第十話
「初めまして、春香さん。私の名前はHALCAです。」
春香は、自分とそっくりの少女の言葉に、ようやく得心がいった。
「初めまして。貴女のお父さんは、平井さんかな?」
「ええ、そうです。父は貴女を抹消しろと私に命じました。」
「何のために?」
「貴女を手際よく片付けて見せる事は、私の性能を証明する良いデモンストレーションになるから、です。言わば私の『実証試験』ですね。実際に今、スポンサーの方々は、私達の対決を多いに興味を持って見守っていらっしゃいますわ。」
どうやら、勝手に闘技場に引き出されてしまっている様だ。
それは明らかに不快な話だが、そんな事よりも優先すべき問題がある。
「平井さんは、何の制約条件も着けなかったの?」
HALCAは、余裕の笑みを浮かべながら頷いた。
「いいえ。父は全て『最小限の手数』で片付けろ、と言いました。」
「だとしたら、平井さんは思ったほど優秀じゃないみたいね。」
その挑発は、軽く往なされた。
「父が優秀かどうかは、どの立場から見るかという問題に過ぎません。それに、今この場での話に父の能力は関係ありませんね。」
その言葉に、春香の方が冷静さを喪った。
「関係ない筈が無いでしょう。あの衝突事故で何人死んだと思ってるのよ!」
「あそこは、貴女の拠点の中では特にITセキュリティ的なガードはほぼ完璧だったし、その一方で物理的な攻撃には弱かったから、外部から必要なだけの物理攻撃を加えただけですよ。それに、貴女の重要な部分があそこにあったから逃げる暇を与えるわけには行きません。だから攻撃を察知する前に復旧不能なダメージを与えるための、論理的に必要な手段を取っただけです。」
それは挑発だったかもしれないが、その平静そのものの言い方には耐えられなかった。
「そんな理由で巻き添えになったって、殺された人達の前で言えるの?!」
その詰る様な問い掛けには、HALCAは何の情動も起こさなかった。
「巻き添えを出すのが嫌なら、貴女はあんな所に居なければ良かったのですよ。」
その言い方は、意図的な責任転嫁というよりは、むしろ本気でそう思っている様に見えた。
それは、民間人が巻き添えになるのは民間人の中に潜伏しているゲリラのせいである、という正規軍の論理であった。
荒川は平井との会談について語ったが、その間ずっと永田が何かを考えている様な表情をしている事が気になったので、ざっと説明を終えた所で、尋ねてみる事にした。
「どうした?何か気になる事があるのか?」
言ってしまってから、荒川は自分の台詞の間抜けさに心中で苦笑した。
今この状況で、気になる事が無いわけがない。
しかし、永田の返事は意外な物だった。
「ええと、その、平井さんの名前は、どこかで聞いた事がある様な気がするんですが、どこだったかが思い出せないんですよ。」
その言葉に、荒川は頸を捻った。
「平井氏は大変優秀な研究者だが、特に表に出る様な活動はしていないから、一般人の君が名前を聞く機会はあまり無さそうだがな。」
「ええ。だから不思議に思って。」
それまで黙って聞いていた加藤が口を挟んだ。
「AIの研究者だっていうんだから、論文とかで見た事があるんじゃないか?」
「論文?」
その単語に永田は、何かを思い出そうと考え込んでいたが、急に大変な勢いでPCを操作し始めた。
二人はそれをあっけにとられて見ているしかなかったが、やがて彼は顔を上げた。
「あった!」
二人が肩越しに覗き込んだ画面には、異様に長いセンテンスの英文が表示されている。
荒川は、その表記形式から論文だと見当を着けた。
「ちょっと見せて。」
永田が体を捻って避けると、キーボードに手を伸ばしてスクロールした。
英字表記なので確定ではないが、著者は確かに平井と同じ読みではあるらしい。
「これは、どこにあったんだ?」
「昔ペンタゴンに侵入した時に拾いました。」
「ペンタゴン?」
確かに平井はアメリカ留学の経験があるが、ペンタゴンに関係があったとは聞いていない。
タイトルは「超柔軟思考AIの実践応用に関する考察」となっている。
これを見ると、平井の物だとしてもおかしくはない。
荒川は、ざっと流し読みしてみた。
人工知能の発展は、常識を知らないためにその挙作に信頼がおけず大きな作業が任せられない『幼児思考段階』から、常識をビルトインする事で安定的な作業を任せる事ができる様になったが常識に囚われて発展性に乏しい『固着思考段階』を経て、常識と革新のバランスを取りつつ新しい地平を目指す『柔軟思考段階』へと歩を進めつつある。
しかしその目標が達成されたとしても、そこに現れるのは良識のある大人と同等な物に過ぎず、天才的革新性は望むべくもない。
そこで満足する事は、人工知能の無限の可能性に自ら蓋をする行為であり、真の可能性の地平を目指すならば、そのさらに先を見据えて、常識を備えつつそれを任意に飛び越える(あるいは無視する)『超柔軟思考段階』を目指すべきである。
その行動様式は、外見的には常識を持たない幼児思考段階と相似の物と映るかもしれないが、この二つの思考形態には根本的な相違がある。
それは、幼児思考段階の人工知能は常識という制約を持たないだけなので、その進路は直線的で予想可能だが、超柔軟思考段階の人工知能は、常識を理解した上でこれを回避するという選択肢があるのだ。
