさしく言葉を切り込んだ。
「大丈夫ですよ、貴方との契約解除に必要な証拠にするだけですから」
俺にとっては大丈夫じゃないんだけど、というか完全に積んでいる。あの女だけは苦手だ。
「は~」というため息と共に首を左右に揺らし、自分の椅子を佐山に向けてニヤニヤしながら匠は口を開いた。
「いや~降参、降参、まさか佐山編集長が来るとは予想外でしたよ」
「それはそれは、不幸でしたね」
軽くあしらう様に佐山は言葉を返す。
それもそのはず、佐山からしたらこの一件は問題にすらなっていない出来事に過ぎないのだから。
笑顔でこちらを見つめる様子から見れば、佐山の心理を読むくらい匠にとって難しいことではなかった。
この笑顔から察するに――
「はいはい、分かりましたよ。言いますって、言えばいいんでしょ。なんで真司をイジメたのかを!」
「ずいぶんと素直じゃないですか、匠さん」
「そりゃどうも」
嫌味を含ませた返事をする匠を、楽しそうな表情と共に絹のような佐山の黒髪が揺れ動いた。
一年前――
春の季節を感じさせるような温かい日差しは、常に神崎匠を新しいステージへと誘ってくれる。
制服をいつも以上にしっかりと着こなし、おまけにいつもは堅苦しくて留めていなかったブレザーの第二ボタンも、今は付けている。
心臓の鼓動が早くなりそれは行動にも反映され、徐々に歩行がぎこちなくなっていくのが分かった。
それは匠から見て右隣の野崎が見ても当然の如く認知することができた。
「緊張しているんですね」
「はい、緊張してます。こういうのには慣れてないんです」
その問いにはにかむように答える匠、それを隣でクスクス笑う野崎。
続けて野崎は口元を緩ませながら匠の表情を伺いつつ、言葉を優しく投げかけた。
「大丈夫ですよ。少しばかり天然が混じってますけど根はいい人ですから」
「そうですか。なんか色々とありがとうございます」
少々言葉を選びつつ匠は小さくその場で会釈し、足取りが軽くなったのを実感しながらまた、歩き出した。
「噂をすれば、ほら居ましたよ」
匠の前方右側にその女は立っていた。
肩まである黒髪は陽の光に魅せられ宝石のようにキラキラと輝き、凛としたブラウンの瞳からは吸い込まれるような美しさを醸し出していた。
佇まいからは大人のデキる女を匂わせ、スタイルもモデル並。
「予想外だ……」
匠は思わず心の声が出てしまう。それもそのはず、匠にとって目の前の女は四葉のクローバーと等しい当たりだったのだから。
編集部のイメージは、匠にとってオタクの集まりでしかなくそこに美は無いものと思っていたからだ。
隣人の小声を掴めずに野崎は、匠の右耳にそっと問いを投げかけた。
「どうかしましたか?」
「編集長がこんなにも……美しい方だなんて思ってもみなかったので、ビックリしただけです」
顔をリンゴのように赤くしながら匠はひとり、春の訪れを感じていた。それを隣で見ていた野崎は『後で編集長に伝えておきますね』とだけ一言返してから歩みを進めていく。
「いまなんて言いました?」
あまりに唐突な発言に、匠は考えなしに聞き返してしまう。が、それの返事を返さずして野崎の靴は前進しながら右、左と歩みを刻んでいく。
心の中で恨みの藁人形にくぎを打ちつつ、匠は羞恥と焦燥の念に駆られて前進する野崎を右手で止めようとしたが、時すでに遅し。
「連れてきましたよ、編集長」
歩みを二人とも止め、淡々と野崎は要件を言葉にし編集長に伝える。
同時に匠の視界が彼女を大きく捉え、顔が更に赤みを増していく。
「……」
窓越しに差した陽は、彼女の艶やかな黒髪をより一層引き立て、ブラウンの瞳は真っ青な空を映し出していた。
雲一つない空を見上げる彼女に、野崎が声を掛ける。
「編集長?」
「……」
「佐山梨花、編集長!」
佐山の右耳に残るように大きな声で野崎は佐山のフルネームを叫んだ。
「野崎さん!?」
佐山の肩がビクッと反応したかと思えば、反射的に野崎の名が喉から力強く発声された。
余程の事だったのか、佐山は眼を点にしたまましばらくボーッと野崎の瞳を凝視。それを手前で見ていた野崎は自分がやり過ぎてしまったことへの非を詫びた。
「す、すみません編集長やり過ぎてしまいました。自分の感情で動いてしまい、申し訳ありません」
謝るたび野崎の三つ編みが忙しなく上下左右変則的に揺れ、その様を緊張感の走る中見守るのは匠だ。
