怒りはいつも、少し前からそこにあった
歳とともに変わる心の余白を、そっと見つめ直すための一篇。
僕は最近、自分が以前よりも少しだけ、
切れやすくなったのではないか、と考えることがある。
たとえば、コンビニで列の順番を守らない人を見かけたとき。
あるいは、メールの件名を見ただけで要件が、
さっぱり分からない文面を受け取ったとき。
昔の僕なら、そういうことは午後の空に浮かぶ雲のように、
眺めているうちに自然と形を失っていったはずだ。
少なくとも、わざわざ足を止めて腹を立てるほどのものではなかった。
歳をとるというのは、実に面白い現象だ。
体力が落ちるとか、記憶力が衰えるといった分かりやすい衰退だけではない。
僕の場合、それは長年使い込んできたブレーキが、
少しずつ利きにくくなっているような感覚として現れた。
止まれと言われれば、もちろん止まることはできる。
けれど、完全に静止するまでに以前よりも距離が必要になってくるのだ。
その、削られてしまった「余白」の短さが、ときに怒りという摩擦熱を帯びて、
表にあふれ出してしまう。
前頭葉の機能低下だとか、脳科学的な説明はいくらでもつくのだろう。
しかし僕の実感としては、もっと単純に、
心の中の「空き容量」が減ったのだと思う。
若い頃の僕は、心の中にずいぶん広い、
がらんとした空き部屋を持っていた。
どうでもいい些末な出来事や、不完全な他人の振る舞いを、
とりあえずそこに放り込んでおくことができた。
しかし今の僕の心は、自分なりにきれいに整理整頓されている分、
余計なものを置くスペースが乏しい。
収まりきらない不快感は、そのまま外へこぼれ落ちるしかないのだ。
もう一つ理由があるとすれば、それは皮肉にも
「分かってしまう」ことにある。
経験を重ねるにつれ、物事の結末や、人の行動パターンが、
中盤にさしかかる前に見えてしまうようになった。
これは一種の生存能力ではあるけれど、同時に厄介な呪いでもある。
「それはうまくいかない」「たぶん後で問題になる」。
結末が分かっているのに、同じ過ちが繰り返されるのを見届けるのは、
古いレコードの同じ箇所で、何度も針飛びが繰り返されるのを、
聴かされているような心地の悪さがある。
そこには、静かな疲れも関係している。 若い頃の疲労は、
一晩眠ればあらかた蒸発していった。
けれど今は、疲れが澱のように心の底に沈殿していく。
気づかないうちに水位は上がり、
ある日、石ころ一つ投げ込まれただけで堤防を越える。
怒りというのは、たいていその瞬間に生まれるのではなく、
ずっと前から静かに準備されていたものなのだ。
それでも僕は、無闇に自分を責めないことにしている。
「最近、自分は切れやすくなった」という自覚があるうちは、
まだ自分を外側から冷静に眺める「もう一人の僕」が生きている証拠だからだ。
重要なのは、怒りをゼロにすることではない。
怒りという制御しにくいエネルギーに、
自分自身のハンドルを奪われないこと。今の僕はそう考えている。
夜、キッチンで丁寧にコーヒーを淹れ、
低く音楽を流しながら、今日一日の小さな苛立ちを思い返してみる。
豆を挽く音や、闇に溶けていく旋律の中で改めて眺めてみれば、
それらはどれも取るに足らない、ちっぽけな石ころに過ぎない。
そうやって一つずつ重さを確かめ、心の棚の奥へと戻していく。
僕のブレーキは、たしかに古びてしまった。
けれど、まだ壊れたわけじゃない。特性を理解し、
丁寧に扱ってやれば、これからもこの人生という道の運転を、
穏やかに続けていけるはずだ。
心の摩耗を言葉にすることで、ようやく呼吸が整う瞬間がある。この文章がその一助になれば嬉しい。




