小話 月
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レイラとアーロンがまだ勘違いしている頃のお話。時系列的には一話と二話の間です。
「……どうして」
鏡に映った憂鬱げな顔に思わず問いかける。
あぁ、よりにもよって……。どうして私は、「レイラ」なの?
今まで何とも思っていなかったその名が酷く重く、残酷なものに思えた。
※
改心のきっかけを与えてくれたと、ずっと感謝し続けていた前世の記憶。それが初めて憎らしかった。
それもそうだろう。
好きな人と結ばれない運命なんて、誰だって知りたくない。
アーロン。私の、婚約者。誰より愛しい人。
子供の頃からアーロンの事が好きだった。一度は取り消してしまった婚約だったけれど、紆余曲折を得てまた結ぶことが出来て嬉しかった。
幼い頃からずるずると惰性のようなもので繋がっていた婚約関係なんて、酷くもろいものだと知っていたから。少しでもアーロンをつなぎ止めておけるように、アーロンに相応しい私になれるように努力した。
二か月前、その酷くもろい関係が正式な婚姻関係になると言われたとき、言葉を失う程歓喜した。浮き足立つような、紛れもなく満ち足りた時間だった。
愛されていないのは分かっていたけれど、数多くの家から私を選んでくれた。その事実が、泣き出しそうな程の幸福を与えてくれた。
これから結婚生活をしていく上で少しでも愛が生まれてくれればと明るい未来を想像して胸を高鳴らせていたのに。
―――前世の記憶が告げる。
私は、悪役だと。
彼に愛されなくて、嫉妬に狂った悪役だと。
あぁ、私を愛してくれないのなら結婚なんて嫌だと喚いてしまえれば楽なのに。それでも、愛されないことを知っていても、私は……。
「レイラ様、アーロン様がいらっしゃいました」
「……ええ。今行くわ」
―――彼を愛している。
※
くるり、くるりと様々な色のドレスがあちらこちらで回る。シャンデリアの煌びやかな光が広間を照らし、それぞれの時間を彩る。並べられた調度品は、趣の異なる鳥の意匠が施され、品の良さがにじみ出ている。
広間の中央で楽しげに踊る恋人達から、ただ壁際にひっそりと佇む私はどう見えるのだろう。
幸せそうな恋人達をみていられなくて、手元の赤いワインを煽る。
「あら、良い飲みっぷり。パートナーにでも振られまして?」
親しげな声が聞こえた。勿論これは嫌みではない。なのに、悪い方向にとらえそうになって無理に口角を上げた。
「ええ。彼は私より仕事の男性が好きなようなのよ」
「あらあら。結婚前に咲き誇る華を蔑ろにするなんて駄目なパートナーね。家の息子に乗り換えない?」
声をかけてきたのは今日の主催者の妻、社交界でも名高いマーグス夫人だった。麗しい所作が彼女の魅力で扇子を開く動作、ダンスに応える動作ひとつ、他とは異なった優美さがあるのだ。
「ふふっ。そうね。私の彼より愛してくれるかも」
「きっとそうよ。だってほら、ミシェル貴方の事きらきらした目で見ているわ」
彼女の腕に抱かれた小さな赤子、ミシェル君が目を開いてこちらを見つめてくる。ふっくらとしたほっぺに触れるとむずがるように眉を寄せる。
「……抱かせてもらってもいいかしら?」
「ええ。これからの練習になさいな」
快く了承してくれたマーグス夫人にお礼を言って受け取ったミシェル君は私より少し温かくて、程良い重みを腕に伝えた。
可愛い……。
しかし、そう思った瞬間、ふにゃりと顔が歪んだ。
「……ふぇ、」
あ……やばいこれは。
「ふ、ふぇぇぇぇええぇええ!!」
ミシェル君大絶叫である。
……なんというか、あれだ。人見知りで、というレベルではない大絶叫だ。第三者であれば命の危機に合ったのかと聞きたくなるようなそんな絶叫だ。
それは私でも分かっているんだけど周囲の視線が、視線が!
ひぃぃい! 違う待ってそんな視線を注がないで決して私が嫌がらせをしたわけでは!
「ご。ごめんなさいっ! 抱き方が悪かったのかしら!? 痛かったね」
「あらあら、大丈夫よ。上手な抱き方よ。ミシェルったら、ミルクかしらそれとも……」
泣かせてしまったというのにマーグス夫人は穏やかに笑って私の上をみた。
「レイラ」
低く、けれどよく通る声に胸が波打った。動揺を押し隠してゆっくり振り返る。
「アーロン。もうお話は終わりましたの?」
「ああ。……その腕に抱いているのはマーグス夫人の子供か?」
ちらりと、アーロンが横で微笑むマーグス夫人に目を向けた。
「ふふっ、抱いてくれてありがとう。私は少し出るわね。ご機嫌よう、レイラ様、アーロン様」
「……ご、ご機嫌よう」
ミルクの時間って言ってはくれたけど……マーグス夫人の腕に戻った途端、泣き止んだから多分違うと思う。
なんでだろう。あれか。私の顔が怖かったのか。今まで特に意識してなかったけど私、悪人顔だもんねっ!
