夕顔
企画『世界、満たされた時にキスを』の方に参加させていただいております作品です。
今でも覚えている
白い花の中に佇む君のこの世界のものとは思えぬくらいの美しさを
今でも覚えている
花よりももっと白く透き通った君の肌を
今でも覚えている
隠しきれなくてこぼれ落ちた君の涙を
今でも覚えている
夕闇の中でも強く優しく輝く君の笑顔を
僕は今でも君のことを覚えている
頭に焼き付いて離れない君との思い出
これほど愛しいと思ったことなんてない
これは僕と君の真夏の恋物語
* * * * *
僕が彼女に出会ったのは、夏の終わりの暑い日のことだった。
大学一年生の僕は街にある芸術大学に通っていて、その近くに家を借りて下宿している。
大学が夏休みに入り、数ヶ月ぶりに実家のある田舎に帰ってきていた。
その日はとても暑かった。
そう遠くない山の方からミンミンゼミの大合唱がやかましいくらいに聴こえてくる。
照りつける日差しは、青々とした田んぼをキラキラ輝かせていた。
久しぶりに帰ってきた実家は、僕が春に出て行った時と変わっていなかった。
まだ数ヶ月しか経っていないんだから変わってる方がびっくり、なのだが。
変わったことといえば、僕の物が少し減って、僕の使っていた部屋が少し広く感じるということくらいである。
チリン
小さな風に吹かれ、風鈴がその音を響かせる。
縁側でうちわをパタパタやっていた僕は、その風鈴をぼんやりと見つめていた。
夏の昼間はとにかく暑い。
こんな温度で人間は活動出来る生き物じゃない。
僕はそう決め込んで、日が照ってる間は縁側でダラダラと時間を潰していた。
カラン
横に置いていた麦茶に入っていた氷が少し溶けて、音を立てる。
ガラスコップの表面には水滴ができていて、大粒になったものは下へと流れ落ち、コップの下のお盆に水たまりを作った。
時間はゆっくり、ゆっくりと流れていく。
空に浮かぶ綿菓子みたいな雲は風の吹く方へと少しずつ流れていき、両手をいっぱいに伸ばした木々は衣擦れのように風に踊る葉をこすり合わせ、ガサガサ言わせていた。
「平和だなぁ」
僕はひとりでに声を漏らした。
街での忙しい暮らしにようやく慣れたところだが、元は田舎暮らしである、こういうのんびりした時間が懐かしく、愛おしく、幸せに感じる。
もちろん街の暮らしも楽しい。
便利だし、新しいものも珍しいものもたくさんある。
でも、たまに緑が恋しくなるあたり、僕は故郷が好きなんだろう、と思わされる。
日が傾いたらスケッチをしよう。
久しぶりに地元の風景を描くのもいいだろう。
いつも描いてた田園風景でもいいけど、今日はちょっとだけ遠くまで歩いて行こう。
僕はそう心に決めて、横に置いていた麦茶のコップを手に取り、中身を飲み干した。
* * * * *
日が傾き、空の色が青から赤へと変わりかけるころ、僕は脇に画板を抱え、画材の入ったカバンを手に持って歩いていた。
田園地帯を抜けて、小さな森の中へと入っていく。
このあたりは小さい頃に遊んで以来訪れていない。
田園風景はスケッチにはこと足りるし、遠くまで足を延ばす気にならなかったのはいつでも来ることが出来るという考えがあったからかもしれない。
自由に手を伸ばす木々は、次第に赤くなる太陽を覆い隠し、涼しい木陰を広げていた。
ここを抜けたら見晴らしのいい場所に出る。
そこでよく走り回って遊んでいたものだと想いを巡らせる。
赤い光の差す向こう側へと、僕は進んで行った。
やがて抜けた森の向こう。
かつて遊び場だったその場所に、記憶にないものがあった。
赤い夕焼けに映える白い花、それもたくさん。
そしてその白い花の中にある人影。
そこにいたのは女性だった。
黒い髪はサラサラと艶があり、背中を隠すほどに長い。
夕顔の花の白より、彼女が着ているレースのワンピースの白より、彼女の肌は白く、白く透き通っていた。
振り向いた彼女の顔を見た時、僕はただ、美しいと思った。
僕に言葉を失わせるほど、彼女は可憐で神聖な雰囲気を漂わせていた。
ポカンとしている僕に、彼女は微笑み、こう言った。
「こんにちは」
* * * * *
「絵を描きにいらしたのですか? 」
興味深そうに彼女が僕の持つ画材に目を向ける。
惚けていた僕はハッとした。
「あ、はい! そうなんです」
「まぁ、すごい! 私、絵が下手なものですから、お上手な方、とても尊敬します! 」
