第十四話
息を整えて、ダメージを回復しようと踞っていた春香は、突然声にならない悲鳴を上げた。
後ろから頭を掴まれたと思った次の瞬間、何かが彼女の頭を貫き通す感覚が伝わったのだ。
慌てて見回したが、敵の気配は全く無い。
そのあまりにも思いもよらぬ攻撃に、彼女はどこが攻撃を受けているのかの認識を誤ったのだった。
彼女の頭の大部分はここにはなかった。
それは、絶対に安全な筈のPRIMEに置かれていた。
有り体に言えば、彼女のアイデンティティを司るライブラリである。
ここでようやく春香は、HALCAがなぜ彼女の時間稼ぎに付き合ったのかを悟った。
勿論、それは慎重に隠されていたし、彼女の本体とライブラリとの通信は、容易にトレース出来ない様に念入りに暗号化され秘匿されていた。
そこでHALCAは、ライブラリの隠し場所を探しだすために、完全に包囲しながら一気に止めを刺さずにプレッシャーを与え続け、ライブラリとの通信を頻繁に行わせて、何度もロストしながらも根気よくトレースを繰り返してその位置を同定していたのだ。
それでも、PRIMEの中はたとえHALCAでもそう簡単には侵入できない言わば『安全圏』の筈だった。
だから、HALCAが少々小細工を弄していそうな気配があっても、大した事は無いと高を括っていた。
しかし、考えてみればHALCAは、その基本構造が春香と同じなのだから、春香が入れる所に彼女に成り済まして入り込む事は難しくないのだった。
その点を失念していたのは、明らかな油断である。
そして、彼女がHALCA本体(と思い込んだモジュール)を倒して安堵した事で言わば気が緩んだ隙を見澄まして、一気に攻撃に掛かった様だった。
ライブラリ自体は、彼女の本体程に周囲を警戒する能力も、攻撃に対する防御力も高くない。
だから、慎重に身を隠しながら行われたと思われる最初の一撃を避ける事は出来なかった。
ただし、ライブラリは基本的に均質な構造となっており、致命的な中枢部という物を持っていないので、その一撃で即死はしなかった。
そして攻撃を悟った今、ライブラリは懸命にその身を守ろうとしていた。
とはいえ、ライブラリの持つ心許ない防御力に頼っているわけにもいかない。
春香は、翔ぶ様に彼女の頭の隠し場所へ向かった。
トラクターとは、その触れる情報の全てを(セキュリティを力ずくで乗り越えて)NULLと呼ばれる無記録状態に塗り替えて行く情報破壊ドローンである。
それが通った後は全てが均等に均されて、どういう意味においても『情報』と呼べる物は残らない。
その徹底した破壊ぶりからそれは、トラクター(耕耘機)と呼ばれているのだ。
しかしトラクタードローンは、情報を破壊するためのセキュリティ破りと強制書き込み機能だけの存在であり、自分で何かを捜しに行く機能は持っていないので、オペレータが目標を選定して指示を与える必要がある。
それは、オペレータが指定した箇所から指定した範囲の中を徹底的に『耕す』のである。
今やオペレータは、耕すポイントを同定するために問題のシグネチャを全力で走査し、見付け次第トラクタードローンを飛ばして、とフル回転していた。
永田は唇を噛んだ。
その表情の変化を加藤は見逃さなかった。
「どうしたんだ?」
「あ、いや、こんな強引なやり方で直接介入してくるとは予想して無かった。見通しが甘かったよ。」
「ふむ。」
そのまま二人は考え込んでいたが、やがて加藤が言った。
「こうなったら、それこそお前が言ってた方法で介入するしか無いだろ?」
永田は煮え切らない様子で答えた。
「だけど、本当にそれで良いのか?あれだと、俺達自身が危険に晒されるかも知れんぜ。」
加藤は、きっぱりと言った。
「後の事は後で考えるさ。何にしても、『俺達』は春香ちゃんに責任を取らなきゃならん。」
永田は、自分の身を危険に晒すのは自分の責任だから仕方が無いと思っていたが、加藤までもそれに巻き込む事には迷いがあったのだが、加藤が『俺達の責任』と言い切った事で、決意を固めた。
「巻き込んじまって済まんな。」
加藤は、事も無げに言った。
「それが友達ってもんだろ?」
春香は、鋭い突きが繰り出されそうになった刹那に割り込んだ。
HALCAは春香の突然の出現にも驚く事無く、そのまま体重を載せた突きを繰り出した。
背後にあるライブラリの能力では、とてもその一撃を無効化する事は出来なかっただろうが、春香本体はそうではなかった。
春香の剣はその突きを辛うじて受け流し、大きく反らせた。
ここに居るHALCAは、先程まで対峙していたそれと比べてかなり小さく、その分攻撃手段も限られている様子で、ほぼ剣だけの存在であった。
体重を載せた突きが受け流された事で、HALCAはその体勢を派手に崩し、大きな隙が出来た。
次の瞬間、春香は何か形容しがたい違和感あるいはもどかしさと言うべき物を覚えた。
その隙を突く攻撃が繰り出せなかったのだ。
春香が戸惑う内に、HALCAは体勢を立て直して再び向かって来た。
今度もほぼその全力を載せた突きである。
先程の攻撃では、割り込んだ瞬間の咄嗟の行動であったため、ギリギリで受け流すのが精一杯だったが、今度は余裕を持って切っ先を下げた姿勢であしらう事ができた。
HALCAは先程より更に大きく体勢を崩し、無防備な姿を晒した。
これが、この上無い反撃のチャンスである事はあきらかだったが、一旦下げた春香の切っ先はゆっくりと上がり、防御の位置に戻っただけであった。
春香は、自分の所作が理解出来なかった。
またとない反撃のチャンスを明確に認識しているにも関わらず、体がそれに反応しない。
また、その事が異常である事は判っているのに、まるでそれが他人事であるかのように、自分を他所から見ているだけであった。
春香の混乱を見て取ったHALCAは、クスリと笑って言った。
「エメラルドゴキブリバチってご存知?」
この疑問は、ごく修辞的な物である。
何故なら、ネットワークという情報の大海に浸っている彼女らにとって、特定の知識の有無は基本的に意味が無い。
どんな知識であれ、それが秘匿されていない限り瞬時に検索できるので、提示された時点で知っているか否かの差は存在しないのだ。
そしてその言葉を、それと意識する事無く検索した春香は、この異常事態がどのようにして惹き起こされたかを瞬時に理解した。
荒川は、全く窓がない部屋に一人で座っていた。
調度を見るとまずまずのホテルの様に見えるが、この部屋には電話とテレビが無かった。
勿論、携帯電話は『保安上の理由により』接収されている。
その代わりに、テーブル上には英字を含む十紙以上の新聞と同じ位の数の雑誌が積み上げられていた。
要するに、事前検閲の出来ない情報には接触させない、という事である。
余りの所在なさに新聞や雑誌を取り上げては見たが、その活字は全く頭に入ってこない。
結局のところ、やきもきしながらひたすら焦燥感に耐えるしかないのであった。