ダイラと小さなお嬢様9
「俺が最近我が家の家庭教師が貴族の男性に言い寄られていて、大変そうだとどこかの集まりで漏らしてしまったんですよ。ただの世間話です。しかし、世の中は狭いですね」
「なんだと。どうせ故意に事実をゆがめたんだろう」
クレメンテはアベルの方に向き直った。
「いえいえ。そんなことしてなんの得があるんですか。ただ、俺が呼ばれた昼食会にアリステル嬢と仲の良い令嬢や知人らがちらほらいたみたいで。女同士の噂話は広がるのが早いようですからね」
アベルはあくまで偶然を強調して話を切り上げた。
「クレメンテ、こんな田舎でも人のうわさなんてあっという間に広がるよ」
カルロスが口を挟んだ。
「なるほどな。おまえもそこの女を狙っていたというわけか」
「否定はしないけれど、俺はおまえのような姑息な手は使わないよ」
「なんだと」
「それよりも早く追いかけた方がいいんじゃないのか。彼女の機嫌が直らなければ、ようやく取りつけた結婚話がおじゃんになるよ」
その言葉を受けてクレメンテはカルロスの胸倉を掴んだ。
しかし、軍に所属しているというカルロスはびくりともしない。口元は余裕を浮かべた笑みを携えていた。
「次男のおまえにはちょうどいい相手だろうな。そんな女くれてやる」
クレメンテは吐き捨てるようにそう言葉を残してカルロスから手を離した。
「ちょ、ぬいぐるみ……」
乱暴な足取りで出て行ったクレメンテにダイラの言葉は聞こえなかったようだった。
「それなら俺が捜してきたよ」
アベルが少しだけ疲れた口調でダイラの方を向いた。
ダイラはアベルの方に顔を向けた。
「そもそもあいつが正直にぬいぐるみを部屋に置いておくなんてありえないから。どうせどこかに捨てたかしたんだろうと辺りを付けて、使用人らに聞きまわったんだ。案の定使用人に捨てておくよう言い遣わしたらしい」
「そうなの」
いかにもクレメンテらしいやり方にダイラも納得してしまった。
暗い影を湛えた瞳を思い出してしまう。
ダイラの口調に陰りを感じ取ったのかカルロスがいたわるように肩に腕を回してきた。
どうでもいいけれど先ほどから距離が近い。
ダイラはその腕を跳ねのけた。
「うわっ、もう立ち直っちゃったの? 早くない」
「どうもお騒がせしました」
「俺としてはもう少し悄然としててもらって、俺の胸の中に飛び込んできてくれる展開を期待していたんだけど」
その言葉にダイラは無言を貫いた。
「それにしても大丈夫なのですか。カルロス様、今回俺たちの味方をしてくれたのは助かりましたが、彼と仲違いしてしまって。今後の関係に障りがあると申し訳ないです」
微妙な空気を変えるようにアベルが話題を変えた。
「ああそのことなら別にいいよ。彼もこれで少しは懲りたんじゃない。ここだけの話、ガジェゴ子爵家の財政はとても苦しくてね。アリステル嬢との結婚は何が何でも決行しないといけないんだよ。彼女の生家は三代前に男爵位を賜った資産家の一家でね。彼女の持参金は子爵家にとって喉から手が出るほどのほしいってわけ」
ずいぶんとあけすけな内部事情にダイラは呆れてしまった。
「ええ存じ上げていますよ。モルリント家は我が家の大事な取引先でもありますから」
アベルが得心顔をしてみせた。
どうやらアリステルへの情報提供はアベルの人脈が大いに役に立ったようだ。それにしても人のことを庶民だとか、労働者とか言いつつ彼が熱心に口説いているのもつい最近貴族位を賜った新興の一族とは、ずいぶんな話である。
ダイラが釈然としない顔をしているとカルロスが補足するように口を開いた。
「自分の置かれている状況もあって余計に鬱屈していたんだろうね。古い血筋だけがガジェゴ子爵家の誇りだから」
「そうかもしれませんね」
ダイラも頷いた。
ともかくフェリシタスのぬいぐるみは無事に返ってきたのだ。これでようやく彼女も勉強に身が入るだろう。ダイラにはそのことのほうが重要だった。給金をもらっている以上、教え子のやる気を引き出すことも大切な仕事のうちなのだ。
その後ダイラはまるでどこかの王家の姫君のように男性二人を引きつれてレガルド家の別荘へと帰宅した。
借りもののドレスはきちんと洗濯をして後日カルロスへと返却をした。
返す時に馴れ馴れしく手を握ってきたのでダイラは彼の手を思い切りつねってやった。それでも笑みを絶やさすに「そういう強気なダイラちゃんも可愛いよね」と言うのだからダイラはカルロスという人間がまるでわからない。優しいのか、それともダイラのような庶民の言動なんてまるで相手にしていないのか。考えれば考えるほど謎なので、ダイラはあっさりと考えることを放棄した。どちらにしろモーテルゲイン湖滞在が終われば縁のなくなる人間なのだから。
ダイラはその後も淡々と職務を全うした。
朝早くに起床して、子どもたちが起きる前に読書に勤しんだ。一日の日程の中で自分だけの時間をつくったのだ。
「好き嫌いをしていたら寄宿舎に入って先輩に笑われるわよ」
アデーリタが苦手なにんじんを避けているのを注意するのも今では日課になりつつある。ふてくされたように不承不承口に運ぶアデーリタが可愛いと思うくらいにはレガルド家の二人の教え子に情を持つようになっていた。
朝食が済むとダイラはぱんぱんと手を叩いた。
「ほら、明日は帰る日よ。アデーリタもフェリシタスも荷造りを進めて」