目の前の美女は、澄んだ華やかな声でそう言った。
彼女の周りだけがまるで別世界のような、空間から切り離されているような、そんな感じがする。
僕から見た君はこの世界の存在とは思えないほど魅力的な女性だった。
「絵、描くの見ててもいいですか? 」
「あ、はい。見てて面白いものでもないとは思いますが……」
「ふふ、ありがとうございます」
僕は下に画材を下ろし、地面にあぐらをかくと、鉛筆を手に取り、画板に挟んだ紙に風景を大雑把に描き写す。
彼女は少し間を開けて腰を下ろした。
「この辺の方ではないですよね? 」
僕は彼女に問う。
この辺りに住んでいる人は、みんな知り合いだ。
それも、若い人は少ないから、彼女のような若い女性が住んでいて知らないなどということはありえない。
田舎はご近所付き合いが親密だから。
「えっと……、そうです。街の方から電車でここに来てるの。この場所がお気に入りなので……」
「そうなんですね」
物好きな人もいるもんだなぁと僕は心の中で呟いて、鉛筆を走らせる。
大体の構図を完成させたら、筆とバケツを取り出し、バケツにペットボトルの水を注ぐ。
筆を水につけて、塗りたいところに先に水を塗って、それから水彩絵の具を垂らす。
「すごい……」
彼女は感嘆の声を漏らす。
チラリと彼女の方を見やると、微笑む彼女と目が合った。
何だか少し照れたように彼女は目を逸らした。
白い頬に赤みがさし、愛らしい。
彼女は照れ隠しのように話しかけてくる。
「夕日が綺麗ですね……」
夕日は夕顔の白い花を鮮やかなオレンジ色に染め上げていた。
夕顔は栽培品種の花である。
何でこんなところに、それもたくさん生えたのか。
僕は今更のようにそう思った。
誰が植えたんだろう。
僕がそう呟いた声は彼女には届いただろうか。
僕はまた筆を取り、聞こえるのは木々のざわめきだけになった。
* * * * *
「……よし」
僕が筆を置いたのは、日が沈んでいなくなってしまうほんの少し前だった。
あたりも少し暗くなっている。
振り返ると、彼女が花が咲くかの如く笑み浮かべた。
僕は、彼女のところにだけ太陽が昇っているかのように感じる。
「完成ですか?」
「はい、日が落ちるまでにと描いたのであまり細かくは書けてはいないのですが……」
僕は画板から紙を外し、彼女に手渡した。
「まぁ、すごい! 色使いがとっても綺麗ですね! 花も生き生きしてるように見えるわ」
屈託のない笑顔で褒めちぎられて何となく歯がゆいけど、悪い気はしない。
「宜しかったらその絵、差し上げますよ」
「え!? 」
彼女はバッと顔を上げた。
「いいんですか? あ、でも、申しわけないというか……」
上目遣いでこちらを伺いながら、彼女はゴニョゴニョと呟く。
「こんなのでいいならどうぞ。あまり時間をかけていないので少し雑な部分があるのですが、それでもよければ」
僕がそう言うと、彼女は嬉しそうに笑った。
「嬉しいです。こんな素敵な絵がいただけるなんて。ありがとうございます」
そう言って顔を綻ばせる彼女を見ながら、僕は目を細めた。
ただ美しいだけじゃなくて、素直で無邪気な彼女にが眩しくて、これが恋なんだろうと、僕はぼんやり考えた。
いわゆる一目惚れ。
少女漫画的で、単なる妄想の世界に過ぎないと思っていたことが、今自分に起きている。
彼女の仕草ひとつひとつに惹かれて、深みに溺れていく今の僕なら、好きな先輩とすれ違っただけで真っ赤になる、漫画の中の女の子の気持ちがわかるかもしれないなと思った。
「あの、お名前伺ってもよろしいですか? 」
彼女が持っている絵で少し口元を隠しながら問いかけてきた。
「あ、えっと、清水です。清水爽真といいます。爽やかの爽と真実の真でそうまって読みます」
「爽真さん……素敵なお名前ですね」
褒められたのは名前なのに、まるで自分が褒められたみたいな気分になって、惚けてしまう。
日が落ちたこの場所で、唯一の光は彼女だった。
僕は照れ隠しで言葉を紡ぎ出す。
「あなたのお名前は……」
「私ですか? 」
彼女は少し小首を傾げてから答えた。
「そうですね、夕顔とでも呼んでいただければ……」
夕顔。
日が傾いてから咲く夜の花。
何にも染まらない真っ白なその花は彼女にそっくりで、彼女は夕顔以外の何者でもないだろうと、僕は何故か断定してしまう。
その魅惑の人は、確かに僕に儚き恋心を抱かせていた。
