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五章 賭けの行方2

 エルメンヒルデは自室で『ルーヴェ図録』という季刊誌の項をめくっていた。

 ルーヴェ市内、貴族の屋敷が連なるお屋敷街の一角の中でもひときわ大きな敷地を持つ公爵邸の一室である。

 『ルーヴェ図録』はとある新聞社が年四回発行している女性向けの読み物だ。

 季節ごとのドレスや小物の流行や、話題の菓子店やドレス店などの紹介、ルーヴェ市内の散策など、中産階級の女性向けに発行しているが、貴族階級の令嬢の中でもこっそり愛読している者多数。

 エルメンヒルデもそのうちのひとりである。

 明日のレカルディーナとのおでかけの下調べをしているのだ。

エルメンヒルデにとってレカルディーナは特別だ。自分ではできないことを簡単にやってのけてしまう行動力や下の者に対する優しさ。

寄宿学校に入り立ての頃エルメンヒルデはとても消極的で、自分の考えを口に出すことが苦手だった。公爵家に生まれ、幼いころから大人たちが先にエルメンヒルデの身の回りのことをすべてやってしまうこともあり、考えを口に出す機会がなかった。

 大人へと成長する過程で、礼儀や作法、躾の為に寄宿舎へ入れられた先でエルメンヒルデは人生で初めて苦難に陥った。これまでは乳母や侍女が何もかもすべて先回りをして世話をしてくれていたことを、自分でしなければならなかった。一応部屋付きの侍女はいるものの彼女らの補助は必要最低限にとどめられている。

 隔離された世界では身分に関係なく皆が平等に接することを規則に掲げていた。公爵家令嬢といえど先輩後輩の間柄では先輩の方が上なのだ。

そのことを逆手にとって一部の上級生からは陰でいじわるもされた。生まれて初めて経験する苦難に庭の片隅でこっそりと泣いていたところ声をかけてきたのがレカルディーナだった。

 彼女はエルメンヒルデにもある意味公平だった。慰めはしたものの、もっと強くなれ、と諭してきた。ぐすぐすと涙を流していたエルメンヒルデはレカルディーナに出会ったことで徐々に変わることができたのだ。

 レカルディーナとの出会いは彼女にとって人生一番の宝物だった。

 すでにあの頃から同級生の間で人気者だった彼女は学年が上がるにつれ後輩の信奉者を増やしていき、隣の位置を保つことも大変なことだった。

 それでも何かにつけてまとわりつき、寮監督に任命されたレカルディーナの補佐役を申し出た。学年が一つ下の為、今年悲しい別れを経験したがこうしてまた再会することができた。

 今の彼女の目下の悩みは、レカルディーナが本当に女優になってしまったら人気が出過ぎて自分のことを見てくれる余裕が無くなってしまうのではないかということとアルンレイヒの王太子ベルナルドだった。

 ベルナルドのことを想い浮かべてエルメンヒルデは口を思い切り曲げた。理由は簡単だ。彼がどうもレカルディーナに執着しているように思えるからだ。

レカルディーナ大好きを自認するエルメンヒルデには分かる。彼のレカルディーナに向けるまなざしとか、エルメンヒルデの言葉への反応で。

おそらくレカルディーナの性別に気が付いているのだろう。

(まったく。腹が立ちますわ)

ちなみにファビレーアナについては腹は立つものの、ある意味同士という思いもあるのでベルナルドに対するそれよりも幾分好感は持っているつもりだ。前回喧嘩に発展したのは、彼女がレカルディーナに馴れ馴れしすぎたからだ。

 そうこう考えていると、控えめに侍女が声をかけてきた。

「お嬢様。旦那様がお呼びです」

「お父様が? 仕方ないですわね」

 エルメンヒルデは嘆息して、重い腰を上げて階下へと降りて行った。

「エルメンヒルデ。おまえ最近はずっとアルンレイヒの使節団に入り浸っているようだな」

 エルメンヒルデが家族用の私的な居間に入ると、父が開口一番に尋ねてきた。

 毎日王宮へ顔を出し、各国の賓客の相手をする傍らの行動をしっかり把握していたようだ。

 現国王の母、王大后がエルメンヒルデの大叔母という関係でエルメンヒルデは王宮内を比較的自由に動き回れる。

「ええそうですわ。アルンレイヒはわたくしの大好きなお姉様の出身国でしょう。パニアグア侯爵家の方と交流を持っているお方がいらっしゃらないかと思いまして」

 エルメンヒルデはあっさりと認めた。

「ああ、おまえの先輩という侯爵家の娘か」

 休暇のたびにレカルディーナと行動を共にしていた関係で、父公爵も彼女と面識がある。

「隣国といえど、遠いですもの」

「そうか。そういえば、彼の国は王太子が来られているな」

「……そのようですわね」

「王太子とは面識を持ったのか」

「いえ、特には」

 エルメンヒルデは注意深く答えた。なんとなく父の考えていることが読めてげんなりした。

「そうか。だったら、考えておくといい」

「何をでしょう」

 エルメンヒルデはわざと首をかしげた。

「いや、なに。おまえの身分なら、王太子妃になることだって夢ではないのだよ」

「まあ。お父様ったら早計ですわ。きっとあちらの国に王太子妃候補のご令嬢は沢山いらっしゃいますわ。わたくし、夜は美容のために早く眠ることにしていますの。おやすみなさいませ、お父様」

