おまけ 婚約期間ですからっ
とにかく無事でよかった、とシーロやアドルフィートなど親しい者たちから無事の帰還を祝ってもらった夜のことだった。
ベルナルドはレカルディーナを離してくれなかった。
少しの間も視界から消えてしまうのが嫌なようで、今だってもう夜も遅いのにベルナルドはレカルディーナを離してはくれなかった。
侍従や近衛騎士らに気を使われて、現在二人きりである。ダイラに至っては「夜の九時までです。時間になったら迎えに来ますから」と至極真面目な顔をしてベルナルドに釘を刺していた。
何が楽しいのか、柔らかい顔で見つめられればレカルディーナの頬も自然と赤くなる。
ようやくベルナルドの隣に戻った安心感もいずこかへ行ってしまったのか、今はただ妙な緊張感でいっぱいだった。
(なんだかわたしだけ変に意識しているっていうか……)
あれだけベルナルドの側に帰ることを渇望していたのに、いざ一緒に過ごしてみたら逃げ出したくなるなんて変な話だ。隣にいる婚約者の距離感が近すぎることが一番の原因だ。
「あの……殿下……?」
さきほどからずっとソファで隣同士で、おまけにベルナルドの腕の中にすっぽりと収まっている。彼の体温が伝わってきて、とても気恥かしい。
「ベルナルド、だ」
「ベルナルド様……。その、なんというか……近すぎるような気が」
「別に普通だろう」
ベルナルドはあっさり言うけれど、普通の距離感ではないと思う。
どうでもいいけれど、夜ということもあって、レカルディーナは色々と思い出してしまった。主に、結婚後の夫婦関係についてだ。
レカルディーナはあからさまに顔を真っ赤にして体を硬直させた。
まずい。
色々と。肝心なことはわからないけれど、口づけ以上のこととかが脳裏によぎって今すぐ逃げ出したい衝動にかられた。
とりあえずレカルディーナは話題を変えることにした。
「明日も早いので、ベルナルド様ももう寝てください。わたしのせいで色々と無理をしていただいたようで、明日も関係各所調整事項があるとアドルフィートが言っていましたし」
「あいつの話はするな」
「悪いが、今レカルディーナの口から他の男の話は聞きたくない」
「え、っと……」
レカルディーナは戸惑った。他の男も何も相手はベルナルドの近衛騎士隊長だ。
「俺は、本当に……。おまえに何かあったらと思うと居ても経ってもいられなかった」
ベルナルドが絞り出すように口を開いた。
実際階段から落ちかけたレカルディーナは身を小さくした。心当たりがありすぎて言い訳ができない。あと、お転婆なところをまたしてもベルナルドに目撃されてしまった。従兄にも注意されていたのに。
「それは……その。以後気をつけます」
「よりにもよって俺を差し置いて他の男と結婚させるとか。怒りで腸が煮えくりかえった」
「え、そっちですか」
「他になにがある」
てっきり階段から落ちたことかと思ったのに。
いや、その前に。
「ベルナルド様。どうしてそれを……」
「おまえの祖父母が話したからだ。自分のもう一人の孫と結婚させるから手を引けと」
そう言うとベルナルドはレカルディーナの頬に左手を当てた。
薄茶の双眸が隠しきれない熱を帯びているのが分かって、レカルディーナはびくりとした。
「あ、あれは。お祖母様が勝手に……。お兄様はお兄様なのに」
レカルディーナはうろたえた。まさかベルナルドにもその話をしているとは思わなかった。
「そうか、おまえも知っていたんだな」
ベルナルドの熱い視線がレカルディーナを捉えて離さなかった。
レカルディーナはソファに押し倒されるように仰向けにされた。
すぐ上にはベルナルドの苦しそうな顔があった。瞳に射抜かれて、動けなくなる。
「レカルディーナ、おまえは俺のものだ。誰にも渡さない」
「わたしが好きなのはベルナルド様です。祖父母にも何回も伝えました」
ベルナルドの切なげな顔に覗きこまれる。何かに耐えるような隠しきれない熱を孕んだ瞳に見つめられると、レカルディーナは言いようのない感情に襲われた。
「俺の側から離れないでくれ」
ベルナルドはレカルディーナの頬を撫で、ゆっくりとやさしく髪の毛を梳く。こんなときでもベルナルドは優しくレカルディーナに触れてくる。
怖かった思いまで溶かされていくようだった。
「離れません……」
(不思議……さっきまで逃げ出したいなんて思っていたのに)
いざ触れらると、その温度を離したくないと思ってしまうなんて。
ベルナルドをまっすぐに見つめて、口にした言葉に何かを感じ取ったのか。ベルナルドが身をかがめてきた。
触れるような優しい口づけが落とされた。
「レカルディーナ愛している」
なんどもついばむように優しく求められ、レカルディーナは苦しくなる。
ベルナルドと唇を合わせるたびにレカルディーナは硬直してしまう。
「だ、だめ……ベルナルド……様」
レカルディーナの制止の声にもベルナルドは動じない。
ベルナルドは頬や目じりに口づけを落とし、唇をも同じように求め、そのまま首筋へ顔をうずめた時だった。
扉が大きく叩かれた。
扉の向こうからダイラが、彼女にしては大きな声をあげていた。
「恐れながらベルナルド殿下。そろそろお時間でございます。レカルディーナ様を解放してくださいませ」
ダイラの声がレカルディーナには一条の光のように感じられた。
これ以上二人きりでいたら、いろいろとまずかった。何がまずいのかはまだうっすらとしかわからないけれど。それでも結婚式も済ませていないのにこれ以上先へ進んだらいけないということくらいは何となく察せられる。
ベルナルドは名残惜しそうにレカルディーナから離れた。
「少しは空気をよめ」
そう言いつつ、片方の手でレカルディーナの頬を撫でるのだから心臓に悪い。
「殿下。約束のお時間は過ぎています」
扉の向こうでは引き続きダイラが声を張り上げている。
「うわぁぁ。ライネス、お願いだからもう少し穏やかに!」
主人の機嫌が悪くなるのを避けようとしたのかアドルフィートが慌ててダイラを止めようとしたのか、彼の声までが聞こえてきた。
それについてもダイラは「これでも十分配慮しています」という反論がさらに聞こえてきた。
どうしよう……。とてもいたたまれない。
レカルディーナは婚約者を仰ぎ見た。いまだにソファに仰向けになったままなのだ。
「ここだと邪魔が入るな……」
ベルナルドは心底名残惜しそうに呟いた。
「ベルナルド様……」
なんだか心臓が鳴りっぱなしで体に力が入らない。
ベルナルドはレカルディーナの背中に腕を入れて、起き上がらせた。レカルディーナが抗議の意味も込めてじっと見つめれば、ベルナルドは何かを感じ取ったのか居心地悪そうに身じろぎをした。
扉が開いたのはちょうどその時だった。
「殿下。約束が守れないのでしたら今後二人きりの時間は無しにしていただきます」
「悪かった。今後は時間は守るようにする」
「時間は、ではありません」
「……」
主人相手でも主張するべきことはしっかりと主張するダイラなのだ。後ろの方でははらはらとした様子で近衛騎士らが見守っていた。




