第四話
「さて、どうした物だか。」
荒川は呟いた。
さすがにこの話は、誰にも相談できない。
NIITの平井には春香が関係しているらしい事を話したが、永田の事まで説明するわけにはいかないのだ。
それでは、自分の受け持ちの学生である永田を告発する事になる。
それに、彼自身本当に早苗と夏美の仇である永田を赦せるのかどうかに自信が持てない。
いずれにせよ、永田が退院するまでには対応方針を決めなくてはならない。
春香は、警戒を続けていた。
あの無遠慮な視線はその後感じられなくなっていたが、それがその視線の主が去った事を示しているという保証は無い。
あれは春香の『内側』を力ずくで覗こうとするアプローチだったので検出出来たが、一歩引いたところから観察するだけなら彼女でも気付けるとは限らない。
いずれにせよこの時点で彼女の中では、まだ例の視線と今回の事故は結び付いていなかった。
永田は、ベッドに座ったままPCを叩いていた。
父の秘書に頼んで、持ってきてもらったのだ。
攻撃者は明らかに自分を狙っているが、さてその動機はとなるとあの事件しか思い当たらない。
少なくとも、他に殺される程の強い動機を懐かれる覚えはない。
つまりこの何者かは、自分がM・Nである事をどうやってか知ったわけである。
思い当たる節を順に手繰って行く内に、かつて非合法な作業を行った際のログは、隠蔽のために外部に取っていた事を思い出した。
違法行為の直接の証拠となるログは、自分のPC環境に残していてはいけない。
もしそれが発見されたら、もう言い逃れはできないからだ。
これも嶋田の教えだった。
それならそもそも不法な行為についてはログ自体を取らなければ良さそうな物だが、ハッキングという作業は詰まる所未知の情報の収集であり、それは膨大な試行錯誤によって構成されている。
恐ろしく長く複雑な一連の手続きを、少しずつバリエーションを変えながら繰返し試行するのがごく普通のやり方であり、また、行き詰まった時にずっと以前にやった失敗がヒントを与えてくれる事も珍しくない。
これを記憶のみに頼って行うのは、まず不可能である。
だから、どうしても何らかの形で記録を残さざるを得ないのだ。
そこで、ネットワーク上に目立たないストレージを確保して、ハッキングのログはそこへ格納される様にしておいた。
あの一件で自分の行動に嫌気がさしてから、彼はことネットに関する行動は全て投げやりになった。
IT関係のセキュリティについて殊更に自棄的に振る舞う事が、自分の犯した過ちに対する罰になる様な気がしていたのだ。
結局、自分自身を無意味な危険に曝す事と、この世に産まれてくる事の出来なかった子供の哀しみの間には何の関係も無い事に気付き、そんな愚行は止めたのだが、完全に元の世界に戻りたいとは思えなかった。
そんな心の振れ幅の大きな時期のゴタゴタの中で問題のストレージも投げ出したも同然の状態になっていた。
それはある意味で、彼を捕らえた破滅願望の一つの現れだったのだろう。
永田は、記憶を頼りにそのログを探した。
何度か試行錯誤した末にようやくたどり着いたそのログデータには、何者かがごく最近アクセスした形跡が残っていた。
恐らくこれを手掛かりにしてこちらを同定したのであろう。
いよいよ、『過去の過ち』に追い付かれたのだという想像が本当らしく思えてきた。
春香は、ネットのニュースで事故の詳細を知った。
ガソリンを満載したタンクローリーが突如暴走し、ちょうどチャチャイのアパートの正面で転倒した所へ、これまた突然暴走したリムジンが突っ込んだ結果、大惨事となった。
死者、行方不明者は二桁を数え、正確な数字は未だに判明していない。
ニュース画像でタンクローリーの残骸の背景に映るチャチャイのアパートは、完全に燃え落ちていた。
通信が途絶した時点でチャチャイは部屋で作業していたので、助かったとは考えにくい。
永田は、問題のログのアクセス履歴の解析に没頭していた。
自分一人の事ならば自業自得で諦めもつくが、加藤を巻き込んでしまっている。
これ以上、加藤の身に危険が加わらない内に、なんとかしなければならない。
具体的にどうしたら良いのかはともかく、まずは攻撃者を同定する事だ。
取り合えず、そのログから認識できる直接のアクセス元を確認してみた。
それは、国外にある企業のイントラネット(インターネットを利用して構築された擬似的な組織内ネットワーク)を管理するサーバ群の内の一台であった。
勿論、このサーバが攻撃者に直接繋がるとは思っていない。
攻撃者が自分の姿を隠す(マスカレード)ための踏み台として利用しているに過ぎないのは始めから判っているのだ。
この踏み台となったサーバのログから、問題のログデータにアクセスした時刻の前後のログを検索してみた。
その時間帯には該当するログは無かった。
この事自体は想定内である。
あのログを解析したという事は、それなりに掛けてあったセキュリティを突破しているという事であり、それが出来るスキルの持ち主が、ログの後始末をしない筈はない。
次は、このイントラネット上で問題のサーバ以外でログを残している機器を探す。
ネットワークを利用するには、ネットワーク上の様々な機器を通り抜ける必要があり、それらの中には独自にログを収集する機器もかなりあるのだ。
いくらなんでも、ネットワーク上の全ての機器から特定のログを全て消去する事は出来ない。
イントラネットの入口となるゲイトウェイに、目指すログが見付かった。
この中から、問題の時間帯に踏み台となったサーバへ向かったログを抽出する。
問題のサーバはイントラネットの出口に当たるので、その件数は膨大である。
このログとサーバ側のログの発信者を突き合わせて見る。
入口側に居て出口側に居ない発信者が、ログを消去している事になるわけだ。
その差は四人であった。
一人に絞り込む事が出来ないのは始めから想定していた。
使い勝手の良い踏み台は、常に千客万来なのである。
むしろ、限定された時間帯とはいえ、一桁台の数で収まった事が幸運だったとすら言える。
後は、この四人を同じ手順で順次遡っていけば良い。
ただし、言うのは簡単だがその手間は大変な物になる。
もし、この四人がその次でもまたそれぞれ四人ずつに別れるとしたら、四段先ではその人数は1024人にまで膨れ上がる。
段階を追う毎にその対象者は指数級数的に増加するのだ。
この相手が何段の踏み台を通しているかは判らないが、そう簡単にはたどり着けないであろう。
後は、ひたすら根気の勝負である。
かつて、トーマス・アルバート・エディソンは「天才は1%の直感と99%の流汗で構成される。」と言った。
今は、地道に汗を流すべき時なのだ。