9.伯爵令嬢、一息する。
「・・・・・・久しぶりね。ここも」
路地裏で黒い人影が見えた瞬間、私の意識は暗転し、目の前には私の部屋が広がっていた。柔らかな色の天蓋付きベッドに、樫の木から作られた装飾付きの机、天井の照明が光り輝き、部屋全体を仄かに照らす。これらの家具は全て、伯爵領でも人気の家具屋が手がけた一級品。
「・・・・・・ふぅ」
いつもと変わらない部屋の光景。しかしそれはシアの作り出した幻想の空間だ。
彼女はいつも、私を狙う輩に出くわすと必ずこのように私に幻惑術を掛ける。その瞬間私の意識は暗転し、彼女の作り出した幻の空間に意識的に飛ばされるのだ。なぜそんなことをするのか、と問えば彼女曰く、
「お嬢様を危険な目にあわせるわけにはいけません。それが例え精神的にでも、です」
要するに、シアは私に気遣っているのだ。
別にそんな気を使わなくてもいいのに、と思う。シアは誰も傷つけることなく襲撃者たちを撃退しているらしい。さすがに私だって命を狙われたら怒るのだ。多少、シアに痛みつけてもらっても怒らない程度には。
どちらにせよ、シアは私を気遣ってくれている。ならば、私はシアの申し出を拒否することはできない。私は疲れを吐き出すように大きくため息を吐いて、ベッドにダイブした。ボフッと音を立てて、毛布が私を受け止める。どうせ待たされるのだから、せいぜいゆっくりさせてもらおう。そう考えた私はゴロン、と寝転がり仰向けになった。ベッドの天蓋を見上げ、あの襲撃のことについて考える。
「シアの実力から言えばあの程度は問題ないのだけれど・・・・・・」
初めにシアの身の安全を考えて思案するが、世界がひっくり返ってもシアが後れを取るとは思えず、苦笑する。世間では大抵のメイドは戦闘訓練を受け、戦うことができると聞いている。今までだってシアは襲撃から私を守ってくれたし、結果的に私が傷つけられたことは一度もない。実際、何度か屋敷でシアの稽古を見たことはあったが、私と同じ人であることが信じられないほどだった。
しかし・・・・・・。
「ナーギ・・・・・・」
私はナーギと名乗る人間の安全を考えて目を伏せる。昨日、突然私は海を見に行きたいと思い、シアを連れて海まで行った。何故かはわからない。しかし、突然海に行きたくなったのだ。果たして、それは偶然だったのか、私の訪れた海には彼が打ち上げられていた。波が赤く染まる程の血を流し、腕や足はあらぬ方向にねじ曲がっていた。
初めて見た、あれほどに血を流す人間の姿を。
初めて見た、あれほどに歪な人の姿を。
初めて見た、あそこまで死に近づいた・・・・・・人間の体を。
それらの『初めて』は、今まで人の優しさや強さに守られているばかりの私を恐慌状態に陥れるには十分だった。結果、半狂乱になって私は彼を助けたが、未だにあの印象は拭い切れない。
彼が治療されている間も、私は何も考えることができなかった。彼の無残な姿を見て、『助からなかった』という知らせを聞くことが嫌だった。だから、彼が一命を取り留めたという知らせをシアから聞いた時は内心とても安心した。
「・・・・・・ふふ」
今日のやり取りを思い出して、私は微笑を浮かべる。伯爵令嬢である私に、友達と言える人はいない・・・いや、少ない(と信じたい)。だから、ナーギとのやり取りは単純に楽しかった。シアのような従者たちや、私と同じ令嬢たちとは違う。主人と従者と言う関係や、互いの立場を尊重しなければならない貴族たちとは違う。何の障害もなく、語り合うことのできる相手。私にとってナーギの印象は衝撃的であると同時に、私が渇望していたそれだった。
シアは、とても警戒していたけれど。
「一緒に、いたいなあ」
思わず、そんな言葉が口から洩れてしまう。私の年齢からすれば、求愛の言葉にでも聞こえてしまうのかもしれないが、私が求めているのは、『友達』・・・・・・まさにそんな関係なのだ。
でも、時間が経てば部外者であるナーギは屋敷から出て行ってしまう。あそこまで私が気安く話せそうな人間は、いなさそうだったんだけどなあ・・・・・・。
・・・・・・あれ?部外者?
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
ドアが開く。幻惑術終了の合図。どうやらシアが片づけたようだ。
「ん~」
ベッドの上で一つ伸びをして、私は床に降り立った。そのまま、笑顔を浮かべてドアまで歩いていく。先ほど頭に浮かんだアイディアを頭の中で転がしながら、私はそのままドアをくぐった。




