第五話
二台の自動運転車両が、同じ場所で同時に誤動作をする確率は、まずゼロであろう。
この事故は仕組まれた物と解釈するべきだと春香は考えた。
なにしろ彼女自身が、つい先日芝刈機で同じ様な事をやったばかりである。
しかし何のためなのかとなると、皆目見当が着かない。
いずれにせよ、彼女はこれで重要な拠点を喪った。
ただし、それは彼女にとって大きくはあるが致命的なダメージではなかった。
本当の意味で彼女のアイデンティティを担保するのは、安全なPRIME上にある情報ライブラリーであり、それが健在であるうちはもし処理部が喪われても再生が可能なのだ、例えば今回の様に。
永田の作業は徹夜となった。
勿論、看護師が黙って見ているわけはないので、巡回の度に狸寝入りをする必要があった。
まずは最初の四人のうち誰から手をつけるかを決めるために、問題のイントラネットの付近でその四人それぞれの操作ログを漁って見た。
消し忘れたログは随所にあり、それを丹念に広い集めて並べて行く事で、ある程度の意図が見えてくると考えたのだ。
そうして膨大なログを解析する作業のなかで、それぞれの候補となるアドレスが発/受信する情報の特徴が見えてきた。
アドレスとはそれぞれ個人の電子的住所であり、従って各アドレスが各々概ね一人の人間を表している。
つまり、各アドレスの『特徴』は、それぞれの人間の個性であると言える。
彼は、その中で他には見られない特徴を持ったアドレスがある事に気付いた。
そのアドレスからはどう見ても異なる意図に基づくとしか思えない二種類の様々な発信が行われていた。
ハッキング作業は概ね試行錯誤の繰返しであるから、複数の作業を並行して行う事は珍しくない。
しかし、多くの場合それらは相互に関連した作業であり、そうでない場合でも、その一見して無関係な操作は、時間的に関連性が見出だせる。
相互に無関係と見なされる複数の操作は、それぞれ直前の操作が応答待ちとなった時に行われるのだ。
つまり、待ち時間を有効に使う手段なのである。
本当の意味で相互に関係の無い作業を並行して行える人間は、まず居ない。
だから通常であれば、無関係な複数の作業が行われている様に見えても、実際には操作者の頭の中ではそれらは決して無関係ではない。
それらの一連の操作の背景には、概ね共通の動機が控えているのである。
ところがこのアドレスでは、明らかに異なる動機に基づく操作が、それも相互に時間的な関連性を持たずに行われている。
特に手数の多い複雑な操作が、ほぼ同時に行われていると思われるパターンが、時折見受けられる。
これは頭が二つなければ出来ない作業である。
いずれにせよ、全ての候補となるアドレスを並行して追うのは不可能だ。
この特徴が何を意味するのかは判らないが、永田は直感的に追跡対象をこのアドレスを絞るべきだと考えた。
直感に重きを置くのは、一見すると非合理な行動に見えるが、実はそうとも限らない。
例えば将棋やチェスで最も重要な技術とされる、先読みについて考えてみよう。
これは、数十手先までのあり得るパターンを読んで、その中で最も優れていると思われる一手を選ぶ行為である。
この場合、こちらの最初の一手に複数の選択肢があり、そのそれぞれの手に対して、相手方に複数の選択肢があるので、二手先のパターン数はそれを掛け合わせた物になる。
そうして、更に一手先を読む毎にその選択肢が掛け合わされるので、数十手先となるとそのパターン数は百万のオーダーになる。
これらを全て読んだ上でその中から最良の手を見つけ出すのは、人間の能力で可能な作業ではない。
だから、先読みの過程で眼前の複数の分岐の中から、取るべき物/捨てるべき物を選んで、その先読みの対象を絞り込む必要がある。
この時に、取捨選択の根拠としてある程度の優劣を決める事が出来る場合もあるが、明らかに劣った手はそもそも検討対象に上がらないし、十手先では目覚ましい効果を上げている様に見えても、二十手先では逆転されているかもしれないという手も珍しくないのだから、結局のところ最後は直感に頼るしかない。
そして、その直感の確度がより高い方が勝つのだ。
「天才は1%の直感と99%の流汗で構成される。」というエディソンの言葉は、『天才と凡愚の差は僅か1%でしかない』と解釈される事が多いが、その裏には『その1%の直感を持たない人間は、結局のところ天才と肩を並べる事は出来ない』という含みがあるのだ。
永田は、何の気負いもなくこの直感を信じる事にした。
荒川は、早苗のPCを引っ張り出していた。
それは、彼女が死んでからしばらくデスクに放置されていたが、それが視野の隅に入る度にあの人形の様に整っているが無機質な死に顔が思い出されて、ついに耐えられなくなった彼は、クローゼットの奥にそれを押し込んでいたのだ。
電源を入れると、パスワード入力画面が出た。
彼等はプライバシーを尊重するべきだと考えていたので、互いのパスワードを知らなかった。
そして、あの『事故』の後で早苗のPCの中を確認しようとは考えなかったのだ。
早苗が居なくなった時点で終わった事であり、その動機を探る事に価値が見出だせなかったし、何より、もうそれを拒む事が出来なくなった早苗のプライバシーを覗くのは卑怯な気がしたからだ。