「日向ぼっこってこんなにも気持ちが良いものなんて知らなかったな~」
あまりに意外な佐山の反応に、頭を動かす野崎の顔からは呆れた表情が見える。
あれ、こんな人だったのか。と、少し見た目に対しての差に幻滅しつつ目の前にいる満足げな佐山に挨拶をしようと緊張しながらも唾を飲み込んむ匠。
佐山と匠の間に割って入るのは野崎の呆れた声だ。
「あの、左に工藤レン先生がいらしてますが……」
「ああ、分かっていましたよ。あなたが工藤レン先生ですね話は野崎さんから聞きましたよ、佐山梨花です。これからよろしくお願いしますね」
佐山の回答に少し疑いの目を向ける野崎、今までの雰囲気とは違い右手を匠に差し伸べる佐山。
「神崎匠です。よ、よろしくお願いします!」
差し伸べられた右手からは佐山の笑顔が太陽の陽に照らされ、その笑顔に引き込まれるように匠も右手を差し出し握手を交わす。
温かく柔らかい感触が右手に伝わり匠はその場で『それ』を楽しみ、佐山は苦笑いで余計に長い握手の時間を待っていた。
「あの、もう離してもらってもいいですか?」
佐山の発言に妄想から引っ張り出された匠はとっさにその手を放し、顔が火照る。
「すみません……」
佐山は頭を抱え、スーツ裏の胸ポケットから『作家の扱い方』といういかにも怪しいメモを見ながら、険しい表情を浮かべていた。
「え~と、工藤レン本名神崎匠は執筆活動を始めてわずか半年で、今では大人気作品である『メモリーライト』AS文庫新人賞にて大賞を獲得する。好きな食べ物は肉、嫌いな食べ物はトマト、趣味はナンパと映画鑑賞、好きな女子のバストはGカップで家族三人構成だが、今は一人暮らし。好きな科目は体育、嫌いな科目は数学であるっと」
淡々とロボットのように喋る佐山に先ほどまでの挨拶の雰囲気はなく、春風が吹いていた匠の心はいつしか吹雪が周辺を覆う様に降り積もっていた。
それに追い打ちをかけるよう野崎はニヤニヤしながら矢を射る。
「ちなみに、佐山編集長はこう見えて既婚者なんですよ」
それを聞いた匠は、思いのはけをはけをこれでもかと天井に向かい声を張り上げた。
「俺の青春を返せ~!」
「ではどうぞ、話してください」
なぜ一年前の記憶が再生されたのかは匠には解らないが、佐山は短時間で家族構成や個人単位でしか分からない情報までも入手してくる。それが一番彼女の厄介なところでもあり、長所でもあるのだ。
思考を巡らせる中で佐山の冷静沈着な声が重荷となり匠にのしかかってくる。それは嘘偽りの戦意喪失を意味していた。
「今から話します」
その言葉を皮切りに、匠は事の発端を佐山に話し始めた。
♦ ♦ ♦
夜十時、闇夜が人々の視界と社畜達の暗い気持ちを覆う中、神崎匠は先ほどまで行われた佐山の事情聴取とメモリーライトのアニメ化会議での不満を漏らしながら、暗い帰路を歩いていた。
「まったく、二時間みっちり説教とは昭和の鬼教師ですかって、そこからまた二時間会議だとか頭がおかしくなりそうだったんだけど」
匠は不満をこぼし、先ほどコンビニから購入したコーヒー牛乳で喉を潤す。
街灯が匠の影をしっかりと映したかと思えば影は闇の中に消えていき、匠自身もそれを観察した。
「なんか起こりそうな雰囲気してるし怖いな、俺一人だけしか人いないし」
それもそのはず、ここは都市部から離れているうえ住んでいる人口も少数なのが相まって平日はこうした光景に出くわしやすいのだ。
「なんか今日はやけに暗いな、気のせいなのか?」
静寂と暗さ、恐怖が匠の心を撫でてくる。速足で匠は近道のある場所に逃げ帰るように入っていった。
そこはマンションとマンションの間にある近道で、人間二人がやっとのこと並んで入れる広さだった。
「狭いけど我慢だ。ここを通れば早く人通りの多い道に出られるし、駅にも近くなるから一石二鳥だ」
身体を預けて狭い路地をライトなしで歩く。頼りなのは、上空で光る星空と月のみ。
街灯一つない通路を真っ直ぐ進むなか、匠は違和感に気付き始めていた。
「あれ、なんでタルがあるんだ?」
「それに、壁の感触もレンガみたいにデコボコしているし、なんなんだよ」
頭が混乱し始める匠は落ち着くため顔を真上に傾け空を視界に入れ、次の瞬間唖然とした。
今の今まで頼りにしていた月が、二つありそのうちの一つが平然とエメラルド色の輝きを見せつけていた。
この時、神崎匠は異世界移動を果たしていた。