二章 不機嫌な殿下にご用心4
レカルディーナは大きな声をあげた。ボートの上なんだからバランスとかだってあるのにさっきからシーロは考えなしに動いている。シーロとレカルディーナは立ち上がったままの状態でボートの前方あたりにいた。根はいいやつなのに、たまにこうして感情が爆発するらしい。泣きながら顔を近づけられればレカルディーナの方も慌ててシーロをぐいっと押し返そうと腕を伸ばした。
顔が近いとうっかり女だとばれてしまうかもしれない。
「シーロ、ほら落ち着こうよ。僕とダイラが仲いいのはなんていうか」
「俺もダイラちゃんとあんなことやこんなことがしたいんだぁぁぁ!」
「うわっ、ちょ、シーロなにそれサイテ……ってうぁわぁぁぁぁ」
レカルディーナは最後まで言うことができなかった。
シーロが思い切り動いたせいでとうとうボートのバランスが崩れて三人とも湖に投げ出された。
気がついた時にはレカルディーナは水中にいた。いやだ、と思う暇も無かった。水の中で必死に手を動かすけれど、動揺のほうが勝っていて今どこに向かって手を伸ばしているのかすらわからない。
口から水が侵入してきて思わず飲みこんでしまった。苦しくてレカルディーナは手足をばたつかせた。泳いだ経験すらないレカルディーナはなすすべもなかったのだ。
恐慌状態に陥り、誰かが背後からレカルディーナを抱きしめるように腕を回して、辛うじて頭のどこかで、女だとばれるかもしれないと警鐘が鳴った。誰かの体がぴたりと密着をし、その数秒後レカルディーナは水面から顔を出すことができた。それでもまだ恐慌状態は変わらなかった。咳こみながらも両腕を動かして拘束から逃れようとした。
「おい、こら馬鹿! 暴れるな」
すぐに耳元で誰かの声が聞こえたらと思ったけれど、レカルディーナの記憶はここで途切れることとなった。最後に浮かんだのは女だとばれたかもしれない、ということだった。
その日の夜。
ベルナルドは自室に客人を招いた。急な呼び出しだった為、明日になるかもしれないと期待はしていなかったが、件の人物は果たして現れた。
「どういうつもりだ」
ベルナルドは単刀直入に切り出した。
「何がでしょう。殿下」
対する呼びだした相手、エリセオは柔和な笑みを浮かべたまま返した。一見すると笑顔だから分かりにくいがこういう表情をしているエリセオから何かを引き出すのは至難の技だ。
ベルナルドとエリセオは短くない付き合いなのだ。
「もういい。単刀直入に言う。ルディオは女だろう。どういうつもりで男のふりをさせて俺にあてがった」
ベルナルドの言葉にエリセオはおや、と肩眉を器用に持ち上げた。
「もうばれちゃったんですか。案外早かったですね」
エリセオはあまり悪びれた様子も無くあっさりと認めた。もうすこし返答を引き延ばすかと思ったら案外正直に答えたのでベルナルドは内心呆気にとられた。もちろん表情は相変わらず不機嫌そうに目を眇めているのだが。
「一体どういうつもりだ」
もう一度ベルナルドは問うた。エリセオの瞳を射るように見つめた。その視線を受け止めても彼は笑みを解くことはなかった。
「別になにもないですよ」
「なにもなくておまえは女の髪を切って男のふりをさせるのか」
ベルナルドは低い声を出した。
ボートがひっくり返りベルナルドは侍従とともに水の中へ投げ出された。シーロは何も考えていない分扱いやすいがたまに暴走する。巻き込まれて心底うんざりしたが、泳いで岸に戻ればいいだけだからと深くは考えていなかったが、水面から顔を出したのはシーロだけだった。少しだけばつが悪そうなシーロはともかく。ルディオの方は泳げなかったらしい。さすがにここで何かあったら目覚めが悪いのでベルナルドは水中に潜って、沈みかけたルディオを後ろから抱きなんとか水面へと引き上げた。
そうしたら今度は思い切り暴れるので黙らせた。首元に手刀を叩きこみ気絶させたのだ。
あの時。後ろからルディオを抱え込んだときに気がついたのだ。おおよそ男とは思えないような体つきをしていることに。
