(7)紅色の天使の心情は
この国の第二王子であるユーステス樣が他の令嬢と婚約した事を知ったのは、つい半年前の春の事だった。
アステルお兄様と一緒にチェスをして遊んでいた午後の事。
一時間ほど前にサロンの準備で王宮へ出掛けていたはずのお母様が、慌てて屋敷に戻ってきた。
いつも元気で笑顔を絶やす事のないお母樣なのに、この時だけは涙を堪えるほど唇を噛みしめて悲しい顔をしていたので、私達兄妹は思わずギョッとしてしまった。
そしてお母さまが私をいきなり抱きしめては「辛いかもしれないけどよく聞いてね…」とそのまま告げた衝撃的な事実に、私が長年温めていた夢は粉々に打ち砕かれる事となった。
あの時ほど、事実を受け止めたくないと思った事はなかったと、今でも思っている。
*****
私ことローズ・ド・モンテスキュー伯爵令嬢は、社交界の花形であるお母様の美貌を受け継ぎ、『紅色の天使』と周囲の人間に褒め称えられながら育てられた。
燃えるような紅色の大きな瞳、雪のように真っ白なキメの細かい肌、愛らしいピンク色の唇、形が整っているスッとした鼻筋、赤みのある長い茶色の髪。
どれをとっても美しいと男女構わず賛美された。
特に、幼少期のお母樣の姿を知っている年配の貴族の方々は、「将来は母親に似て美しい女性となるだろう」と私を見る度に呟いていた。
そのためか、私は大人になったらお母様のようにもっと美しい女性になるのだな、と周囲の声をあまり疑う事なくそのまま成長した。
実際、私が美しく成長するにつれ縁談をいち早く儲けようとする貴族の申し入れは年を重ねるに毎に増えていった。
そして、私が8歳になった頃。
お兄様が10歳になり、その年になって初めて参加する事が許可される貴族子息の親睦会で、私はユーステス・ヴェルエステ第二王子に出会った。
付き添ってほしいという兄の頼みを断れず渋々参加した私だったが、今となっては兄の頼みに対してとても感謝している。
そのおかげで、彼と出会う事ができたのだから。
今でも、出会った彼の事はよく覚えている。
どうしてかって?
理由は、とても単純。
だって、私は一目見て彼の好きになってしまったのだから。
*****
お兄様と同い年で、とても美しいらしい銀髪碧眼の王子様。
よく参加していた友人のお茶会に、度々噂される王子様。
友人の令嬢達はその話が出るたびに頬を赤くしてはしゃいでいたが、私はそれまで自分の兄と並ぶ事ができるほど美しい人を見た事が、一度もなかった。
よって、友人達には申し訳なかったが全くと言っていいほど噂を信じていなかった。
だが、紅色の瞳に入れた実物の彼は、想像を超える美少年だった。
光の当たり具合によっては美しい白色を放つ綺麗な銀髪。
右分けのためか左の目に少し髪がかかっているものの、一目見ても端正な顔立ちをしているのは明らかだった。
長い睫毛も私より長いのではないかと思うし、切れ長の形の整った目に氷のように薄い青色の瞳はガラス細工のような印象を受ける。
褐色の肌は周りと違っていて不思議な感じがしたが、それを差し引いても美しい王子様に変わりはなかった。
まさか、お兄様と同じくらい美しい人がいたなんて…。
あまりの美しさに、私は彼をずっと見つめてしまう。
ずっと見つめてしまったせいか、王子様と目が合ってしまった。
条件反射で、傍にいたアステルお兄様の後ろに隠れる。
でも、王子様は私の行動とは対照的に軽く微笑みながら、私達兄妹に近づいてきた。
「初めまして。僕はユーステス・ヴェルエステと申します。君達二人は初めて見る顔ですね。今回が初めてなのですか?」
「は、はい。僕はモンテスキュー伯爵家の嫡男、アステル・ド・モンテスキューと申します。どうぞ、以後お見知りおきを…。」
王子様の優雅な挨拶に押されつつも、お兄様もまた丁寧に挨拶を返す。
人前に出る事を恐れるお兄様だが、そんな事を感じさせないくらいしっかりとした挨拶だったので胸をなでおろす。
「こちらこそ、よろしくお願いします。こちらの美しいレディは、君の妹さん?」
首を傾けて私の顔を覗き込む王子様。
しかも、これまた美しい微笑みで近づくものだから、思わずドキッとしてしまう。
「はい。妹のローズです。ローズ、ユーステス樣にご挨拶は?」
心臓がやけにドキドキしている。でも、相手はこの国の第二王子だ。
失礼な娘だと思われないよう、ご挨拶はきちんとしなければいけない。
お兄様に前に出るように促され、私はおずおずとユーステス樣と対面する。
「お初に、お目にかかります。私はローズ・ド・モンテスキューと申します」
ドレスの裾を軽くつまみながら、深々と頭を下げて挨拶する。
それから、王子様の顔を再び見ると嬉しそうに微笑んでくれた。
「君が噂の『紅色の天使』みたいですね。確かに、この美しさは桁外れだ。
兄である君も妹さんがこんなに綺麗だと安心はできないね」
「ええ、そうですね。確かに―――」
正直、それ以降の二人の会話はよく覚えていない。
というのも、王子様の言葉が強烈すぎて私の思考回路はすでにダメになってしまったからだ。王子様の言葉が、何度も何度も頭の中に響いて離れない。
まるで、口の中にいつまでも残るチョコレートのように甘く、私はこの感覚がいつまでも続いてほしいと願っていた。
ちなみにお兄様にも成果はあったようで、この親睦会でクラウディア家の嫡男であるイヴァン・クラウディアを友人として得る事ができたそうだ。
イヴァン樣もお兄様と王子様に並ぶほどの美しい人で、最初に見た時は男装をしている美少女だと勘違いしてしまった。
でも私だけでなくお兄様も勘違いしていたらしく、加えてイヴァン様も私達を兄妹でなく姉妹だと勘違いしていたそうなので「お互い勘違いしていたんだね」と笑い合い、そこからはすっかり仲良しになっていった。
お兄様は人前に出る事をある時期から急に恐れるようになっていたので、友人ができないのではと両親は心配していたが、それは杞憂に終わりそうである。
本当によかったわね、お兄様…!