 エルメンヒルデは一息で言いきって、そのまま立ち上がった。

美容のためという言葉を年頃の娘が使えば絶大な効力を発揮するのだ。

自室へ戻る傍ら、ベルナルドの顔を頭に浮かべてみた。駄目だ、気に食わないという感想以外なにも出てこない。

 しかし父のあの口調からすると、エルメンヒルデの結婚相手としてベルナルドはちょうどいいのだろう。

(下手に家格が高すぎるのも考えものですわね)

エルメンヒルデは時々悲しくなる。

 悲しくなったけれど、すぐに頭の中を切り替えた。明日は大好きなお姉さまを独り占めできる大切な日。余計なことは頭から追い出すに限る。




 エルメンヒルデと約束をした当日は天候に恵まれ、気持ちの良い快晴だった。透けるような青空がどこまでも続いてる。

 王宮まで迎えに来たエルメンヒルデによって連れてこられたのはメーデルリッヒ女子歌劇団の専用劇場だった。

「もうすぐはじまりますわ、お姉さま」

「ええ」

 アデナウアー家は劇場に年間予約席を持っている。箱席のため、三方を壁に囲まれた小さな空間にいるのはレカルディーナとエルメンヒルデの二人だけ。

 エルメンヒルデはいつものように「お姉さま」と呼ぶ。

 公演前の会場は人々のざわめきと熱気が渦巻いている。劇場特有の空気に当たると、レカルディーナの心も自然湧きたつ。

「お姉さま、今回の主人公のお相手、隣国の王子の近衛騎士を演じるのはお姉さまのお気に入りの方ですわ」

「まあ、本当! リエラ様すごいわっ。さすがね」

 フラデニア留学時代からのお気に入りの男役の女優の名前である。

 エルメンヒルデが買ってきた公演パンフレットを食い入るように見つめた。彼女はここ数年実力を付けてきた人物で、最近は二番手の役を演じることが多々あった。このたび見事主演の座を射止めたのだ。

 最新作はメーデルリッヒ女子歌劇団には珍しく悲恋ものだった。とある国の王女が恋に落ちてしまったのはあろうことか許嫁である隣国の王子の近衛騎士の青年だったのだ。叶わぬ恋だと泣く王女と忠誠を誓った王子と恋しい姫との間で揺れ動く騎士という役どころだ。

「お姉さま、いつかリエラ様と一緒の舞台に、と常々おっしゃっていましたものね。エルメンヒルデ微力ながら応援していますわ」

 エルメンヒルデの含みのない笑顔に、レカルディーナは表情を固まらせた。

「お姉さま?」

「え、ええ。そうね。リエラ様と一緒の舞台に立ってみたいわ」

 レカルディーナは慌てて取り繕った。

 そんな風に話し込んでいると、劇場内の照明が落とされた。

 楽団が楽器を奏で始め、幕が上がった。

(どうしたんだろう。わたし、女優になるって決めているのに……)

 舞台はレカルディーナの心の迷いなんて、まるで気にしないように順調に進んでいく。

 舞台の上では騎士役のリエラが情熱的に姫君への愛を歌いあげている。女性にしては低いが、とても艶のある声。張りのある歌声に会場内はしっとりとした空気に包まれる。

 あんな風に演じたい。

 憧れの女優と、同じ舞台に立ちたい。

 ずっとそんな風に憧れていた。舞台に立てば勇敢な騎士にだって、王子にだってなることができる。

 けれど、レカルディーナは知ってしまった。

 王子と呼ばれる青年が、一人でずっと苦悩していたことを。亡くなった少女のために自らの評判を落としていたことを。

 フラデニアに来ることができて、確かに心が沸き立った。

 今だって、大好きな女子歌劇団の公演の真っただ中だというのに、さきほどから一人の男性の顔が脳裏にちらつく。

 二人きりで街歩きをすることを最後まで心配していた優しいレカルディーナの上司。

 彼は「楽しんで来い」と送り出してくれた。ありがとうございます、と返したら少しだけ口の端を持ち上げた。


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