「別に僕が彼女の髪の毛を切ったわけではないですよ。あれは元気すぎましてね、自分で髪の毛を短くしたんですよ。いやあ、大変だったな。屋敷の者は大騒ぎでしたよ。昔から元気一杯、お転婆が過ぎるところがありましたけど、年頃の娘になってもちっとも変っていなくて」
エリセオは一人でぺらぺらとしゃべった。
「なんの話をしている」
「いえ、彼女の。ああ、ルディオは僕の妹でしてね。レカルディーナ・メデス・パニアグア。正真正銘パニアグア侯爵家の一人娘です。妹は長らくフラデニアへ留学していまして。そこで何を思ったか女優になりたい、しかも男役で一番をめざすとか言い出しまして……」
エリセオは肩をすくめながら留学先から戻っていた妹の奇行と自らが持ちかけた賭けについて説明をした。
「若い娘にありがちな一時の熱だと思うんですけどね」
やれやれと大げさな身振りも交えてパニアグア侯爵家で起きた大騒動を語っているが、観客一人によくもここまで大仰にしゃべれるものである。エリセオの方がよほど役者に向いている。
ベルナルドは眉を潜めた。話を聞く限りベルナルドは完全にパニアグア侯爵家の騒動に巻き込まれただけのようだった。
「そんな賭けは余所でやればいいだろう。俺を巻き込むな」
うんざりしながらそう言うとエリセオはさらにひょい、と肩をすくめて言い返してきた。
「いやあ、ほら。大事な妹を預けるんですから、女に興味のない引きこもり王子の元だったら安心安全かな、と思いまして」
さらに厳しい視線で問いかけてもエリセオには通じないようだった。自然にその視線を受け流して飄々とした態度でさらに不機嫌になるような言葉を紡いだ。
「過去が大事な殿下は女性なんて眼中にないでしょう。大丈夫です。僕も殿下に妹をあげる気はありませんから。ああでも正体がばれちゃいましね。さあてどうするかな……」
最後の一言はひとり言のようだった。確かに一年間バレずに、という約束だったのに早々に正体が知れてしまった。
「さすがに今回のこれは不可抗力だろう。見逃してやれ」
「おや、殿下にしては優しいお言葉ですね」
今回はベルナルドにとっても少しだけ後ろめたさがある。彼、いや彼女が虫嫌いだと知っていてわざと計画した。嫌な思いをしたら根をあげて出ていくだろうと踏んだ。子供じみた嫌がらせということは十分に承知していた。
「俺以外にばれたらそのときは家にでもどこにでも連れ戻せばいいだろう」
ベルナルドの言葉を吟味するように、エリセオは顎に手をやってしばらくの間考え込んだ。考えること数十秒。エリセオが再び口を開いた。
「とかいって殿下が手を貸すとかするつもりじゃないんですか」
「そんなことをして俺に何の得がある」
「……それもそうですね」
「仕方ない。今回はいいでしょう。大目にみますよ。賭けがこんなに早く終わったんじゃ面白くないし。しばらく様子を見ることにしましょうか」
もう少し渋るかと思っていたがエリセオはあっさりと結論を出して、呼び出された用件がこの件だけだと分かるとさっさとリポト館から去って行った。
後に残されたベルナルドはため息をついた。
多少後ろめたさはあるものの、どうしてさっきはかばうような発言をしたのだろう。厄介払いができるまたとない機会だったのに。
自由になりたいと願う彼女の意思を知ったからだろうか。夢を諦めきれない少女は兄からの無謀ともいえる賭けを飲んだ。単身一人で乗り込んできて男と肩を並べて職務にいそしんでいる。
「いや、一人ではないか……」
ベルナルドは部屋を出て同じ階にあるルディオ、いやレカルディーナの部屋の前へとやってきた。
しばらく逡巡したのち、彼は扉を小さく叩いた。やがて姿を現したのは北の民族の流れをくむのか、紫色の瞳をした知的な女性だ。
ダイラである。
レカルディーナを自らリポト館へ運ぶ傍ら思い出しのだ。目の前にたたずむ女官、ダイラもまたエリセオの紹介によってやってきたということを。