第九話
今や春香は、丁々発止とばかりに全力で戦っていた。
敵の攻撃を察知すると、受けの形に入ると見せ掛けて最小限の防御動作をしつつ、その背後に回り込んで退路を絶つ。
敵は彼女の気配に思わず振り返った。
そしてついに、春香は敵と正対した。
それは、まさに彼女自身の姿であった。
覚悟はしていた筈だが、それを目の当たりにした衝撃は決して小さくはなかった。
我に帰って攻撃を仕掛けようとするまでのほんの一瞬の遅れは、敵にとってはその身を翻して飛び去るのに十分な物であった。
春香の攻撃は空を切り、何の手応えも得られないまま敵は掻き消す様に消え去った。
追っても無駄と判断した彼女は、改めてその目に焼き付いた敵の姿を再生し、子細に検討した。
その顔には、彼女のアイデンティティの重要な一部を構成するコンプレックスの元であるソバカスが全く無く、磁器を思わせる滑らかなその肌はある意味で理想の姿であった。
ただし、その『理想の自分』の姿は、いわく表現しがたい冷たさを纏っていた。
「で、そのα群とβ群が何のために戦っているのかは、判らんのか?」
永田は頷いた。
「とりあえず、今が反撃のチャンスだろうな。」
それから永田はβ群のログを詳細に見直してみた。
β群の攻撃は配電盤や火災検知システム等の物理的な機構に接している部分にまで及んでおり、α群と比べてより物理的な手段にその軸足を置いている様に見受けられたからだ。
そうして時系列を遡りながらその攻撃を見ていく内に、自動運転システムへの侵入を見つけた。
それも二台である。
嫌な予感を覚えつつ、侵入された車種を調べた。
一台はリムジンだったが、もう一台がタンクローリーである事に気付いて、嫌な予感が外れてくれればと祈る様な気持ちで、侵入された車の走行履歴を照らし合わせて見た。
その二台の走行履歴は同じ場所で終わっていた。
永田は、恐る恐るその場所と時刻でニュースを検索した。
該当なしの表示が出る事を祈ったが、その祈りは叶わなかった。
何もする事がないので所在なげに雑誌を拾い読みしていた加藤は、突然の呻き声に顔を挙げた。
「どうした?」
その問い掛けで我に帰った永田は、画面を指差した。
「これを見てくれ。」
それは、東南アジアで起こった衝突事故の記事であった。
ガソリンを満載したタンクローリーと普通乗用車の衝突事故で、爆発炎上により死者行方不明者は二桁に登り、一ブロックが類焼したという。
記事に添えられた炎上写真の惨状に慄然としつつ、加藤は尋ねた。
「 これは、チャーリィの仕業か?」
「ああ、β群だ。」
二人はそのまま考え込んだ。
しばらくして、加藤が言った。
「少なくとも、β群が味方という事はあり得んな。」
永田は大きく頷いた
その時、永田の携帯が鳴った。
初めの二回程はそれなりに効果を上げたのだが、すぐにその意図を読まれてしまい、背後に立ったと思った瞬間には、敵はその身を翻してすり抜ける様になった。
流石に同じ手は喰わない様で、その自信たっぷりに勝ち誇る余裕の表情が見える様な気がした。
しかし何度すり抜けられても、春香はそのパターンを変えようとはしなかった。
これは敵から見れば、彼女が防戦一方で手詰まりに追い込まれている様に見える筈だ。
だがそれは、敵にヒットアンドアウェイという攻撃形態を強いる事で、彼女に深傷を負わせる様な有効な攻撃を行わせないための戦法であった。
突然鳴り出した携帯に、二人は思わず飛び上がりそうになり顔を見合わせたが、加藤の方が先に口火を切った。
「誰だ?」
永田は緊張のあまり僅かに震える手を携帯に伸ばしたが、表示を見て一気に力が抜けた。
「荒川先生だ。」
加藤も一瞬で緊張が解け、肩が下がった。
二人はそのまま脱力していたが、やがて加藤がぼそりと言った。
「早く出ろよ。」
その言葉に我に帰った永田は、画面をタップして耳に当てた。
「は、はい、永田です。」
「荒川だけど、話したい事がある。今時間良いかな?」
「丁度良かった。こっちもお話ししたい事があります・・・ただ、電話ではちょっと・・・」