「そういうのはイアがしてくれるわ」
「してくれるもん」
少し我儘なところは健在である。
「良いところのお嬢さんは自分の身の回りのことくらい少しくらいは自分でもするものよ。イアが気持ちよく荷造りできるように散らかしっぱなしにしないの」
ダイラはすっかり馴染みになった子供部屋を眺めた。
自身の荷物は少ないのであとでささっと済ませてしまうつもりだった。
「ダイラは女の子のくせに衣装持ちじゃないから簡単なのよ」
「言ってくれるわね」
アデーリタがちくりと反撃をしてきた。このくらいの年頃の女の子は生意気なのだ。
「だから……あげるわ。これ」
ぷいっと横を向いたのに、アデーリタは何かを差し出してきた。
レエスの付いたりぼんだった。
ダイラは吃驚してレエスのりぼんを見下ろした。
沈黙にいたたまれなくなったのかアデーリタがダイラにりぼんを押しつけてきた。その顔は赤く染まっていた。
「わたしも! わたしもダイラ先生に贈り物するの!」
なんでもアデーリタの真似っこをしたがるフェリシタスが旅行に持ってきていた小箱を取りだした。ふたを開けてごそごそとかき回して、小さな何かを取りだした。
「これ! これあげるの」
ぎゅっと握られた拳をダイラの方に付きだされて、ダイラはきょとんとしながらも手の平をフェリシタスの方へ差し出した。
ころんとなにかが光って落ちた。
それはちいさなボタンだった。きらきらとした紫色の色のボタンが三つ。
「これ……」
「先生のおめめと同じ色なのー」
にぱっとえくぼを浮かべながら笑顔を浮かべるフェリシタスにダイラの胸の奥がじぃんと熱くなった。一月ほどの付き合いだったのに、なんだかずいぶんと懐かれてしまった。フェリシタスはぼたんを集めるのが好きで、滞在中に何度か蒐集品を自慢されたことがあった。得意顔で色とりどりのボタンを並べられて、延々と説明を受けたことは記憶に新しい。
「ありがとう、二人とも。大切にするわ」
ダイラはじんわりと心の中が熱くなった。
フェリシタスはぎゅっとダイラに抱きついてきた。
「大切にしてね~」
「わたしのは、その……ちゃんと使ってよね」
素直になれないのかアデーリタは少しだけ口元をとがらせていた。けれどこれが彼女なりの言葉なのだ。
「わたしのも! ぼたんもちゃんと使ってね」
二人とも姉妹として似ているようで別々の個性を持っている。天真爛漫な妹になかなか素直になれない姉という少しだけ対照的な二人だけれど、どちらも根はいい子なのだ。
荷造りの為にそれぞれの私物やお土産をきちんと整理をして、最後のお散歩はミラン夫人とイアも含めてみんなで湖畔まで散歩に出かけた。水辺を歩いていると、こちらで知り合った人たちに声をかけられ、挨拶をして、来年も会えたらいいねなんて言葉を交わしたりもした。
家庭教師に来たはずなのに、色々と濃い時間だった。
ミュシャレンで賃仕事に追われていたら味わえないであろう経験もたくさんしたと思う。
ダイラは先日のぬいぐるみの一件を思い返した。帰ってきたうさぎを手にしたフェリシタスの感激ときたらすさまじいものがあった。部屋中を駆け回って全身全霊で喜びを表現していた。
アベルもあの件では随分と動き回ってくれたようだった。わざわざ一度ミュシャレンまで戻り、確実にアリステルの耳に噂が入るように仕向けたのだ。なんだかんだ妹想いなのだ。感心したダイラがそう褒めると彼は「俺だって伝手くらいあるし、このくらいのことできるんだ」という答えが返ってきた。何故だかカルロスに対抗心を燃やしているらしかった。
何故アベルがカルロスに張り合おうとするのか、ダイラには訳が分からなかったけれど、なんだかんだといい人だと思う。ただの級友というだけのダイラに仕事を持ってきてくれたわけだし。今回稼いだお金があれば来年学校を卒業しても、しばらくは職探しに専念できるだろう。
考え事をしながらゆっくり歩いているといつのまにかみんなと少しだけ距離が開いていた。フェリシタスは弟のカウロスと一緒に波打ち際で遊んでいる。ミラン夫人とイアは付き合わされて大変そうだった。転べば泣くのは目に見えている。
「何を考えているの?」
ふいに声が聞こえてダイラは隣を見下ろした。
いつのまにかアデーリタが隣に立っていて、ダイラを見上げていた。
「特には……」
「うそ。ダイラはいつもわたしたちと通して別の誰かを見ている。レカルディーナお嬢様のこと考えているでしょう」
突然口にされたレカルディーナの名前にダイラは身じろぎをした。別に今は考えていないのに、即座に否定をすればいいのにできなかった。アデーリタがとても真摯な視線でこちらを見つめてくるから。それくらい静かでそれでいて誤魔化しのきかない瞳をしていた。
「ダイラの中で、特別なのよね。でも……ちょっとさびしい……。ダイラにとってのお嬢様ってきっと彼女だけなのよね」
ダイラは何も言うことができなかった。
誤魔化すことは出来たと思う。
向かい合ったアデーリタの少しだけさびしそうな笑みを見たら、その眼差しから目が離せなくなった。
湖の、清涼な空気が二人をからかうようにあそんでいった。二人は微動だにしなかった。
「でも……、お兄様のお友達としてなら、その……たまにはうちにも来てもいいんだからね」
沈黙を破るようにアデーリタが口を開いて、ダイラの返事を聞かずにフェリシタスのほうへと駆けて行った。




