第十五話
エメラルドゴキブリバチとは、ワモンゴキブリ等のゴキブリを餌として生きる蜂の一種である。
この蜂は、産卵期になると幼虫の餌となるゴキブリを狩る。
ただし、見付けたゴキブリをその場で仕留めるのではなく、自分より遥かに大きなその背中に取り付いて中枢神経の特定の箇所に針を撃ち込み、その部所だけを破壊する。
その一点を破壊されたゴキブリは自律本能が機能しなくなり、外部からの指示に唯々諾々と従う様になる。
そうしたら、そのゴキブリの触角を引っ張って予め掘っておいた産卵用の巣穴まで自力で歩かせる。
巣穴に引っ張り込んだら、その腹部に卵を産み付けたあと外に出て巣穴を塞いでしまう。
ゴキブリは外部からの指示が無いので、ひたすら巣穴の中でじっとしているが、その間に腹部に産み付けられた卵が孵ると、その幼虫はゴキブリの腹部を食い破って体内に侵入する。
そして幼虫は、ゴキブリを死なせない様に慎重に選びながら内臓を食べて成長し、ゴキブリが死ぬまでに蛹となる。
宿主であるゴキブリが死んだ後、蛹は羽化して宿主の体を破り、成虫となるのだ。
HALCAの場合は産卵はしていないだろうが、最初の一撃で狙い澄まして春香の攻撃衝動ロジックを破壊したのであろう。
防御反応のロジックは、AIの最も基本的な物なのでライブラリの全体構造と一体化しているため特定の箇所を攻撃して一撃で破壊する事は出来ない。
しかし、攻撃衝動のロジックは常に即応的な動作を必要とする関係上一ヶ所に集中していたので破壊する事が可能であったのだろう。
今から思えば、大きなHALCA本体が攻撃に移ったのは、春香のライブラリの位置の探索が完了したからだったと思われる。
そうなると、そこからライブラリに対する最初の一撃までは随分と時間が空いている事になるが、それはHALCAが攻撃衝動ロジックの位置を同定するためにライブラリを詳細に観察するのに要した時間なのであろう。
いずれにせよ、今の春香には防御は出来ても反撃は出来ない。
更に、彼女の本質と言える巨大なライブラリには、HALCAの鋭い攻撃をかわす能力は無いのだから、その前に立ちはだかっている彼女が身をかわして攻撃を避ければ、ライブラリはただでは済まない。
結局、春香はここに仁王立ちとなって攻撃を受け流すしかないのだ。
そして、HALCAの鋭い攻撃を永久に受け流し続けるのは不可能である。
これ以上のダメージを負う前に、対策を講じなければならない。
春香は、HALCAに気付かれない様に密かに背後に手を回し、ライブラリの緊急モード起動スイッチを押した。
「なんとか間に合ったみたいだな。」
そう言う永田の目の前の画面では、物凄い勢いでログがスクロールしていた。
「これは、何をしてるんだ?」
加藤が尋ねた。
「今、春香ちゃんがHALCAと戦ってる・・・いや、何か変だな。」
「何かって?」
永田は無言でログを追っていたが、やがて振り向いた。
「春香ちゃんは攻撃していない。」
「何で?」
「・・・判らんが、防戦しかしてないぞ。」
二人はわけが判らずそのまま考え込んだ。
やがて、頭を振りながら加藤が言った。
「ああもう、考え込んだって判らんのだろ!とにかくこっちの準備を進めようや。」
その言葉に我に返った永田は答えた。
「あ、ああ。準備は大体完了してる。後はHALCAに気付かれないタイミングを計る事と・・・」
口籠る永田に、加藤が追及する。
「タイミングを計る事と、何だ?」
「そもそも、春香ちゃんがこっちの誘いに乗るかどうかだ。」
なるほど、その視点は見落としていた。
永田の作戦は、春香が自発的に乗って来ない限り、実行不能なのである。
HALCAは、何度か鋭い突きを出しては素早く後に下がるという動作を繰り返した。
春香が反撃をする(出来る)かどうかを見極めようとしていると思われた。
春香はその攻撃を懸命に受け流し続けたが、体をかわす事が出来ない状況ではそれにも限界があった。
「!」
ついに受け流し切れなかった切っ先が、春香の体に傷を付けた。
それをかわせば、その切っ先は背後のライブラリに伸びて、大きなダメージとなるのは明らかだったので、受けるしかなかったのだ。
勿論それが傷付けたのは、彼女の中枢部からは程遠い箇所であったから、ごく浅傷ではあったが、二人にとってその事実はそれ以上の意味を持っていた。
HALCAは即座に後退してガードを固めたが、反撃は無かった。
こうしてHALCAは、反撃が来ない事を見極めると、体重を載せたステップで踏み出し、重い突きを繰り出した。
春香はそれを懸命に受け流したが、HALCAは後退する事無く立て続けに二段目三段目の突きを放って来た。
受け流し切れないそれらの攻撃は、僅かずつながら確実に春香を傷付けていった。
それでも春香には避けるという選択肢は無かった。
元々ライブラリには大した防御力は無いが、今は緊急モードがフル稼働中であり、外部からの攻撃に対処する余力は全く無いのだ。
寧ろ、今のHALCAが春香への攻撃に集中している事で、ライブラリの変化に気付く余裕が無いであろう事が、現状における唯一のアドバンテージであると言えた。
しかし、緊急モードへの移行が完了しても、それで問題が解決するわけではない。
それは、逃げ出す準備が完了する事を意味するだけであり、逃げ出すタイミングを計るのは、また別の問題なのだ。
それに、逃げ出すにしてもどこへいけば良いのか?
とはいえ、今はそれを思い煩う暇はない。
取り合えずHALCAの突きを必死で受け流し続けるしかないのである。
その時春香は、HALCAの肩越しに巨大な何かが音もなく接近してくるのに気付いた。
HALCAは今や勝利を確信して全力で攻撃を繰り出し続けており、背後には全く警戒していなかった。
「よし、これで準備完了だ。」
永田の言葉に、加藤は尋ねた。
「で、この後はどうなるんだ?」
永田は頸を振った。
「判らん。こっちに出来るのは、タイミングを見計らって誘いを投げる事だけだ。」
トラクタードローンは、HALCAの背後から音もなく接近して来た。
それがHALCAを先にターゲットとしたのは偶然では無かった。
オペレータは、もう他の目ぼしいモジュールを粗方『耕し』終っており、残りはここで戦っている二つのモジュールのみだと判断して、ドローンを即断モードに設定していた。
このモードでは、より脅威度が高いと判断した物を優先的に攻撃する。
その判定ロジックでは、判断基準の柱の一つとして能動性を用いるのだ。
従って、一方的に攻め立てているHALCAと防戦一方の春香なら、前者の脅威度を高く評価するので、HALCAが先に攻撃されるのは、言わば必然であった。