*****
それから、私は王子樣に会うために王宮に行く事が増えた。
最初の頃は「王子」と敬称で呼ばせてもらっていたが、やがて「ユーステス樣」と呼んでも構わないと言われたので、そのままご厚意に甘える事にした。
それに、私が来るのを拒む事なくいつも優しく迎えてくれていたので、周囲の人達はユーステス樣の対応から推測し「あの二人は本当にお似合いだ」「婚約するのも時間の問題だ」ともてはやすようになった。
より親密になると、お身体に触れる事も許してくれるようになったので、ますます私が婚約者になるだろうという期待は高まる一方だった。
私自身も、ユーステス樣の婚約者になれると本気で信じていた。
お母樣もかつては現国王の婚約者候補の一人だったので、伯爵家の私でも望む事は可能だ。
周囲の子どもから大人まで、私がユーステス樣の婚約者になるだろうと期待していた。
そう、ユーステス樣が婚約者を迎えるまでは。
ユーステス樣が私ではなく別の令嬢と婚約してしまったものだから、私も周囲の人間も驚きすぎて、状況を理解できていなかった。
件の婚約者は、イヴァン様の家の本家筋に当たるご令嬢だった。
過去に妃を輩出した事もある家柄らしく、悔しいけれど身分に関しては申し分ないし、負けたと思った。
これで私より美しく、聡明な女性だったら渋々だけど納得くらいはしていたと思う。
しかし、周りから聞く婚約者の噂は悪いものばかりだった。
噂によると、ユーステス樣の婚約者になった令嬢はあのお優しいイヴァン樣が婚約を持ち掛けられても即決で断るほど、傲慢で我儘らしい。
実際、従兄弟の間柄でもあるイヴァン樣は、以前から彼女の事を好ましく思っていないご様子だった。
しかも、そのご令嬢はあろうことか無理やりユーステス樣と会わせるように要求しただけでなく、失態をついてお茶会をダメにしたそうではないか。
それなのに、婚約者としてユーステス樣の隣に居座るなんて。
いくら傲慢で我儘でも、限度ってものがある。
それとも、限度ってものを知らないほど愚かなのだろうか。
噂を聞けば聞くほど、そして考えれば考えるほど、怒りがこみ上げていった。
しかし、私は噂自体を完全に鵜呑みにして信じる事はできなかった。
まず、本人にも会っていないのに悪い奴だと決めつけるのは流石に良くない気がした。
ユーステス樣は、誰もが結ばれたいと夢見る王子様だ。
そして、その座に誰かが就くとなるときっと他のご令嬢からの嫉妬から、悪い噂の一つや二つは嫌がらせで生まれてくるのは容易に想像がつく。
仮に彼女ではなく私が婚約者の座に就いたとしても、きっと同じ現象は起きていただろう。
それに私自身、ユーステス樣に会うまで彼を褒め称える噂を本気にしなかった経緯もある。
私だって、噂の持つ不確実性くらいは理解しているつもりだ。
心情的にはかなり憂鬱で辛かったが、それでも己の目できちんと確かめるまで、私はあえて平静を装って過ごす事を決めた。
*****
婚約者を迎えた身になったせいだろう。
ユーステス樣に会えない日が三ヶ月を迎えて悲しみ落ち込んでいた頃、イヴァン様から思わぬ情報をいただく事ができた。
どうやらユーステス樣が婚約者を設けた理由は、驚く事に「魔力の制御」に必要な人財を確保するためだったそうだ。
ユーステス樣と彼女の魔力の相性がよかったため、できるだけ会える機会を作るために、ユーステス樣が彼女を婚約者として手元に置く事を決めたらしい。
なので、決して恋愛的な面で決まった婚約でなく、むしろ制御を目的として決めた打算的な婚約なので、ユーステス樣の魔力の制御が上手くいけば、私が婚約者にとって代わる可能性は十分にあるとも教えてくださった。
本日モンテスキュー伯爵家にやってきたイヴァン樣は、黄緑色の瞳をわずかに光らせながら私に一つの提案を出してきた。
「僕の見解からして、従姉妹は王族の婚約者として相応しくないと思う。
むしろ、ローズ令嬢。
君の方がユーステス樣王子の婚約者でいる方が僕も周囲も納得できる。
ここ半年間、君はユーステス樣に会えなかったと言っていたよね?
