どうしてこうなった?
「はぁー…。」
朝、洗面所で、歯ブラシを手にとろうとした時、大きな溜め息が出てしまった。
俺専用の使い込まれた白い歯ブラシの横には、同じく使い込まれた赤い歯ブラシが並んでいる。
どうしてこうなった?
溜め息の原因は、間違いなくアイツの所為だ。
こっちは、これから仕事だというのに、布団の中で、優雅に寝息をたてている石崎香織の所為だ。
石崎香織は、俺の家の居候である。
なし崩し的に、俺の家に転がり込んで来た。
同棲ではなく、同居である。
男女間の営みなどは、勿論ない。
彼女は、仕事と住む場所を探しながら、俺の家の家事などをしている。
住み込みの家政婦みたいな奴だ。
彼女は、強引に同居を決めた翌日から、早速、身の回りの物などを運び込んで来た。
その荷物は、意外なほど少なかった。
女性に必要な身だしなみ道具や着る物、料理道具などだけだった。
電化製品やベッドなどは処分したと言う。
着る物も、いわゆる、キャバ嬢時代の戦闘服的なものは処分したらしく、多くはない。
布団は、新しい物を自分で買ってきた。
おかげで、俺のベッドは、本来、使うべき人物である俺の物となった。
しかし、彼女の荷物が少ないとはいえ、男の独り暮らしの家に、住人が一人増えれば随分と手狭になる。
俺も、必要ないものは、出来るだけ処分した。
エロ本などの、男の必需品は、彼女にあっさり見つかり、勝手に処分された。
彼女は髪を切った。
茶色く、長かった髪は、肩の上辺りまで切り、色も黒くしてきた。
就職活動中だから当たり前だが。
コンタクトレンズは、金が掛かるからと、普段はメガネで過ごしている。
派手なメイクは控え、必要最低限のメイクでいる彼女は、高校生の頃のイメージに近い。
「これで制服なんか着たら、充分、高校生で通用しちゃうんじゃない?」
髪を切ってきたあと、彼女はそんなことを言っていた。
「それはさすがに、無理があるだろ?シワや肌の張りで、すぐバレる…痛い!」
だから、口より先に手を出す癖は止めなさい!
俺の心は、梅雨空のように晴れない。
まるで、今日の天気のように…。
あれ?何か、今日は寒気がするな。
風邪でも引いたか?
昼頃、俺の体調は、かなり悪化してきた。
寒気どころか、動くのもしんどい。
「タクさん、調子悪そうですけど、大丈夫ですか?」
後輩の加賀美由紀に、心配そうに声を掛けられた。
彼女は、経理担当で、俺の三歳下。
清楚で可愛らし娘だ。
誰かさんとは大違いで。
実は、最近、加賀ちゃんとは、ちょっといい感じだったりする。
「結構しんどいけど、何とか大丈夫。」
今出来る、最大限の笑顔で応える。
「無理しないで下さいね。」
加賀ちゃんは、優しい笑顔を向けてくれる。
ホント、いい娘だなぁ。
「おい、タク!お前、今日はもう帰れ。そんな状態じゃ、仕事にならんだろ。」
昼過ぎ、半ば強制的に上司の命令で帰宅させられた。
特に、急ぎの仕事もないし、早退出来るのは、正直、ありがたい。
しかし、何となく、気が引けるのは、俺が歳をとったからなのだろうか?
病院に寄ってから家に帰ると、俺の家に住み着いている家政婦みたいなお方は、俺の真っ青な顔に驚いていた。
「朝から調子悪かったの?」
「まぁ…。」
「何で言ってくれなかったの?」
言ったところで、お前は何も出来ないだろうが!
それに、俺が家を出る時は、まだ、夢の中だっただろ?
「今日一日ぐらい何とかなると思ったから。明日は休みだし。」
「お粥でも作るから、それまで寝てて!」
促されるまま布団に入り、何気なく彼女を見る。
「…。」
「ん?タクちゃん、何でニヤけてるの?風邪で頭までやられちゃった?」
「ニヤけてねぇよ。」
考えていることが、顔に出てしまったようだ。
病気の時に心配してくれる人がいるのは、嬉しいことなんだな…と。
それから、どれくらい時間が経っただろうか?
「タクちゃん!お粥出来たよ。何か食べないと、薬が飲めないでしょ?」
石崎の表情は、俺の体調を心配してなのか、真剣そのものだった。
こういう時に、隣にいてくれるのが、恋人や奥さんだったら、もっと嬉しいのかな?
