四章 男装令嬢、隣国へ2
『大好きなレカルディーナお姉さま
秋の気配も濃くなってまいりましたがお姉さまはいかがお過ごしでしょうか。実はわたくしは今寄宿学校から一時公爵家へ戻っています。それというのも……』
エルメンヒルデはペンを走らせていた手を止めて、今しがた書いていた手紙をくしゃりとつぶした。そのまま丸めてくず箱に放り込んだ。
机の上に座ること数十分。何度も手紙を書いてはみたけれど、どうにも筆が乗らなくて結局はすべてくず箱行きになっている。紙の無駄遣いだし彼女の通うライツレードル女子寄宿学院では無駄遣いは心の乱れと教えている。
「だとしたら、わたくしの心はまさにいま乱れていますわね」
エルメンヒルデは机の上に置いてある天鵞絨張りの小箱を開いて中から小さな細密画を取りだした。中に描かれているのは去年の休暇の時にお願いをして一緒に描いてもらったレカルディーナとエルメンヒルデが二人一緒に並んでいる姿である。
ひとつ年上のレカルディーナは今年の六月に寄宿学校を卒業し、故郷のアルンレイヒへと帰ってしまった。『わたしがいなくなっても寂しがらずに楽しく寄宿舎生活をすること、そして後輩の面倒をしっかりみてね』と言い残して彼女は去って行った。
もちろん大好きなレカルディーナとの約束はちゃんと守っているが、それでもあの充実した日々のことを思い出すたびにエルメンヒルデの心の中には空洞ができたかのように空っぽになっている場所があることを実感するのだ。どんなに明るく振る舞っていてもレカルディーナが寄宿舎にいた頃のような楽しさとは程遠い。
一年前の夏を閉じ込めたような絵をじっと見つめていると、無性にレカルディーナに会いたくなってきた。
寄宿学校を卒業して忙しくしているのか彼女からの手紙はこの三カ月数えるほどしか届いていない。今年のオーディションは受けられなくなったが、来年に向けて現在家族を説得中と描かれた手紙と、虫捕りが辛いけれど頑張ります、と書かれた手紙とあといくつか。
今頃彼女は何をしているだろう。
てっきり卒業後もフラデニアにいる祖父母の元に身を寄せると思っていたのに、一度帰ってこいと言われているから、と名残惜しそうにしながらレカルディーナは帰国してしまった。
自身に起こった予期せぬ出来事のせいでいつもは饒舌の限りを尽くす手紙も文面がさっぱりと浮かんでこない。
いや、ある程度は予想していたことだ。
エルメンヒルデももう十六歳だから。
気分転換にお茶をしに階下へ降りれば、運の悪いことに父と出くわしてしまった。
「エルメンヒルデ、ちょうどよい。話がある」
わたくしは何も話すことなどありません、と心の中で呟くが表には出さずに控えめにほほ笑んで父の後に続いて応接間へと向かった。
「まあ、お兄様まで一緒とは、めずらしいですわね」
お茶の用意がすっかり整えられた応接間のソファに座り、先に来て書類を読んでいた兄も顔をあげ、妹を無感動に眺めた。昔から必要以上に接点を持とうとしないのに、エルメンヒルデを利用しようとする。
「おまえももう分かっているだろう。私たちがおまえを呼びもどしたわけを」
口上もなしに父公爵が本題を切りだした。
学期中に休学届を出してまで娘を呼び戻したのだ。エルメンヒルデだってある程度の覚悟は出来ていた。
「陛下の即位式典へ出席をするためでしょう?」
エルメンヒルデはしれっととぼけた。
「おまえは言葉通りに受けおる。即位式典には他国からも大勢の賓客が訪れる。その中の客人の中からおまえの嫁ぎ先を決めようと思っている」
(案の定ですわ……)
一応フラデニアでも屈指の名門の生まれなのだ。下に妹がいるといってもまだ彼女は十歳。
父と兄はエルメンヒルデが従順に従うことを信じて疑わない。
「わたくし最上学年で、いま寄宿舎の寮監督をつとめています。あと一年待つことはできませんの?」
寄宿学校の最上級生には寮監督が四人いる。今年そのうちの一人に選ばれたのだ。レカルディーナからの栄誉ある後継者指名だった。これだけはなんとしても全うして卒業をしたかった。
「もちろん、かまわない。とりあえずいまは婚約ということにしておけばよい」
エルメンヒルデは少しの間瞑目した。
(こういうとき歌劇団の中ですと、素敵な王子様がさっそうと現れるんですけど)
あいにくとエルメンヒルデの王子様、もとい大好きなお姉様は隣国にいるのだった。
九月下旬、レカルディーナを含めた二十数人の一行はフラデニアの王都ルーヴェへと向かった。
十月の初めに行われる式典だが、現地入りするのは十日ほど前で、到着してからは視察や社交の予定が組まれているらしい。また、フラデニア・アルンレイヒ両国間を直通で結ぶ国際列車建設の為の話し合いの場も設けられているらしく、そちらのほうは担当大臣であるボレル侯爵が主に交渉に当たるとのことだ。彼ら交渉団数人も同行する。
当初、あまり大人数にするなとぶつくさ言っていたベルナルドだったが、警備要員やら交渉団やら侍従やら、結局はそこそこの団体が出来上がった。
リポト館からアルムデイ王宮に一緒に移動することが叶ったダイラは今回お留守番で、レカルディーナは少しだけ不安だった。シーロは分かりやすくしょげていた。
「着いた~」
レカルディーナは列車から元気よく飛び降りた。
フラデニアへの移動はまず、ミュシャレンにあるアトーリャ駅からメゴアスという街まで移動する。そこからは馬車に乗り換えて国境を超えるのだ。国境を越えた後、フラデニア側の鉄道に乗り換えて王都ルーヴェへと入る。現在両国間を直通運転する鉄道は開通していないので、途中馬車を使わなければならない。それでも馬車しかない時代に比べれば格段と交通の便はよくなった。
列車と馬車とを合わせて二日の道のりである。
フラデニアの王都ルーヴェの近代的な駅舎に降り立ちレカルディーナは大きく息を吸った。空気が違う、人が違う、色が違う。数か月ぶりなのに、なんだかとても懐かしい。
「ここがフラデニアか」
シーロの声も弾んでいる。
「懐かしいなあ。殿下、どうですか。フラデニアは」
レカルディーナは懐かしい場所に帰ってきた嬉しさからベルナルドについつい話しかけてしまう。
ベルナルドは浮かれきったレカルディーナのことを一瞥した。
「ルディオ何をしている! おまえはこっちだ」
すぐに目を吊り上げたイスマエルが近づいてきた。イスマエル・ブランカフォルトは今回の代表団に加わったベルナルドの秘書官のような立場の人間である。
普段は貴族議会に身を置く伯爵家出身の青年貴族だ。二日間の道中で分かったけれど、何事にも細かいのでずっと一緒にいると疲れる男である。
「王宮からの使いと、ルーヴェ市長が出迎えに来られている。新聞記者なども詰め掛けているから、誰かに話しかけられても、うっかり返事をしないように」
団体の後方へ身を寄せるとカルロスが声をかけてきた。
「はい」
普段はどちらかというと軽薄なのに、こういうときは居住まいを正し、きりりとした近衛騎士の副団長の顔をしている。
ルーヴェ・ハウデ宮殿に到着してからも王族などに挨拶をし、宮殿敷地内にある迎賓館にたどり着いたのは夕暮れ時だった。