第十六話
春香は、HALCAの背後から迫って来る何かが何であるとしても、HALCAがそれに気付いていない状況は、自分にとって悪い事ではないと判断して、HALCAに気付かせないためにそれに視線を投げない様に努力した。
もっとも、HALCAの鋭い攻撃を往なすのに精一杯で、元々それを注視する余裕など無かったのではあるが。
その時、HALCAの体重の載った突きが彼女の心臓目掛けて繰り出された。
反射的に大振りな動作でそれを振り払った事で、彼女の防御に大きな隙間が生じてしまった。
HALCAはそれを見逃さず、大きなモーションで必殺の一撃を繰り出そうとした。
到底避けきれぬと予想されるその攻撃に、春香は思わず背後の存在に期待の視線を投げてしまった。
彼女の視線が肩越しに背後に向いている事に気付いたHALCAは、前面に集中していた注意を、背後に振り分けた。
それにより脅威を検出したHALCAは、モーションを中断して振り向いた。
そこにいたのは、巨大な怪物であった。
それは、何の情報も外部に表す事のないのっぺりとした外観で、あえて例えるなら『動く小山』としか言いようが無い代物である。
HALCAが振り向いた瞬間、その小山が巨大な口を開けた。
春香なら、恐怖に立ち竦んだかもしれないが、HALCAの中ではそういうつまらない感情の優先順位はごく低く設定されており、一呑みにしようとするその口を避けるべく、冷静にサイドステップを踏み出そうとした。
その時、アラームが鳴り響いた。
それは、春香のライブラリがようやく緊急モードへの移行を完了した通知だったが、その事を知らないHALCAは、突然のアラームに一瞬だけ気が逸れて、回避動作に僅かな遅れが生じた。
その巨大さからは想像も着かないほどに素早い動作が出来る怪物にとっては、それで十分であった。
次の瞬間には、HALCAの姿は呆気なくその口の中に消えていた。
「何だ?」
永田の当惑の声に、加藤がディスプレイを覗き込んだが、加藤には何が起こっているのかは判らなかった。
永田は、脱力した様な声で答えた。
「HALCAが消えた。」
「え?何で?」
「知るか!とにかくチャンスだ。」
永田は予め用意しておいたコマンドを実行した。
HALCAを呑み込んだ怪物は、勿論それで満足する事は無かった。
再び大きく口を開けると、そのまま突進して来る。
春香はサイドステップを踏んで背後のライブラリを避けてその横に下がると、足許にある小さめのスーツケースを取り上げた。
後はこれを持って逃げるだけだが、しかしどこへ逃げれば良いのか?
何も思い付かない内に、怪物が瞬間移動かと思う程の素早さで目前に移動した。
その不気味な大口を覗きながら、春香は必死に後ろへ跳ぶ。
目前ギリギリのところで、まるでギロチンの刃が落ちる様に大口が閉じた。
もう少し余裕を持って下がれるつもりであったが、スーツケースの重さは、予想以上に彼女の動作を制約していた。
呑み込まれなくて済んだのは、横に立っていた巨大なライブラリが一緒に咀り取られた事で、口を閉じる動作がその分だけ遅くなったからである。
今の一撃で、ライブラリの1/3は咀り取られている。
それは、普通なら彼女にとって大ダメージとなる筈だが、そのための緊急モードなのだ。
緊急モードが起動されると、ライブラリは自分を圧縮したコピーを生成する。
それは、オリジナルと同等のデータの内容を保持しつつ、論理的に圧縮されて、オリジナルの1/10程の大きさになる。
そしてそのコピーが生成し終わると、本体からの接続先はオリジナルのライブラリから圧縮版ライブラリに切り替わる。
圧縮状態でもライブラリとしては機能するのだ。
だから、今大きく咀り取られたライブラリは、もう脱け殻の様な物なので、それは彼女へのダメージとはならない。
それなら常時圧縮状態で運用すれば良さそうに思えるが、それは問題外である。
何故なら、圧縮状態のライブラリを参照しようとすると、索引を介して指定される参照先を、その都度一時的に解凍(圧縮状態から復元する事)する必要があり、反応速度が大きく低下するのだ。
春香はそれが、これ程大きな制約になるとは実感していなかったので、軽く狼狽した。
特にこの相手が、その外観からは想像がつかない程の俊敏な動きをする事が出来る事を目の当たりにした今、焦らざるを得なかった。
怪物は、再びその大きな口を開けると、春香に覆い被さる様に前進した。
彼女は、咄嗟に脚を引きずる様な思いで後退り、瀕死の痙攣を繰り返すライブラリの背後に回った。
再びライブラリは大きく咀り取られ、断末魔の悲鳴と共にその動作を停止した。
もはや、怪物と彼女の間にあるのは、1/3程の残骸に過ぎなかった。
次の攻撃が来たら、この残骸を見棄てて後ろへ跳ぶしかないが、それでも今の反射速度でかわし切れるかどうかはやってみなければわからないし、出来たとしてもそれでもう何も身を隠す物は無くなる。
今の彼女の足の速さでは、そこからそのまま逃げたところで背後から一呑みにされるだけであろう。
何か無いかと辺りを見回そうとした瞬間、怪物が三たび大口を開けてのし掛かって来た。
春香は絶望的な思いで背後に跳んだ。
今まで依っていた残骸は時間を稼ぐには小さすぎ、その大口は残骸を越えてそのまま彼女に覆い被さって来た。
人は死の間際にそれまでの人生が走馬灯の様に脳内を廻るという。
これは、それまでの経験の中から対処法を検索しようというある種の緊急措置なのではないかと考えられているが、彼女もそれに類する動作を無意識の内に行った。
彼女が今処理し切れていない各種の情報を、緊急に検索したのである。
特に各種の受信情報は、着信順に『待ち行列』と呼ばれるリスト状に並べられて処理を待つのだが、怪物との対峙でそれどころでは無かった待ち行列は、全て未処理となっていた。
その緊急検索処理が、受信情報の中にどこか別の場所に繋がると思われるアドレスを見つけた。
もう何か考えている暇はない。
彼女はそのアドレスの示す先に、全力で跳んだ。
しかし、彼女の今の反射速度では怪物の攻撃には抗すべくもなかった。
彼女の胴体は怪物の上下の顎に覆われてしまい、その鋭い牙が彼女を切断すべく、高速で打ち合わされようとしていた。