しかし、今はそんな事を言っている場合ではない。
どこかにパスワードを書き留めていないかと遺品の手帳をめくってみたが、それらしい物は見付からなかった。
そもそもコンピュータのプロが、そんな迂闊な事をする筈はないのである。
どうやら、思い付く限りの物を試してみる他は無さそうだった。
春香は、再び痛みに跳び上がった。
また、その体の一部を置いているサーバとの接続が切れたのだ。
ただし、今回はネットワークその物の接続が切れたわけではなく、応答が無くなっただけのようだった。
恐る恐る様子を窺ってみると、サーバのOSがクラッシュ(誤動作による停止)したようだ。
前回の途絶と違い、それほど大きな部分の喪失では無かったのは、このPCがチャチャイの物ほど厳重に保護されているわけではなかったので、ここに大きく依存する事を避けていたからだが、それでも体の一部を置く以上それなりに安全である事は確認済の場所であった。
つまり、そう簡単にクラッシュしたりはしない筈なのだ。
最早、故意に攻撃されている事は疑いようが無かった。
周りのPCに侵入して、様子を窺って見た。
管理者達が、突然のクラッシュに狼狽し、互いに怒鳴る様な勢いで話し合っている。
どうやら、今回はサーバの上でのクラッシュだけのようだった。
前回の攻撃とはあまりに手口が違う事に、春香は違和感を覚えた。
彼女を攻撃するためにあれほどの大惨事を起こした相手が、こんな大人しいやり方をするだろうか。
永田は、ようやく問題の発信元のアドレスを一ヶ所に絞り込む事が出来たが、そのアドレスにアクセスする事は出来なかった。
そのアドレスからは、バナーチェックどころか、絶対に反応が帰ってくる筈のPingと呼ばれる問い掛けにすら応答が無かった。
発信元の周辺を探ってみたところ、現時点で完全に通信が途絶えており、一昨日の午後以降全く活動した形跡が見当たらなかった。
その時点で、物理的に接続が切られているとしか思えない。
これはどういう事だろう。
なんにせよ、発信元を直接調べる事が出来ないのは間違いない。
そうなれば、出来る事はこのアドレスからの発信の履歴を拾って、その行動を少しづつ掘り返していく間接的なアプローチしかない。
それは、この相手を直接調べる事が出来ない以上止むを得ない事ではあるが、それで本当に目標に辿り着けるかとなると何とも言えない。
ここで彼は、このアドレスを一旦脇に置いて、ここまでに切り捨てた他のアドレスに戻って調査する事も考えたが、彼の直感はこのまま調べるべきだと言っている。
確かに、今ここで探索先を他のアドレスに振り替えると、ここまでにこのアドレスの調査に費やした労力が全て無駄になる。
しかし一方で、その逡巡はコンコルド錯誤への道かもしれない、とも思う。
コンコルド錯誤とは、超音速旅客機コンコルドの開発過程で起こった有名な失敗事例である。
それは、超音速巡航を可能とするエンジンを始めとした全く新しい技術の開発に伴う想像を絶する技術的困難のために、開発が遅延につぐ遅延を余儀なくされた際の事であった。
あまりの惨状にたまりかねたプロジェクト管理担当者が、このまま開発を続行した場合に掛かるであろう費用額を概算して、そこから完成の暁に得られる筈の予想売り上げ額を引いてみた。
つまり予想赤字額を試算してみたわけだが、その額はその時点で既に掛けてしまった額に、予約受付済のエアライン各社への返金と違約金を足した総額よりも遥かに大きかったのだ。
この数字は、どう考えてもプロジェクトは中止する以外に選択肢は無い事を示していた筈だったが、結論として開発は続行された。
このプロジェクトには英仏両政府の威信が掛かっていたせいでもあるが、最も大きな理由となったのは「ここで止めたら今までの投資が全て無駄になる」という声であった。
そして、誰もその声に反論できずにそのまま突き進んだ結果、開発が完了した時点で実際の赤字額はその試算を遥かに越え、その負債の大きさに連鎖倒産の危機に陥った英国航空機各社は、経営統合されてBAEのみとなり、エンジンを担当したロールスロイス社は事実上倒産して国営化され、更に英仏両政府の財政に大きな爪痕を残した。
これはつまり、それまでの投資額が大きすぎる事により心理的に引き返せなくなったために、撤退という論理的な最適解(勿論それは多大な苦痛を伴う選択であったが)が提示されていたにも関わらず、それを無視してプロジェクトを継続するという心理的にはより苦痛の少ない(ただし最悪の)方針を選択してしまったという事である。
永田は、対象を絞り込んでからここまでの労力(既に不眠不休で二連徹となっていた)が無駄になることを恐れてこの方向に固執しているだけではないかと、自らを疑ってみた。
しかしその直感は、言葉には出来ないが何か疑い様の無い確信を伴っていた。
これは、彼が初めてPRIMEへ侵入するルートを発見した時の、あの感覚であった。
あの時も、有るか無きかの微かな手懸かりの中で、ある一点だけがあたかも光が差しているかの様に見え、その点のみに全力を注入した結果、ついに侵入口を発見する事に成功したのだ。