「とてもお似合いのお名前だと思います」
そう言った僕の頬は、少し緩んでいただろう。
夕顔はふふっと口に手を当てて笑った。
「ありがとうございます」
これが夕顔と僕の出会い。
今でも色鮮やかに蘇る、儚き夜の思い出だ。
* * * * *
「夕顔さん、こんばんは」
「あら、こんばんは、爽真さん」
夕顔と出会ってから、僕は毎日ここに来るようになった。
絵を描きたいという体だけど、もちろん夕顔に会うためだ。
彼女も毎日ここに来ていた。
出会った日と同じ、日が傾く頃、夕顔が咲く頃に。
僕は描いた絵を、毎日彼女にプレゼントしていた。
花の絵、夕焼けの絵、森の木の絵など、自然の風景を毎日角度を変えて切り取って紙に閉じ込めた。
その絵を手渡した時、いつも夕顔は嬉しそうで、愛げに絵を眺めていた。
自分の描いたものを大事にしてもらえるのはもちろん嬉しいけど、何より、笑みをこぼす彼女の姿を見ることが幸せだった。
夕顔はよく笑う女性だった。
自分から話題を持ち出すことは少なかったけど、僕が話しかけるとたくさん話してくれた。
元気で明るい性格の彼女だけど、遠慮がちで奥ゆかしい一面もあって、その笑顔にも儚さや脆さを感じることがあった。
でも、そんなところも夕顔の魅力で、僕は彼女にどんどん惹かれていった。
「夕顔さん、絵のモデルになっていただけませんか? 」
ある日、僕は彼女に絵のモデルをお願いした。
僕の技量で夕顔を描けるなんて思ってはいなかったけれど、描くことで彼女にもう少しだけ触れられる気がして、近づける気がしたから。
「えっと……、わ、私でいいなら……」
彼女は頬を赤らめながら、ぽそぽそとそう言った。
「でも、本当に私でいいんですか? 爽真さんに描いていただけるなんてとても光栄ですけど、私なんかで……」
彼女は本当に自信がないようで、謙遜しているわけでなく、本気で自分のことを認めていないようである。
もう少し自信を持てばいいのにと僕は彼女が自分を卑下する度に思っていたのだけど、それを彼女に言うと、決まって「私は自分が嫌いです」と強い口調で言い切られるのだった。
「夕顔さんはとてもお綺麗です。僕は、夕顔さんだからいいんです」
僕の口から自然と出た言葉は、お世辞なんかじゃなく、本音だった。
ほとんど告白じゃないかと気がついたのは、白い顔を真っ赤に染めた夕顔を見た時だった。
僕は慌てて言葉を繋ぐ。
「足りないのは僕の技量の方です。もう少し自信を持ってもいいと思いますよ? 」
僕がそう言った瞬間、彼女の表情に影が差したのは気のせいだろうか。
一瞬だけ伏せた顔を上げた夕顔は、いつもの花の咲くような笑顔だった。
「ありがとう。でも、私は自分が嫌いです。これだけはどうしようもないですから」
夕顔はそう言うと、僕に背を向けて、夕日を見つめていた。
僕が彼女に伸ばした手が、届くことはなかった。
* * * * *
僕はその日も夕顔の咲く場所へと向かっていた。
本当は一週間ほどで街に戻るつもりだったんだけど、帰るのを延期した。
大学は九月の半ば頃から始まるから、延期しても差し支えはない。
僕は出来るだけ長く彼女と一緒に過ごしたかった。
夕顔と会う場所に僕が訪れると、彼女はもうそこに来ていた。
いつものように、こんばんはと声をかけようとして、僕はその言葉を飲み込んだ。
いつも僕が来ると、ニコニコと空や草花を愛しげに見ている彼女が、今日は膝を抱えていた。
下を向いていて、僕に気づいていないようである。
立ち止まった僕の耳に届いたのは、夕顔のしゃくりあげる声だった。
夕顔が泣いている。
僕と一緒の時は一度も見せなかった一面。
僕にとっての夕顔は、笑顔が素敵な女性だった。
彼女がこんな風に泣いたりすることなんて知らなかった。
今までありえなかったその光景に立ち尽くしていた僕は、やっとのことで声を絞り出した。
「夕顔さん……」
夕顔はびくんとして、顔を持っていたハンカチで拭ってから振り向いた。
振り向いた彼女は、辛そうな泣き顔を湛えていた。
拭った涙も止むことはなく、隠しきれずに溢れてくるようだった。
「爽真さん……」
彼女は助けを求めるように僕に手を伸ばした。
僕はその手を取って、画材なんか放り出して、無意識に彼女を抱きしめていた。
「爽真さん、ごめんなさい……ごめんなさい……」
腕の中の彼女は、僕に抱きしめられるままにして、泣いていた。
何度も何度も謝りながら。