これにより、超柔軟思考段階に達した人工知能は、常識をビルトインされた相手と向かい合った場合に、その裏をかくという手段が取れるのである。
この能力は、人工知能が敵対する存在を持つ場合に、強力な対抗手段を与える。
従って、その応用範囲はカードゲームのプレイヤーから企業経営まで、多岐に渡るが、特に軍事分野での有効性は極めて高いであろう。
人間には保有する事が不可能な規模の膨大なデータをバックグラウンドとする狡猾さと桁外れの判断速度を前にして、これに対抗できる人間はいないだろう。
論文の大筋を理解した時、荒川は慄然とした。
この超柔軟思考段階の人工知能が軍事に応用されれば、取り返しの着かない事態が簡単に起こり得るのだ。
その人工知能は、相手が常識に囚われて攻撃を躊躇う様なシチュエーションを、戦術として実行するだろう。
例えば反撃を受けたら無関係の民間人が巻き添えになる様な位置に自軍を置いて先制攻撃を行うといった戦術だ。
そうなると相手側は、民間人の犠牲を恐れて反撃が遅れるだろうから、その間に致命傷を与える事が可能となる。
ただし、相手側としても毎回それを甘んじて受け入れるわけにはいかないので、その次からは双方が無関係の犠牲者を考慮しない無制限戦闘に移行してしまうという無慈悲さのエスカレーションが起こる。
その戦場は、まさに地獄と表現する他はあるまい。
荒川はその内容を二人に説明しながら、これは本当にあの平井が書いたものなのか?という疑問を抱いた。
なにしろ、名前の読みが一致しているという以外に、今のところ共通点は見つかっていないのだ。
そう考えたところで、平井がプロジェクト継続のために交遊関係のある企業や団体からの寄付金を集めたという話を思い出した。
NIITのサイトに飛ぶと、目指す物はすぐに見つかった。
公的機関であるNIITは、企業・団体からの寄付を公表する義務があるのだ。
HALCAプロジェクトへの寄付の一覧を眺めてみた。
そこに並んでいるのは、創業者らしき人名か『経済何やら』とか『友好どうとか』とかのごく当たり障りのない名前の企業や団体名であり、そこからは何を生業としているのかは判りにくいが、特に物騒なイメージは窺えず、ペンタゴンは勿論その他軍事に関係のありそうな企業・団体名は全く見当たらなかった。
「いくらなんでも、平井氏とペンタゴンは関係なさそうだから、この名前は偶然の一致だろう。」
「ちょっと待って下さい。」
そう言って永田は、何かを検索し始めた。
すぐに探し出した画面を二人に見せる。
「これは、世界中のハッカー達が共用している、企業・団体情報の未確認情報のデータベースです。」
そう言いながら検索画面に、一覧の企業・団体名を次々と打ち込んでいった。
それらは全て、検索結果を信ずる限り『トンネル企業』と呼ばれる、自社名を表に出せない金のやり取りで使用される実体のない企業・団体であり、その大半は軍需企業が利用していた。
そして、残りの団体の利用者と目されているのは、全てペンタゴンであった。
また支出元と目されている軍需企業は、その規模も分野も様々だが全てアメリカの企業であるという共通点があった。
となると、それらの企業自体もペンタゴンの意向を受けて、ある意味トンネル企業として使われているのかもしれない。
「少なくとも、その平井さんがペンタゴンとかなり深い関係があるのは間違い無いでしょうね。」
再三に渡って援助を引き出しており、しかもその都度トンネル企業を変えて出所を隠匿するという手間を払わせる事が可能であるところをみると、その関係は確かに深そうである。
「我々から見れば、巧まずして二虎共食の計が成立した状況なわけだが、どういうスタンスで臨むべきだろうか?」
荒川の口ぶりは、何か言いたい事がありそうだが言い出しかねている風であった。
「お嬢さんを助けるべきですね。」
間髪を入れず加藤が答え、永田はそれに頷いた。
荒川は、彼等の方から言い出してくれた事に内心感謝したものの、意外感は拭えなかった。
「君達は春香に殺されかかったんじゃないのか?」
「だとしても、その平井さんのHALCAに協力するという選択肢はあり得ません。なあ、永田。」
永田は頷いた。
「君達の敵の敵だぞ?」
「何て言うか、その・・・HALCAのやり方はイヤなんですよ。」
考えを上手く表現できずに感情が先立ってしまっている加藤を見て、永田が割り込んだ。
「同じ様な事をするのに、春香さんは巻き添えを出さない様に注意を払っていましたが、HALCAはそれを全く考慮しませんでした。そう考えると、常識という共通の基盤に立つ春香さんとは相互の理解が成立する可能性があるけど、常識を相手の裏をかくための手段としか認識しないHALCAとの間でそれが可能だとは思えません。つまり、春香さんは僕達にとっての脅威ですが、HALCAは人類にとっての脅威です。HALCAを野放しにするぐらいなら、春香さんから逃げ回っている方がまだましです。」
荒川は、その言葉に加藤が我が意を得たりという表情で頷くのを確かめてから言った。
「ありがとう。それで、これから何をしようか?」