次の日には、熱も下がり、日曜日には、体調はすっかり元通りになった。
「そういえば、私、仕事が決まったよ!」
ようやく、第一段階進んだか。
「どこ?」
「ここの近所のコンビニ。来週から行くことになったから。」
「はい?」
それは、仕事が決まったとは言わないのでは?
だって、バイトだろ?
そんなんじゃ、自立なんて無理だろうが!
「そこの店長さんと、顔馴染みになったから、『私、仕事探してるんです』って言ったら、『履歴書持って来たら、うちで雇ってあげる』って言われたの。一昨日、履歴書持って行ったら、本当に採用になっちゃった!」
「その店長ってどんな人?」
違うだろ、突っ込むところはそこじゃないだろ!
何を言ってるんだ、俺は!
「気さくな、普通のおばちゃんだよ。その人曰く、サービス業は、愛嬌とか愛想っていうのが重要らしいのよ。仕事はそのうち覚えるけど、愛嬌とか愛想は生まれ持ったものが重要だって。」
「面白そうな人だな。」
だから、何を言ってるんだ俺は!
静かな暮らしを取り戻したくはないのか!
「『アンタは愛想もいいし、若くて可愛い娘だから合格』って言われちゃった!」
「お前、そんなに若くないだろ。」
という言葉は、辛うじて飲み込んだ。
危ない危ない、また蹴られるところだったぜ!
「働くにあたって、保証人が必要らしいんだけど。店員が売上金を持ち逃げしたりする場合があるから、念のためらしいのよ。タクちゃん、書類に名前書いてね。」
「俺なんかでいいの?」
「身元がしっかりしてれば、同棲中の彼氏でいいって!」
「俺はお前の彼氏じゃない!それに、同棲じゃなくて同居だ!」
「細かいことはいいじゃん!それに、同棲中の彼氏ってことにしておいた方が、色々、都合がいいの。」
俺は良くない!
何だか、なし崩し的に同居の延長が決まってしまった気もする…。
それも悪くないと思った俺は、まだ、どこかおかしいのだろうか?
そして、月曜日…。
珍しく、イヤ、初めて、俺より早く、彼女が起きていた。
「おはよう!」
何か作っている彼女は、ご機嫌がよろしいようで。
「おはよう。今日からバイトだっけ?結構、早い時間から行くんだな。」
典型的な夜型人間の彼女のことだから、もっと遅い時間からだとばかり思っていた。
「タクちゃんよりは、遅く出てくよ。でも、お弁当を作ろうと思って、早起きしてみました!」
「へぇー。」
「タクちゃんの分もあるからね!」
「はぁ?お、俺の分はいらないよ!」
ヤバイ、俺、顔が真っ赤じゃないか?
「一人分も二人分もたいして変わらないから。どうせ、昼は外食ばかりなんでしょ?お弁当は、健康にも良くて、節約にもなるんだから。」
彼女は、もっと金銭感覚がおかしい奴だと思っていた。
俺は、偏見を持って彼女を見ていたことを、恥じなければいけないかも知れない。
「あっ、タクさん!もう体調はいいんですか?」
お昼休憩の為に、休憩室に行こうとした時、偶然、加賀ちゃんと一緒になった。
「もう大丈夫だよ!」
「今日はお弁当なんですね。私もそうなんで、ご一緒してもいいですか?」
「勿論!」
お弁当最高!
石崎、グッジョブ!
「でも、タクさんって独り暮らしですよね?自分でお弁当作るんですか?」
「ま、まぁね…。」
「凄いですね。私なんか、いい歳して、お母さんに作ってもらってるんです。朝起きれなくて…。」
そう言って顔を赤らめる加賀ちゃん。
その顔は、はっきり言って反則である。
そんなことを思いながら、俺は何気なく弁当箱の蓋を開けた…。
「…!」
そして、慌てて閉める。
「あっ!」
加賀ちゃんには、バッチリ見られたようである。
ハート型に切り抜かれた海苔が、御飯の上に乗っていたことを…。
「あの、こ、これはね…。」
「なーんだ、彼女に作ってもらってるじゃないですか。何で自分で作ったなんて言ったんですか?私、彼氏に作ってあげたことないですよ!いい彼女さんですね。」
思いもよらぬ形で、失恋確定である…。
その時、俺の携帯が鳴った。
石崎からのメールだった。
『タクちゃん、もうお弁当食べちゃった?言い忘れてたことがあったんだけど、他の人に見られると恥ずかしいから、お弁当は一人で食べてね、てへっ!』
絶対、確信犯だろ、これ!