三章 引きこもり殿下の事情3
「久しぶりね。こうして面と向かって顔を合わせたのは何年ぶりかしら」
カシルーダはおかしそうに笑った。屈託なくころころと笑う姿は昔から変わらない。会わない年月だけ彼女の顔に刻まれた皺が深くなり、髪の毛の色も薄くなったけれど、その身から湧き出るおっとりとした、けれども凛としたたたずまいはベルナルドが知る王妃そのままだった。まるであの頃に戻ったかのように。
だから会いたくなかったんだ、とベルナルドは内心で呟いた。
「何年ぶりでもいいでしょう。私に構わないでいただきたい」
頑なな甥の態度にカシルーダは何を思ったのか。片手を頬に当てて大きくため息をついた。
本当に困っているわけではないだろう。
その証拠に彼女の瞳はいたずらっ子をどう懲らしめてやろうかというような、思案気な色をしていた。
「そうねえ。あなた昔から割と繊細だったから、少しの間そっとしておこうと思っていたの。そのまま時が過ぎるのを待とうかしらって。そうしたらあなたも気が済んで、ううん。違うわね。傷が癒えて自分から出てきてくれるんじゃないかって」
おっとりとして、けれどもカシルーダはベルナルドに口をはさむ隙を与えない。小さなこの我儘を見守る母親のように柔らかい口調だった。
「けれどもあなたってばどんどん意固地になっていくみたいだし。それにね、お嫁さん候補もどんどん少なくなっていくのよ。ファビレーアナだってあなたのところの侍従に一目ぼれしてしまってようだし」
「だったら今すぐルディオを解雇でもなんでもすればいいでしょう」
ベルナルドはそう吐き捨てた。やたら熱心に通ってきては門前払いをしていたグラナドス侯爵家の娘の目的がいつの間にかルディオにすり替わっていたのは把握していたが、王妃の耳にも入っていたらしい。
嫁など娶る気もさらさらないので別に候補がゼロになってもなんら困ることは無い。しかし、王妃はそうは思っていないらしい。
「義母上は俺に結婚してほしいんですか」
仮にも一国の王子なのだから跡継ぎが必要とされることくらいは頭に入っている。ベルナルドに子どもが生まれなくても、また傍流を辿ってどこからか候補を持ってくるだろう。
「そうねえ。息子の幸せを願うのも義母親のつとめでしょう」
そこでベルナルドは正面からカシルーダの瞳を見つめた。柔らかいまなざしだった。けれども芯のある強い女性のそれだった。
「ね、あなた。あなただけが世界から取り残されているような顔をして。いつまでもそうやっていじけていられるとわたくしもそろそろ腹が立つのよ。わたくしだって随分泣いたのよ。それなのに義息子がいつまでもそうだと、なんだかもう最近いらいらしてきちゃって。最近というか結構昔からいらっとしていたんですけどね」
表情はふわりと柔らかいものを保っているのに、言葉だけがどんどん強くなっていった。ベルナルドは目を逸らすことができなかった。やはり温和な表情に緩みがちになるが、一国の国王の伴侶なのだ。その声にはベルナルドには到底及ばないような迫力があった。
ベルナルドの心中などお構いなしにカシルーダは彼より奥の方に目をやって、片手を高く持ち上げた。先ほどまでの威厳のある表情から一転、少女のような無邪気な笑顔で手を振った。
「こんにちはルディオ。奇遇ね」
ベルナルドは驚いて二人を交互に見やった。レカルディーナに関しては先日リエンアール宮を訪れたと報告があったがてっきり何かの使い走りだと思っていたのだ。まさか王妃と面識を持っているとは思わなかった。
レカルディーナはとても恐縮した面持ちでベルナルドの一歩後ろで立ち止まった。
「何しに来た」
思いのほか低い声が飛び出てベルナルドは内心しまったと思ったが遅かった。
「それは、その。殿下のことが心配になって捜しに」
「俺は子どもじゃない」
「あら侍従が主人の動向を気にするのは当然のことですよ。そんな怖い顔をするものじゃありません。あなた昔から無表情で顔つきが怖いって言われるのだから」
カシルーダがやんわりとした口調で二人の会話に入ってきた。
ベルナルドはカシルーダの言葉に短く嘆息した。あまりこの場に長居はしたくない。彼女は先ほど言いかけていたが、一体何を決めたというのだろう。
「そうだわ、ルディオにも聞いてほしいの。実はね、アルセンサス宮殿はこの夏で閉鎖して改修工事をするのよ。で、見学料を設定して一般開放しようと思うの」
思いもよらぬカシルーダの爆弾発言にベルナルドは絶句するしかなかった。突拍子もないことを考え着いたものである。
「えぇぇぇぇっ!」
レカルディーナは驚きを素直に表現した。大きな声が辺りに響いた。
「うふふ。吃驚したかしら。実はね、一年半ほど前から温めてきた計画なの」
驚かすことに成功してご満悦なのかカシルーダは口元に手をやってしてやったりという笑顔を浮かべていた。
「そんな! ってことは殿下は追い出されちゃうってことですか! 引きこもりなのに!」
最後の一言だけ余計だ、との意味も込めて思い切り睨みつけると、己の失言に気がついたのかレカルディーナは慌てて両手で口を押さえた。
「そうなの。追い出しちゃおうと思って」
「あんまりです! 王妃様」
「あら、可愛らしい顔ね。ベルナルド良かったわね。こんなにも親身になってくれる侍従に巡り合えて。さあて、あなたは次どこに行くのかしら?」
カシルーダはにこりと人の悪い笑みをベルナルドに向けた。
帰り道。早足で歩き続けるベルナルドを追うようにレカルディーナが小走りで付いてきた。
「で、殿下!」
呼びかけに答えずにそのままベルナルドは歩いた。今は人と話したい気分ではなかった。自分への了承もなしに勝手に物事を決めた義父母に内心腸が煮えくりかえっていたのだ。
ベルナルドはこのままリポト館に帰る気にもなれなくて適当に牧場の方へと足を進めた。
レカルディーナは当然のようにベルナルドの後ろを付いてきた。
一人になりたい気分だというのに空気の読めない侍従だった。いや、彼女はベルナルドがどう思おうとも自分の信じた道を突き進むのだろう。振り払っても付いてくるにちがいない。
「王妃様は前に進もうとしているんです! だから、殿下のことが気になるというか。アンセイラ姫のことを想っているけれど、きちんと未来を見据えています。だから殿下にも早く立ち直ってもらいたいって、そう思っているんです」
そこではじめてベルナルドは振り返った。
真面目な顔をしたレカルディーナの瞳がまっすぐに彼のそれへと注がれていた。じっと注がれた目線は怯むことは無かった。
「わた、僕だって同じです。こんなこと続けたってアンセイラ姫は喜ばないと思います。むしろお星様の向こう側から殿下を眺めて悲しんでいると思います」
「うるさい。お前に何が分かる。居なかったことにされたアンセイラのことなど、おまえに分かってたまるか! さっさと失せろ」
叫ぶように大きな声を出せばレカルディーナは少しだけ悲しそうに瞳を潤ませた。しかし何も言葉にはしないでお辞儀をしてそのまま踵を返してベルナルドを一人残してその場から立ち去った。