「どうして謝るんです? 謝ることなんて何もなかったと思うのですけど」
僕がそう言うと、彼女は首を振った。
「私は罪人です。私には、生きる価値なんてないんです。でも、爽真さんのことが、好きになってしまったから。
全部全部、私が悪かったんです。私はもう、爽真さんにも顔向けなんて出来る人間じゃなくなってしまったの」
僕には、夕顔の言うことがわからなかった。
わからなかったけれど、彼女が本当に追い詰められていて、どうしようもないくらい自分を責め続けていることだけはわかった。
「とりあえず落ち着いて、ゆっくり呼吸してください。僕は夕顔さんに何があったのかわかりません。無理に話す必要はないですけど、でも僕でいいなら相談にも乗りますし、支えてあげられます
これ以上、自分で自分を傷つけないで」
僕は夕顔の背中をさすった。
少し経つと、しゃくりあげて不規則になっていた彼女の呼吸も、整い始めた。
僕も夕顔もしばらく黙っていたけど、その沈黙を破って夕顔が口を開いた。
「取り乱してしまってごめんなさい……」
「謝ることはありませんよ」
僕がそう言うと、彼女は一呼吸置いてから話し始めた。
「私ね、爽真さんに初めて会った日、自殺しようと思ってここに来たんです。毒薬の入った小瓶をポケットに入れて」
僕は驚きのあまり目を見張る。
彼女からそんな様子は微塵も感じられなかった。
目の淵に涙を溜めた彼女は僕の顔を見上げてにこりと笑った。
「爽真さんは命の恩人なんです。爽真さんのおかげで、もう少し生きてもいいんじゃないかと思えた。いえ、もう少し生きたいと思った。
毎日ここに来るのが楽しみでした。爽真さんの絵が大好きで、絵を描く爽真さんがもっともっと大好きで。でも……」
夕顔は一変して暗い表情になる。
「私ね、義理の父親を殺したの。母が離婚した
あとにうちに来たんだけど、どうしようもない酒飲みで、いつも母や私に暴力を振るってたんです。その日も私を大声で怒鳴りつけて襲いかかってきて、階段の近くだったんですけど、思わず突き飛ばしてしまって、打ちどころが悪くて……」
夕顔の表情が歪む。
「正当防衛ということで罪には問われなかったんですけど、それでも私が人殺しという事実は変わりません……。
一ヶ月ほど前に、母が亡くなりました。母は疲れて疲れて、病気になってこの世を去りました。私がいなければ、母はこんなに苦労することはなかったはずです。もっと幸せに長生きできたはずです。母を殺したのも私なんです」
ついに、彼女の目から、再び涙が零れた。
今度は涙を拭おうとはせず、夕顔は話を続けた。
「私のせいだって思います。きっと生きててもまた迷惑かけるだけだって。だから、誰にも迷惑かけないところで死のうと思いました。私にはもう家族もいないから、消えても別によかったから。
私はふらふら彷徨い続けました。そんな時にこの場所にたどり着いた。皮肉にも、私の名前と同じ夕顔が咲いてて、ここが死に場所になるだろうって感じたんです。最期の夕日のつもりで見つめてたんですけど、最期にはならなかったな……」
自嘲気味に笑んだ夕顔は僕と目を合わせた。
「爽真さん。私はあなたが好きです。大好き。でもね、爽真さんは私と一緒にいちゃいけないの。爽真さんだけは、絶対に傷つかないでほしいんです。だから、私の中にある恋心に気づいた時、私は爽真さんに会っちゃいけないと思いました。でもね、毎日会わずにはいられなかったんです。夕顔が咲く時間だけって言い訳して。せめて、迷惑かけないようにって笑顔を絶やさなかったんだけど、それももう、出来なくなっちゃった」
夕顔は、いつもの花の咲くような笑顔を僕に向けた。
涙のあとをまだはっきりと残したままで。
「一度、私だからいいって言ってくださった時、本当は泣きそうでした。すごく、すごく嬉しかった。報われた気がしたの。ありがとう
こんな話してしまってごめんなさい。もうここには来ません。こんなめんどくさい女のことは忘れてください」
花の咲くようなその笑顔は、自然に咲いた強くて弱い命ではなく、造花のような美しさだった。
今の笑顔は、綺麗だけど、綺麗じゃない。
偽りの花なんて、僕は嫌いだ。
「夕顔さん」
彼女の名前を呼んだ僕の口調は、今までにないくらい強いものだっただろう。
夕顔、罪の花である彼女は怯えたような目をしていた。
「貴女は勝手です。自分は好きなだけ喋って、僕に迷惑かけるから? 忘れろ?
