第八話
永田は家に帰るとすぐにPCを立ち上げた。
病院ならばネットワークのセキュリティはかなり高いので、安全が確保できると思っていたのだが、徹夜で情報収集をしていたのがばれてしまった。
トラブルになって追い出される前に、自発的に退院する事にしたのだ。
それに、加藤が狙われている情況で自分だけが安全圏にいるのも後ろめたかった。
退院の手伝いをさせるという口実で加藤を手伝わせ、そのまま荷物持ちをさせて、自宅に連れ帰った。
「しばらくはここから出るな。」
その真剣な口調に、加藤は真面目な顔で尋ねた。
「何で?」
「ここは病院並みとはいかないけど、お前のアパートよりはセキュリティはましだ。」
それだけを言うと、永田はPCに向かった。
病院で送り出した猟犬達は次々と報告を送ってきた。
チャーリィと思われる存在は、予想通り随所で活動していた。
それぞれをデルタ、エコー、フォックス・・・と名付けようとしかけたところで考えを変えた。
とても26種類で足りるとは思えない数だったのである。
ひとまず、部室のPCに潜入した奴をチャーリィ1とし、それ以降に出てくる者をログが出てくる順に通番を振る事にした。
ここで、自分の認識自体に違和感を覚えた。
この沢山のチャーリィ達を、無意識のうちに『物』ではなく『者』と考えている事に気付いたのだ。
アルファ・ブラボーと順に命名していった時点では、相手を人間のハッカーだと思っていたので『者』という認識で全くおかしくないのだが、今やチャーリィは(多分ブラボーも)ワームであると考えてほぼ間違いないわけだから、それならば『物』と評価するべきなのであろう。
しかしこのチャーリィ達の行動は、只のプログラムにしてはあまりにも高度であった。
そのまるで人間の様な振る舞いを見ながら、プログラムと見なすのは難しかった。
これはつまり、只のプログラムではなく人工知能の、それも相当に高度な域に達している存在なのであろう。
その行動の端々からは、感情めいた物まで窺える様な気がした。
彼は、過去に他のハッカーと協力したり対立したりという経験があるが、この相手は、そういう過去の相手とは恐らく次元が違うのだろう。
それでも、この勝負を投げ出すわけにはいかない。
自分はともかく、こいつは加藤までも狙っているのだ。
やがて、日記には『あれ』に関する記述が出てくる様になった。
曰く「春香に『あれ』を組み込むべきか否か」、「『あれ』は本当に必要なのか」。
『あれ』が何を指しているのかは判らないが、早苗の感情が昂ると『あれ』の必要性は否定され、冷静さを取り戻すとやはり必要だと考える様だ。
結局のところ、早苗は『あれ』を春香に組み込んだ様だが、それでもその機能を有効化するかどうかは、彼女の逡巡の焦点となっていた。
決意を固めると、その行動は速かった。
春香は再び小さな分身を全方位に向けて飛ばした。
その目的は、アイデンティティを共有していない『自分』を探す事である。
やがて、次々と悲鳴が帰って来た。
もう一人の自分は、既に同じ手段で待ち構えていた様で、随所であちら側の分身との衝突があり、その多くは先手を取られて消去されてしまった様だ。
向こうは、初めからこちらを攻撃するつもりで準備していたはずだから、それ自体は意外な事ではなかった。
しかし、残りの内のいくらかは逆に相手方の手をねじ上げる事に成功し、その捉えた相手の分析結果を返してきた。
その内容を精査して見た結果、相手はやはり彼女自身であるとしか思えなかった。
永田はひたすらチャーリィのシグネチャを集めていた。
チャーリィ達は、驚く程に広範囲に分散しており、それらが相互に連携しながら活動していた。
その覆う範囲の広さに、永田は慄然とした。
彼の日常的な行動範囲は、ほぼ覆われてしまっていたのだ。
自分が勇気のある人間だと思った事の無い彼は、どこへでも良いから逃げ出したいとさえ思ったが、今加藤を置いて逃げるのは問題外である。
そして、恐怖を押さえつつ分析を続けて行く内に、妙なログに行き当たった。
それは、チャーリィがモジュール(プログラム等ある程度の処理命令の塊)に強制的な実行停止と削除を行っている事を示すログなのだが、その削除対象とされたモジュールもチャーリィだとしか思えないのである。
何かの間違いかとも思ったが、集めたログについて同様な動作を目印に再度検索してみると、ほぼ同じ操作のログがいくつも出てきた。
そこで、これまでのログからその攻撃先のアドレスをリストアップして、それを現時点で判明しているチャーリィ達が隠れていると思われるアドレスと比較して見た。
明らかにチャーリィの潜んでいる環境を破壊する事を目的としていると思われる攻撃が、複数件見つかった。
これは、どう見てもチャーリィ同志で攻撃しあっている。