それは、ユーステス王子が制御のためにクラウディウス邸を訪問してるからだ。
でも、思ったよりも成果が出ているらしいから、もう少し経てばきっとユーステス王子は完全に魔力を制御できるようになるし、クラウディウス邸に行く理由も彼女を婚約者にする理由もなくなる。
そうなれば、きっとローズ令嬢にまた会いたいと思い始めるよ。
でも……やっぱり会えないのは寂しいよね?
うん、そうだよね。
だから、これからは僕がユーステス王子に会えるように手配しようと思っているんだ。
どうかな?もし君が嫌ならこの提案は忘れてもいいけど…」
イヴァン樣は思った以上に策略家だな、とお兄樣の友人であるが思わず警戒しそうになる。
いくら私が元・婚約者の最有力候補だったとはいえ、婚約者を迎えたユーステス様に他人の女を会わせようとするなんて。
普通の貴族なら、そんな事恐ろしすぎて考える事すら危惧されるだろう。
それに、婚約している令嬢はいくら本人がダメダメとはいえ、イヴァン樣の本家筋に当たるクラウディウス家の出身。
このまま婚約を継続させる方が、分家のクラウディア家も恩恵を少なからず受けられるので、この提案は損ではないだろうか…?
しかし、今の私にはこの上ないくらい好条件の提案だった。
かなり危険だと思うが、きっとイヴァン様にも有益だからこんな提案をしているのだ。
ある程度の察しはついていたけれど、ここは敢えて提案を受け入れてみようと私は決めた。
それに、危険とわかってはいても。
どうしても、ユーステス樣に会いたかった。
そして、ユーステス樣から本当の事を聞いてみたかった。
私は提案を受け入れるとイヴァン様は、決まったら即行動だ、とクラウディウス邸へ向かう手配を始めた。
「あまりにも早すぎませんか?」と言おうとして、私は思わず自分の口を両手で塞ぐ。
これからすぐ、ユーステス樣に会えるのだ。
躊躇いも、疑問も、一旦は置いておこう。
ずっと、待ち望んでいた私の王子様。
実際に会ってから考え始めても、きっと遅くない。
両手を口から離した私は、いつの間にかそのまま握りこぶしを二つ作っていた。
クラウディウス邸に向かう馬車の中で、イヴァン様は「これでようやく反撃できるな」と綺麗なお顔で物騒な物言いをしていたが、私の視線を感じるとすぐにいつもの優しいお顔に戻っていた。
そして、一時間かけてクラウディウス邸に到着すると、イヴァン様はさっそく使用人に二人の居場所を聞き出していた。
初めて訪れた場所だったがイヴァン樣の案内の元、教えられた道順で目的の場所へと急いで向かい、ついにユーステス樣とその婚約者を見つけた。
ユーステス樣を視界に入れてしまった私は、感極まって彼の婚約者が目の前にいるにも関わらず、堂々と抱き着いてしまった。
久しぶりの彼の体温がとても心地よくもっと密着したかったので、ほぼ無意識に彼の頭をより自分の胸に引き寄せていた。
その一瞬、婚約者の存在を思い出し、冷や汗がでそうになるほど焦る。
道徳的な面から躊躇いを感じた私だが、初めて見る彼の婚約者と目を合わせた時、次の瞬間には「勝った」と優越感を感じていた。
クラウディウス令嬢は、不細工ではなくそれなりに整った顔をしていたが、私の美貌と比べれば新芽と大木くらいの差があった。
長い黒髪は艶があって綺麗だし、少し釣り目気味だけどイヴァン様と同じ黄緑色の瞳は素直に褒めてもいいと思う。
でも、それ以外で特筆する点はなかった。
それに、ユーステス樣も私を突き飛ばすかと思えばそういう素振りは全く見せなかったので、イヴァン樣の言う通り、彼女は制御を目的として迎えた婚約者なのだとはっきりと確認できた。
その後ユーステス樣をから降りるように急かされてしまったのは残念だったが、人目もあるし何よりユーステス様のお顔も真っ赤だったので私にもチャンスがあると思うと、素直に従う事ができた。
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…ここまでは私も調子がよかったのだが。
今現在、なぜかイヴァン様とユーステス樣は笑顔なのに険悪なムードを全開にして口喧嘩をなさっている。
それに、先ほどから婚約者であるクラウディウス令嬢は私の行動に怒る様子は全くなく。
しかもこの現状では完全に蚊帳の外であるにも関わらず、私達三人を眺めながらニヤニヤと笑っている。
私はというと、予想外の展開についていけずポカーンとしている。
…あら?
私、一体何をしに、ここに来たのかしら…?