後ろのアーロンがさっと動いて、私の前に立った。シャンデリアの下で怜悧な美貌が煌めき、一瞬見惚れてしまいそうになったのを視線を逸らすことで免れる。
うぉう。そういえば私アーロンに見られたのか。やだ。やばい。物凄く恥ずかしい。穴があったら入りたいどころかいっそ死んでしまいたい。赤子にも嫌われる、母として期待できないと思われたらどうしよう。それなしでも、赤子に泣かれるって女としてどうなの。
地味に泣きそうになっていると、不意に名を呼ばれた。
「レイラ」
たった、それだけで私の心臓は高鳴るのに。アーロンは全く動じていないのだろうなと思うと悔しくなる。
「大丈夫か? 顔色が悪い」
低くささやく声が甘い響きを持っているような錯覚がして、自分の馬鹿さ加減にため息が出そうだ。
「……大丈夫です。ほんの少しだけですから」
かすれた声を絞り出すので精一杯だった。
あぁ、どうして。気が付いてくれたの?
漫画の世界だと思い出して、言われるであろうあのアーロンの台詞を思い出してから殆ど眠れなくなった。寝ようとするとアーロンの声で台詞が反芻されて、心が乱れるのだ。今日も一時間ほどしか眠れていなくて頭は痛いし、凄くフラフラする。
「無理はするな。大丈夫には見えない」
「……っ」
なぜ。化粧で完璧に誤魔化した、お酒も飲んで頬は少し火照っている、笑みは絶やしていない。
なのに、どうして気が付いてくれるの?
その優しさが嬉しくて、同時に、酷く辛い。
「部屋に戻った方がいい」
「……ええ」
きっと物語のレイラはこの平等な優しさに惑わされて、自分だけが特別だと思ってしまったのだ。
私はそう考えてはいけない。高慢な考えは捨てなくては。嫉妬に狂ってアーロンを、息子を苦しませたくない。
アーロンは優しくて誠実な人だからこそなのだ。そして、聡いから体調不良に気が付いてくれただけ。
私だけ、特別だなんて、間違っても思ってはいけない。
『君が私を愛していないことは知っている。私は君に愛を求めない。だから妻ぶらないでくれるか。私だって君を愛してないのだから』
思い出したその台詞にズキリと頭が痛み、思わずフラつく。
「レイラ?」
「だ、大丈夫です」
足に力を入れて立とうとすると思いのほかがっしりとしたアーロンの腕が肩と足に回った。
「ひゃっ」
物凄くアーロンの顔が近くにあって顔に血が集まった。
「あ、ああーろんっ!?」
私がされているのは横抱き。前世でいうお姫様だっこである。
「暴れるな。落とすぞ」
ひぃ! アーロンのと、吐息がかかる! 色気が凄いです旦那様!
あああ!! どうしよう、気持ちを誤魔化すために酒をたくさん飲んだからお酒臭いはず! アーロンに酒臭い女だと思われたくない! 落とされるのを覚悟でばたばた暴れると、アーロンが苦しげな顔をした。
「……そんなに嫌か」
「そ、そうではありませんけど」
その表情に勢いが削がれ、暴れるのを止めた。
私に嫌われた所でアーロンは何とも思わないんだろうけど、演技でもそんな表情をされたら私は弱いのだ。
諦めて、アーロンから離れようとして押していた手を首筋に回す。……決して下心ではなく、この方がアーロンにかかる負担が少ないからだ。……や、やましい気持ちが完全に無かったとは言わないけれど。
アーロンは体調が悪い私を気遣って、部屋まで運んでくれるらしい。有り難いけれど、視線に晒されてのお姫様だっこ……。なんて羞恥プレイだ。
※
お姫様だっこで私を連れたアーロンをみた使用人達の妙な気遣いによって私はアーロンと寝室で二人っきりにされた。いいのか? 婚姻前ではあるが男女が密室、しかも寝室で二人っきりというのは。私は如何なものかと思うけれど!
変な気まずさを隠すために寝室に降り注ぐ月を見つめた。
「……綺麗だな」
「ええ。いつもより明るいですわ」
ほぉっとため息をつくようにアーロンが言った。ほんの些細な事だけど同じ考えをしていたことに喜んでしまう。
―――ねぇ、アーロン。私が物語のレイラの様に、嫉妬に狂わなければ少しはその月に注ぐ優しい眼差しを向けてくれるかしら。
「月が……綺麗ですね」
「? あぁ」
不思議そう顔をしたアーロンに微笑みかけた。
前世の記憶。かの有名な文豪はI love youを「月が綺麗ですね」と訳したという。
だからこれは秘めた私の気持ち。この世界ではそんな台詞を聞いたことがないから伝わらないのは知っている。
狂おしいほどの愛を込めて貴方に告げる、私なりの愛の言葉。
私はアーロンを悩ませるだけのこの想いを告げるつもりはないから。勝手な満足感だ。それでも、きっと意味は伝わっていなくても、同意をもらえた事が指先から溶けてしまいそうなくらいの幸福感を与えてくれた。
こわごわとアーロンの手を握る。振り払われなかった事に安堵した。
少しだけ。ほんの少しの間だけ。
悪役だと、結ばれない運命を忘れて二人きりで過ごせる時間を喜ぼう。
今日は久しぶりによく眠れそうだ。ゆるりと緩慢になる意識、小さく呟かれたアーロンの言葉はよく聞き取れなかった。
ちなみにミシェル君が泣き出したのはアーロンが睨んでいたからです(笑)