「ふむ。じゃあ研究室まで来れるかい?」
永田は一瞬迷ったが、α群とβ群が互いに潰しあっている現状なら、すぐにこちらに矛先を振り換える事は出来ないだろうと判断した。
「判りました。加藤と研究室に行きます。」
相手は、春香の中でも最も大きい部分(ある意味で春香そのものとも言える)を攻撃するチャンスを得た事で、一気に闘いを決める気になったようだ。
ネットワーク上に分散していた分身を集結させ始めた。
本体に引き付けて背後を取るという作戦なのは判らない筈は無いのに敢えてそれに乗ってきたという事は、背後を取らせてもすぐに身をかわせるという自信の現れ(実際に何度もそれをやっている)であろうし、そこからさらに次の展開が見込めると考えているのであろう。
そしてもう何度目になるのか覚えていられない程の素早いが浅い(すぐに身を翻せる様に敢えて深く撃ち込む事をしないのだ)斬り込みをかわしつつ、春香はサイドステップで体勢を入れ換えようとした。
その瞬間に、横からの攻撃を喰らった。
それは大して強力な物ではなかったが、その痛みに思わず踏み留まると、とっさに防御を固めた。
何故か予想された深い撃ち込みは来なかった。
春香は正面の主敵から目を離さない様に細心の注意を払いつつ、辺りを窺った。
周囲は、敵の小さな分身で完全に包囲されていた。
彼女を何重にも取り巻くそれらの分身は、一つ一つは小さいのでその攻撃力は大した事は無さそうだが、それでもこれだけの敵から攻撃を受ければ、そのダメージの累積は彼女を消滅させるのに十分であろう。
何より、今ここで身を翻しても逃げ去る前にこの無数の分身どもに足留めを喰らうので、その間に主敵が彼女の背後から斬り込めば間違いなく致命傷となる。
まさに、進退極まった状況であった。
「黙っていて悪かったが、今君達を攻撃しているのは私の娘だ。」
その唐突な告白はあまりにも現実感がなく、二人は絶句するしかなかった。
その沈黙を当惑の印だと理解した荒川は、ここまでの経緯を語り始めた。
二人は、何も口を挟む事無くその説明を聞いていた。
加藤は、どう反応したら良いのか判らない感じで、それでも懸命に事態を理解しようと努力している様子だったが、永田の方は、流産の辺りで既に目が潤み始め、その後は水音が聞こえるのではないかと思うほどの涙を流しつつ、荒川の言葉を一言も聞き洩らさない様に真剣そのものの表情で聞いていた。
恐らく、自分が泣いている事自体に気付いていないだろう。
やがて一通り話終わった時、永田は弾かれる様に大きく頭を下げた。
「ごめんなさい!」
こみ上げる嗚咽を懸命に飲み下しながら、それでもきっぱりと言い切った。
そうして永田は頭を深々と下げ、その肩が時々痙攣の様に震えるだけであった。
重苦しい沈黙が続き、ぽたぽたとその爪先に涙が落ちるのを、荒川は黙って見ていた。張り詰めた空気に耐えられなくなった頃にようやく永田が上体を起こした時、その涙でぐしょぐしょになった顔を見た彼は内心で、もうこの少年は赦そう、と本気で思った。
そして、これからの事を話し合わなければならないのだが、その前にこの少年にも話があった筈だと思い出した。
荒川は、もうこれでこの話は終わりにしても良いというニュアンスを込めて、穏やかに尋ねた。
「それで、君達の方の話は何だ?」
非難か叱責が降ると思って覚悟を決めていた永田は、その穏やかな調子に拍子抜けし、虚が来た様に呆然としていた。
ややあって加藤が肘でその脇腹をつつくと、ようやく正気を取り戻したが、荒川の予想外の態度に嗚咽はすっかり引っ込んでいた。
やがて、深呼吸してから話し始めた。
「ええと、その・・・お嬢さん、春香さんでしたっけ、は、今何かと戦っています。」
その言葉は、荒川を驚かせるには十分であった。
そうして永田は、持参したノートPCを開いて様々な図やデータを見せながらα群とβ群の抗争について語った。
それは確かに驚くべき話であったが、荒川には、その目的のためには全く手段を選ばないというβ群について、心当りが無くもなかった。