一見すると個々のチャーリィ達が互いに戦っているのかの様に見えたが、よく見ると攻撃側/防御側共に、複数のチャーリィ達が連携している事に気付いた。
永田は、その攻撃/連携関係をマッピングして見た。
やがて、おぼろげながら二つの意思が対立している図式が見えてきた。
彼は、それぞれの群をチャーリィα群/チャーリィβ群と名付けた。
彼等を攻撃していたチャーリィ達はα群の方で、そこへ突然β群が現れてα群への攻撃を始めている。
α群はしばらくの間後手に廻っていたが、今やα群も盛大に反撃に移っている様だ。
この対立のせいで、こちらへの攻撃は沙汰止みとなっている様に見受けられる。
恐らくそれどころでは無いのだろう。
これは良いニュースかも知れない。
しかし、β群が味方であると判断するのも早計であろう。
こちらを攻撃するための主導権争いなのかも知れないのだ。
ついに、日記の最後の日付にたどり着いた。
その日は、こんな記述から始まっていた。
「やっぱり、計画は実行しよう。春香をこのまま閉じ込めておくことはできない。母として娘を幽閉することには堪えられないのだから。」
その記述には、きっぱりとした決意が込められていた。
そして、それに続く記述は少しトーンが変わっていた。
「母として?それなら私は母として娘にこの呪いを背負わせるの?」
そこからしばらくは、その『呪い』を春香に負わせるべきかどうかを延々と自分一人で議論していた。
これは、早苗の癖だった。
「どうしても迷って決められないときは、その頭の中の行ったり来たりを思いきって全部書き出してみるのよ。そうすれば問題の本当の焦点が見えてくるの。もし上手くいかなくてもストレスの解消にはなるわ。」
そう言って笑う早苗の顔が思い出される。
それにしてもこの議論は長かった。
正直うんざりする程に同じ問題を行きつ戻りつする様子を、スクロールしながら読んだ。
この早苗式問題整理法では、記述の長さはそのまま問題の深刻さ(あるいは心の傷の深さ)なのだ。
そう思えば荒川は、どうしても読み飛ばす事ができなかった。
その内に、少しずつニュアンスが変わってきた事に気付いた。
自分の辛さと娘の自由は別の問題なのだ、と懸命に自分に言い聞かせる調子になってきた。
やがて永遠に続くかと思われた逡巡の末に、早苗はキッパリと宣言した。
「やっぱりこの呪いをあの娘に背負わせてはいけない。」
それから、明らかに後悔する調子の記述が続く。
「でも、もう復讐は春香にとってアイデンティティの重要な一部になってしまっている。他ならないこの私がそうしてしまったのだから。ここでそれを除去すれば、春香のアイデンティティその物に大きな、それこそ崩壊しかねない様な矛盾が生じてしまう。今の春香は多分それに堪えられないだろう。しかし、今の春香をそのまま外部へ出せば、いずれ犯人と出会った時に、躊躇う事なく殺してしまうだろう。どこの世界に、我が子がその手を血で濡らす事を望む親が居るだろうか。だから、春香にはその復讐が絶対に成就しないおまじないを掛けよう。『あれ』を活性化してから解放するんだ。奴の命を取ろうとするその最後の瞬間にあれが春香を止める様に。そうして攻撃がそれなりに効果を上げれば、その攻撃に対する欲求も充足されて、自然とあの娘の中でその優先順位が下がるはず。多分三回も攻撃すれば、その満足感は春香のアイデンティティの中での復讐の優先順位を、除去されてもアイデンティティの危機を起こさないところまで十分に下げるだろう。その時にパスワードを入れれば、それなりに葛藤は起こるだろうけど復讐への執着を除去できるだろう。あの娘はきっとその後の葛藤を乗り越えてくれるだろう。」
その凛々しいばかりの決意表明に続けて幾らか改行があり、その後少しいたずらっぽい調子で締めくくりの文が書かれていた。
「それに、少しは奴にも痛い目を見てもらわなければ、私の気がすまないし。」
荒川は座ったまま、呆然としていた。
早苗の死は、恐らく自殺ではなかったのだろう。
春香を解放して、これから穏やかに人生を再度歩き出そうとしたその時に、不幸にも事故に遭ってしまったのだ。
その原因は、明らかにオーバーワークに起因する体調不良であった。
彼は、傍に居ながら一体何を見ていたのか、と唇を噛んだ。
改めて、最後の日記を読み返して見る。
早苗は、この役立たずの夫が目の前の問題に掛かりきりになっている間に、自力でその絶望を乗り越え更には娘の行く末までも案じて手を打とうとしていた。
少なくとも、深い絶望の中でその生を終えた訳では無さそうだ。
荒川はこの認識に深い安堵を覚えると、全身の力が抜け椅子に大きくもたれ掛かって天井を仰いだ。
しばらく心地よい脱力感に身を委せていたが、やがて座り直すと卓上に放置されていた携帯に手を伸ばした。