せーか5
日本には『言わぬが花』という言葉がある。一般に『口は禍の元』や『舌禍』と言い換えられたりもする。私は、この言葉を実感する機会が人より多いと自負している。まぁ、何かと余計なこと・無駄なことを言いがちなのである。それこそ保険をかけるように自身の発言後に言う、あるいは和ませようと追加で言う。こういう事象をよく引き起こすのだ。
何せ、センスがないもので…
所謂こういう言葉だ。
「それは言わなくていいだろ。」
この言葉を今までで何度言われたことか、それを数えたことは一度たりとも無い。
それ以外にも『言わぬが花』を実感する時はある。
それが、気になったことをすぐに聞いてしまう、という所につまっている。良く言って好奇心。悪く言えば詮索癖。とでも言うべきなのだろうか。
本筋とは少し逸れるが、学校の教師を想像してほしい。
その時、その人が一部抜け落ちた情報を伝えた。そして、その抜け落ちたものは自分含めて他の者も忌み嫌っている"宿題"について、のことだったとしよう。ここで責任が生じるのは、情報を出し忘れた教師と、情報が他にないのかという確認を怠った生徒のどちらか。もちろん、こういうことを聞けば「双方に落ち度があるため、どちらにも責任がある。」そんな正論支持のリアリストも多くいるだろう。でも、そんなことを言ってしまえば大半の議論など意味はないし、面白さなんて微塵もない。
なので、この面白みのないものを弾いたうえで再度問おう。どちらに責任があるだろうか。
ここで持論を展開しておこう。
もし、生徒視点で責任の話を抜きにして正解を追及するなら「指摘しない」になるだろう。その場で指摘してしまえば、「あ、忘れていました。皆さん、○○を宿題でやってきてくださいねー。」という言葉を受ける。そうなれば、残るのは無くなったかもしれない宿題と、周りからの「何をしてるの?」という冷ややかな眼だろう。では逆に指摘しなければどうなるのか。当然のことだが、提出しなければならないという時に、言われていないがために無くなってしまった「それ」を提出しろというのは些か理不尽だ。ここでの対応は大抵2パターンしかない。1つはそのまま折れて昨日の分が流れる。もう1つは「言い忘れたが、君達なら分かったはずだろ?」と説教。言い換えれば、過去を修正の利かない点まで持っていければ、教師側は折れるか、相手を責めるしかなくなる。それならば可能性のある前者に賭けたい。要するに、指摘しないというのが答えであるというのは明瞭なはずだ。
しかし、ここでの問題は責任がどちらかだ。
私は、責任は生徒側にあると思う。所謂故意、過失の話だ。この場合は教師が過失、生徒が故意となる。そして故意と過失ならば、故意側に責任が生じるのは明白だ。理由はたったのこれだけ。単純に、ここの理由が薄いのは本筋と一切関係ないからである。
では、結局この例えで何が言いたかったのか。それは生徒間の正解の話だ。
"言わない"ことによって嫌なことから"逃れる"機会が生まれた。これはれっきとした『言わぬが花』ではないだろうか。私の詮索癖は、この「指摘しない」を、反射で「指摘する」に変えてしまう。
何度か直そうとしたのだがこれが直ることは無く、今も続いてズルズルと生きている。
そのため、私にとって『言わぬが花』は、最終目的地であり自身の対義語だ。
読んで頂き、有難う御座いました!!
一旦はこれで終いです。
「戻ろっかなぁ」と気が向いたうえで、アイデアがあったときに戻ってきます。
そのときは宜しく、ですね