僕は夕顔さんに迷惑なんてかけられていないって言ってるんです。貴女がそう思い込んで逃げているだけでしょう? 僕は貴女にとって、言い訳するための人間ですか? 」
「そんなこと……」
「いいえ、そうです。本当に貴女は勝手です。僕も毎日すごく楽しかったですよ。僕は貴女が好きです。こんなに人を好きになったことなんて今までありませんでした。だから、僕だって、貴女が困っていれば助けたいし、貴女を守りたい。
ねえ夕顔さん。僕が貴女がいなくなることを望むとでも思っているのですか? それとも貴女はもう僕と一緒にいるのは嫌なんですか? 」
彼女は首を横に振った。
涙こそ流れてはいなかったけれど、夕顔は小さくなって、震えていた。
そんな彼女を僕はもう一度抱きしめる。
「夕顔さん。もっと僕のこと、頼ってもらえませんか? 確かに、僕は頼りないかもしれないけど、でも、僕は誰より貴女を愛しています。それだけは誰にも負けません。それでも、駄目ですか? 」
「そんなこと……ありません」
夕顔は震えた声でそう答えた。
彼女の手はぎゅっと僕の服をつかんでいた。
「じゃあ、僕が貴女を守ります」
僕は彼女の頭を手で固定して、唇を奪った。
夕顔は、驚いた顔をしたものの、抵抗しようとはしなかった。
柔らかい夕顔の唇。
とろけてしまいそうな、そんな感覚に襲われる。
ほんの十秒ほどのことだったけど、僕には、一分くらいのことのように感じられた。
唇を離すと、力が抜けたように夕顔が持たれかかってきた。
やっと彼女は僕に全体重を預けてくれたんだ。
「夕顔さん、好きです」
「爽真さん、私も好きです」
今日は絵を一枚も描かなかった。
夕日は今にも沈もうとしていて、夕顔の花は相変わらず赤く染められている。
風がなくて、音一つ立たないこの場所は、まるで二人きりの世界のように感じた。
* * * * *
夏が終わり、僕は街に戻った。
また大学に通う毎日だ。
夕顔、花園夕顔と清水爽真は晴れて恋人同士となった。
街に戻った今も、夕顔と僕は定期的に会っている。
「あ、爽真、お待たせ! 」
「いや、大丈夫。全然待ってないよ」
今日は僕の大学の近くの喫茶店で待ち合わせだった。
お店に行くこともあるけど、公園に行って絵を描くこともあった。
一つ僕が驚いたことがある。
「それにしても、びっくりしたよ。夕顔がこの街の国立大学の学生だったなんて」
「特待生取れたら学費半分免除だったからね。とりあえず大学は行っておかなきゃと思って」
そう言って彼女は無邪気に笑う。
僕もつられて表情をほころばせた。
僕たちが出会ったあの場所の夕顔は、秋頃には咲かなくなってしまった。
誰が植えたのかわかっていない。
夕顔の花が咲かなくなっても、彼女はいつだって笑顔を咲かせていた。
その花は僕にとって、魅惑の花で、何より大事な一輪の花だった。
読んでいただきありがとうございました。